<城、その「美しさ」の背景>第21回「上田城二重櫓」 “徳川勢を退けた城”の上に新時代の意匠 香原斗志

尼ヶ淵の崖上に建つ西櫓

真田の痕跡は少しも残っていない

信濃国(長野県)の上田城は、本丸の南西側が15メートルほどの切り立った崖になっている。かつて尼ヶ淵とよばれた千曲川の分流がその裾を洗っていた河岸段丘で、上田城の本丸はこの尼ヶ淵を天然の堀とし、残り三方を水堀で囲んでいた。そして、尼ヶ淵を起点に本丸の三方を二の丸が囲んでいた(梯郭式縄張とよばれる)。

また、尼ヶ淵の西側の崖上には、上田城で創建当初から唯一、同じ場所に現存する2重2階の西櫓が建っており、いまは水がないかつての尼ヶ淵から眺めると壮観だ。本丸の東端に建つ南櫓も、同様に下から仰ぎ見ることができる。

尼ヶ淵の崖上にそびえるように建つ南櫓

このほぼ垂直な崖は、随所が継ぎ接ぎのように石垣で固められ、2重の櫓は黒い下見板が張られ、窓には古風な突上げ戸が取りつけられている。どことなく戦闘的で質実剛健なところに、戦国の気配を感じるかもしれない。

たしかに、上田城には戦国のイメージがある。天正11年(1583)に真田昌幸が築き、それから間もない同13年(1585)、徳川家康の軍勢を寄せつけなかった(第一次上田合戦)。さらには関ヶ原に向かう家康の嫡男、秀忠率いる3万8000の軍勢に1週間以上も足止めを食らわせ、肝心の合戦に遅参させている(第二次上田合戦)。

このように上田城は真田氏の城というイメージが色濃い。だからこそ、2016年にNHK大河ドラマ「真田丸」が放映された際、城内にもうけられた「信州上田真田丸大河ドラマ館」は、100万人もの入場者を集めたのだろう。

だが、じつは、現在の上田城に真田時代の痕跡はなにも遺されていない。秀忠の軍勢を足止めさせたというまさにその理由で、関ヶ原合戦が終わると、翌年前半までに徹底的に破壊されてしまったからだ。大坂夏の陣後の大坂城のように、石垣や土塁は崩され、堀はみな埋め立てられたと伝わる。

したがって現在の上田城はすべて、元和8年(1622)に小諸から上田に移封になった仙石忠政が再建してからのものなのだ。

破風も石落としもないシンプルな層塔型

豊臣秀吉政権のもとでは、上田城も関東に封じられた徳川家康包囲網の一環として、整備されたものと思われる。平成3年(1991)に行われた本丸堀の浚渫にともなう発掘調査では、昌幸時代のものと思われる瓦が大量に出土し、そのなかには金箔が残る鯱瓦の破片もふくまれていた。

過去には二の丸堀などからも金箔瓦が出土しており、本丸や二の丸には鯱や鬼瓦などに金箔をあしらった2重や3重の櫓(あるいは天守)が建っていたと考えられる。真田昌幸と信繁(幸村)は文禄3年(1594)年の伏見城普請などをとおして、最新の築城技術を修得したのだろう。

だが、関ヶ原合戦ののち、昌幸と信繁の父子は高野山へ配流された。もっとも、昌幸の嫡男の信之は東軍についたために真田領は安堵されたのだが、前述のように上田城は徹底的に破壊されてしまった。このため、信之は上野国(群馬県)の沼田城を本城としたうえで、上田城旧三の丸に居館を置いて藩政をおこなった。

その間、破壊された上田城は農地となったままで、信之は元和7年(1621)、幕府に再建を願い出たが却下され、翌年には同じ信濃国の松代に、5万石から10万石に加増されたうえで転封。代わりに上田に入った仙石忠政が、城の再建を申請して受け入れられ、寛永3年(1626)から工事がはじまったのだ。

本丸東虎口脇の巨大な「真田石」を積んだのも仙石氏

復興工事はかつての堀跡を掘り返すなどして進められ、真田時代の縄張はおおむね踏襲されたと考えられている。ところが、寛永5年(1628)に忠政が急死したために工事は中断。二の丸に建築が予定されていた櫓や門は建てられないままになった。藩主の居館も三の丸のものがそのまま使われ、本丸および二の丸に御殿は建てられなかった。

しかし、本丸には7棟の二重櫓と2棟の櫓門が建てられ、そのうちのひとつが前述の西櫓だ。2重2階で、平側(軒に並行な側面)が5間で妻側(軒に直角な側面)が4間と比較的大きく、2階は四方から2尺ずつ小さくなっている。いわゆる層塔型で、黒い下見板や突上げ戸は古風な印象をかもし出すが、あきらかに新時代の様式で建てられている。

本丸側から見た西櫓

また、屋根を飾る破風がなく、鉄砲狭間は切られているが、石落としはない。きわめてシンプルな意匠である。

シンプルな層塔型の西櫓

威圧的な見せ場が必死に守られてきた

現在、上田城の本丸には3つの二重櫓が建つ。西櫓は仙石氏の時代から建ちつづけているが、南櫓と北櫓は明治初期に解体されて払い下げられ、しばらく上田遊郭に移築されていた。昭和7年(1932)、所有者から市に買い取りが打診され、紆余曲折の末、同18年に再移築工事がはじまり、戦争で中断されたのち再開され、同24年に落成している。

移築された場所は本丸東虎口の両脇だが、それが2つの櫓がもともと建っていた場所かどうかは確認できない。とくに南櫓は、本丸の別の位置に建っていた可能性が高いという。

しかし、こと上田城の2重櫓にかぎって、再移築の場所が正しくなくても、元来の景観と異なることにはならない。というのも、本丸に建っていた7つの櫓は、いずれも大きさと形式が同じだったのだ。建つ場所によって入口や窓の位置は変わるが、それ以外は5間×4間という1階のサイズも、破風や石落としがない点も、2階の逓減率も同じだった。

当時、それぞれの櫓で意匠をあえて変化させるのが一般的だった。そんななか上田城は、一国一城令と武家諸法度で城の新規築造や修復に大きな制限が加えられたのちの再建だったため、幕府に遠慮して控えめな意匠にしたのだろうか。いずれにせよ、7つの櫓が同じ意匠だったのは、上田城の大きな特徴である。

したがって、遊郭として使われていた2つの櫓は、東虎口の両側にぴたりと収まっている。そして、平成6年(1994)には古写真などを参考に、東虎口櫓門と塀が往時と同じ工法による木造で再建され、本丸入口は往時の威容を取り戻している。

復元された東虎口櫓門
本丸側から見た東虎口櫓門。右に南櫓、左に北櫓

だが、やはり上田城の景観の白眉は、尼ヶ淵から見上げた光景だろう。左の現存する西櫓が平側を向け、右の遊郭から再移築された南櫓が妻側を向けている。同じ意匠の櫓どうしだが、こうして見せ方には変化がつけられている。

尼ヶ淵から仰ぎ見た南櫓。奥に東虎口櫓門、北櫓

また、崖面に継ぎ接ぎのように積まれた石垣にもわけがある。尼ヶ淵の崖面は、上から火山が崩壊した土砂など、火砕流に由来する粉塵、川の流れによって堆積した砂礫の3層で形成され、とくに真ん中の層がもろいため、大水のたびに崩れては、石垣が築きなおされてきた。享保年間(1716-36)には、川の流路を変える工事も行われている。

一見、荒々しい崖も、じつは絶え間ない苦労のあとなのだ。いい換えれば、敵を威圧する城内随一の見せ場を、こうして必死に守ってきた。そういう目で眺めると、この崖の建つシンプルな櫓が輝いて見える。

遊郭から再移築された北櫓
香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。