「日本史王」本郷和人のアート入門! 「茶の湯と薩摩」展 鹿児島・黎明館(上) 関ヶ原敵中突破の猛将が熱中した焼き物とは?

「日本史王」本郷和人です。僕は1988年に東京大学史料編纂所に入所して、30年以上、『大日本史料』の編纂をしてきた歴史研究者です。歴史が専門ですが、美術やアートについても素人ながらも大好きなのです。

前回の「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」(東京藝術大学大学美術館)に続いて、日本史好きな美術ファンに紹介したい展覧会があります。特別展「茶の湯と薩摩」(11月6日まで)です。会場は、鹿児島県歴史・美術センター黎明館。遠い? 遠いですよね。でも鹿児島に在住の方はもちろん、鹿児島に行く予定がある人はぜひとも見てほしいのです。

「後ろの山? はい、桜島です」

戦国時代の島津氏は無教養? とんでもない!

ある歴史系マンガを愛読していたという美術展ナビの担当記者さんは、戦国大名の島津氏を「無教養な田舎者」とイメージしていたそうです。マンガはフィクションなので、マンガの人物描写になにか言うつもりはありませんが、そう感じちゃう人もいるのかと思いました。
では、展覧会を見る前に、「日本史王」が島津氏について少し解説をしましょう。
「歴史の勉強?いやだなぁ」と思わないでください。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ている人は、「あの人物か!」「あのシーンはそれか」と思い出せるはずです。

特別展「茶の湯と薩摩」については記事の後半で!

島津家の祖は源頼朝のご落胤?

島津家の初代は、鎌倉前期の武士、島津(惟宗)忠久(?~1227年)です。源頼朝(1147~99年)と同じ時代に生きた人物です。それどころか、島津氏では、頼朝の庶子(正妻の政子以外が産んだ息子)であると伝えられてきました。

歴史を調べてみると、頼朝のご落胤ではないものの、伊豆に流された頼朝のそばにずっといた、年下の幼なじみであり、弟のような存在だったと見られます。

比企一族だった島津の祖

忠久が血のつながりのない頼朝と家族に近い間柄となったのは、安達盛長(藤九郎)と比企の尼が関係しています。
源頼朝は、父親が源義朝、母親は尾張(愛知県)の熱田神宮の宮司の娘です。1159年の平治の乱で平清盛に敗れた頼朝の父は尾張まで逃げ、そこで部下に殺されています。バラバラに逃げた頼朝も美濃(岐阜県)で捕まりますが、まだ幼かったため助命されて、伊豆(静岡県)へと流されました。

少年の頼朝が、伊豆で幽閉生活を送るうえで、家来として付き従ったのが藤九郎(安達盛長)です。出自はよく分からないのですが、どうやら尾張出身のようで、頼朝の母方の人脈から選ばれた可能性があります。

伊豆の頼朝を支援したのは、乳母だった比企の尼でした。比企一族の本拠は武蔵(埼玉県)で、伊豆からは距離があります。まだ10代の男の子を育てるのには、男手(藤九郎)だけでなく、女手も必要だったのでしょう、比企一族から、女性が送られることになります。

その時、選ばれたのが、比企の尼の娘「丹後内侍」です。丹後さんは島津荘(鹿児島県)の“職員”だった惟宗さんと結婚して子供を産んでいたものの、死別などなんらかの理由で、比企に子連れで帰っていた女性でした。そして、この子供が、島津(惟宗)忠久なのです。

頼朝は、忠久を弟のようにかわいがったことでしょう。そして、忠久の母の丹後さんは、藤九郎(安達盛長)と再婚することになります。

頼朝が挙兵したあとは、忠久も安達も御家人として出世します。忠久は、今の鹿児島県のかなり広い範囲を占める島津荘の地頭に、さらに薩摩(鹿児島県)、大隅(同県)、日向(宮崎県)の3国の守護にまで抜擢されます。なお、当時の島津荘という荘園のオーナーは、公家のトップ近衛家でした。

1199年に頼朝が死んだ後、2代将軍となったのは、北条政子が生んだものの比企一族が育てていた源頼家(1182~1204年)です。しかし、比企一族は1203年に、「比企氏の乱」で北条氏によって滅亡させられました。母が比企氏である忠久もこの乱に連座し、守護を改易されるなど、しばらく冷や飯を食うことになります。

ちなみに、比企氏の乱では、比企の娘と結婚した安達盛長は処分されていません。僕は、安達は比企と頼家を裏切って北条についたと、『吾妻鏡』の内容から考えていますが、それはまた別の機会に。

鎌倉時代の守護で江戸時代まで大名だったのは島津氏だけ

忠久自身はずっと伊豆や鎌倉に住んでいて、島津氏が九州に住むようになるのは、元寇(蒙古襲来)の時の3代の島津久恒からです。
鎌倉幕府は、御家人たちを各地の守護に任じていますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代と、同じ国の守護がずっと大名でいられたケースは、島津氏だけです。

島津氏は、鎌倉以来の歴史をものすごく大切にしていて、島津荘の元オーナー近衛家とも関係が続きます。室町時代以降になると、公家はさらに貧しくなり、京都にいるだけでは食べていけないので、公家トップの近衛家も、全国に散らばる元荘園を行脚し、公家の伝統である和歌や連歌、蹴鞠などの教養を地方の有力武士たちに教えてまわります。

そうしたこともあって島津氏は、武士としての歴史があるだけでなく、公家の文化や教養もかなりの高いレベルで身につけていたと考えられるのです。

外国文化は「西高東低」

一方で、日本の歴史は「西高東低」という傾向があります。外国の文物や情報が入ってくるルートは、ほとんど九州です。多くは博多経由ですが、戦国時代の南蛮文化は、鉄砲が伝来したのが種子島(鹿児島県)であるように、鹿児島県や大分県などが窓口でした。
つまり、戦国時代の島津氏は、伝統的な和様の文化や教養とともに、新しい文化に対して前向きな好奇心を持っていたというわけです。

特別展「茶の湯と薩摩」へ

島津家の重物として「八景釜」と並んで筆頭にあげられている「漢作肩衝 銘 平野」(中国・南宋~元時代 13~14世紀、尚古集成館)を見る本郷さんと深港さん

前置きが長くなりましたが、そんな薩摩が、千利休の「わび茶」を受容したら、どんな“化学反応”が起きたのでしょうか?
「日本史王」の僕も知らなかった美を巡る歴史が展開されていました。それを知ることができたのが、特別展「茶の湯と薩摩」です。担当した鹿児島県歴史・美術センター黎明館主任学芸専門員の深港恭子さんの案内で、僕なりに展覧会のレビューをしていきます。

主役は戦国の猛将 島津義弘

「島津義弘」コーナー会場風景

本展の主役をあえて挙げるなら、関ヶ原の敵中突破で有名な戦国武将・島津義弘(1535~1619年)ですね。
義弘は、島津氏15代の次男で、16代の兄義久を支え、数々の合戦の最前線で指揮をとった武将です。耳川の戦いでは大友宗麟を破り、沖田畷(なわて)の戦いでは龍造寺氏を討ち取り、あとわずかで九州統一を目前としましたが、九州に下った豊臣秀吉に敗れて降伏。この講和の場で行われた茶会で千利休と出会い、弟子となるほどにわび茶(茶の湯)に傾倒しました。

朝鮮出兵では、同じ九州の名門だった大友義統(よしむね、宗麟の息子)が消極的な戦いをして秀吉の怒りをかって改易されたのに対して、島津義弘は10倍もの明・朝鮮軍を破った泗川の戦いなどで武功をあげ、明や朝鮮軍からは「石曼子(しまず)」と恐れられるなど、猛将としての名を不動のものとしました。

なんといっても、有名なのは、1600年の関ヶ原の戦いで、西軍についたものの、敵中突破して退却。多くの兵を失いながらもそのまま薩摩へ帰還を果たし、逆にその名を轟かせました。西軍の武将は、処刑や改易は当たり前なのに、薩摩藩(兄が大ボス、息子が藩主)はなんと無傷で、義弘も地元に帰っただけ。
僕は、このときは徳川家康が九州まで遠征する余力がなかったので、リスクを避けたのが一番の理由と考えていますが、とにかく、義弘は「武の人」として知られています。

焼き物の創作に励む

さすがに関ヶ原の戦いのあとは、薩摩から出ることはなかったのですが、そこで義弘が熱中したのが、茶道具を作ることでした。なかでも、邸宅の一角に窯まで作って、焼き物作りに力を入れました。そして、利休の兄弟弟子である古田織部と手紙のやりとりをしながら、オリジナリティーのある焼き物を創り出しました。
その代表的なデザインが、円筒状の茶入れで、「薩摩肩衝」と呼ばれて、江戸時代に茶道具としてとても人気を集めました。

「肩衝茶入 銘 サイノホコ」(薩摩 江戸時代・17世紀前期 田中丸コレクション)を見る本郷さんと深港さん

茶入れとしては、縦に長くて異形ですが、とてもセンスが良いのです。こうした薩摩焼は販売されることはなく、贈答用でした。もちろん、単に希少価値があるだけではダメで、やっぱり見たときに「これはすごい」「美しいな」「欲しいな」と思わせるだけの美を備えていたわけです。

薩摩肩衝が並ぶ会場風景

利休が長次郎に黒楽茶碗を作らせたように、織部の志野焼、小堀遠州、金森宗和と、戦国末期から江戸初期にかけて、茶の湯は新しいデザインに挑戦する動きが起きました。でも、その後、個々の技術は高くなり洗練化されていくけれども、オリジナリティーを出そうという動きがぱたりと止まっちゃいますよね。

「薩摩肩衝茶入」(薩摩・御里窯 江戸時代・17世紀 個人蔵)

本展で、僕が「面白いな」って強く思ったのが、上の「薩摩肩衝茶入」。義弘の重臣だった新納家に伝来したもので、円筒状の「薩摩肩衝」のスタンダードのデザインとは異なり、下の方がだんだんと広がっています。義弘が新しいデザインを試行錯誤していた様子が頭に浮かんだからです。

重要文化財、長次郎「黒楽茶碗 銘 俊寛」(安土桃山時代・16世紀 三井記念美術館)
重要文化財「油滴天目」(中国・南宋時代 12~13世紀 
九州国立博物館) このレビューでは薩摩の茶の湯に焦点をあてていますが、展覧会は日本の茶の湯文化を展観できる内容です

(展覧会のレビューは続きます。次は、ヨーロッパで認められた美「サツマ」の世界を紹介します)

特別展「茶の湯と薩摩」
会期:2022年9月22日(木)~11月6日(日)
会場:鹿児島県歴史・美術センター黎明館(鹿児島市城山町)
開館時間:午前9時~午後6時(入館は午後5時30分まで)
観覧料:一般800円、大学生500円
詳しくは黎明館の展覧会公式ページ(https://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/chanoyu.html)へ

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