<城、その「美しさ」の背景>第20回「福山城天守」“いちばん新しい城”に相応しい厳格さと華麗な意匠 香原斗志

南東から天守を望む

戦前の印象と大きく異なっていた復興天守

昭和20年8月8日夜遅く、マリアナ諸島から発進したB-29爆撃機が広島県福山市上空に飛来して、市内各所に大量の焼夷弾を投下。市内はまたたく間に火の海になって市街の8割が焼失し、5重の国宝福山城天守も焼け落ちた。広島市に原子爆弾が投下された2日後のことで、日本がもう少し早く降伏していれば、と強く思わされる。

その後、昭和41年(1966)に福山市市制50周年の記念事業で、天守は鉄筋コンクリート造で復興したが、戦前の古写真にみる雄姿とは、印象がまったく違った。復興天守は窓もふくめて壁面が真っ白だが、戦前の写真はそうではなかった。南面と東面、西面はたしかに白漆喰の総塗籠だが、いずれの窓も枠と格子が黒っぽい。銅板が巻かれていたのだ。そして北面は4階まで全面に鉄板が張られ、さらに黒チャンという防錆塗料が塗られ、真っ黒だった。

天守ののちに復興された鏡櫓(鉄筋コンクリート造)と天守

最上階の外観も大きく異なっていた。戦前の天守は廻縁が風雨にさらされて傷むのを防ぐため、江戸中期以降に板で囲まれ、斜めに跳ね上げる戸がつけられていた。もちろん、板囲いまで再現する必要もないが、問題は板囲いを取り払ったときの姿である。

焼失前の福山城天守は、西面を除いて中央に1つずつ(東面は中央に柱があるのでその右側)に、装飾的な華頭窓が開けられていた。ところが復興された天守の最上階は、中央に廻縁への開閉式の出入口があり、その左右に2つずつ華頭窓があった。

壁面の鉄板を省略したことや、窓に銅板を巻かなかったことは、復興する際に予算や技術の問題もあっただろうからまだわかる。しかし、1つだった窓を2つにしたのは、設計者や行政サイドが主観的に見栄えを優先した、ということのほかに理由があるだろうか。

さらにいえば、最上階の壁面はその下までと異なり、壁を薄くして柱や長押を露出させた真壁だった。その形態自体は復興された天守にも踏襲されたが、もともと木部は白木が露出していたのに、復興天守ではすべて真っ白に塗られていた。そのほうが見栄えがいいと判断したのかもしれないが、そんな思い込みがあったなら、それも残念である。

本丸から仰いだ天守

大規模な近世城郭としては最後の築城

だが、幸いにも、令和4年(2022)8月の築城400年に向けて、その2年近く前から耐震補強を兼ねた改修工事が進められ、ようやく天守は戦前に近い姿を取り戻した。

もっとも重要な改修は、北側の壁面に鉄板を張ったことだ。鉄板も天守と一緒に焼失し、その形状はわからないと思われていたが、一部が福山市内に保存されていて、小さな鉄板をすき間なく張り合わせていたことがわかり、再現が可能になったのだ。

天守北面に張り合わされた小さな鉄板
黒い天守が映える

また、北面以外の窓も、銅板が巻かれていた戦前の色彩に近いものになった(近くで見ると銅でなくアルミではあるが)。最上階の華頭窓も、焼失した天守と同じ位置に開けられ、真壁の柱も黒く塗られた(華頭窓は木製なのに、柱はコンクリートに彩色しているだけなのが残念ではある)。小さな点でいえば、三角の千鳥破風にもうけられていた六角形の鉄砲狭間も再現されている。

破風に再現された六角形の狭間

天守のプロポーションも破風の形状もそのままなのに、こうした点をあらためただけで印象ははなはだしく異なる。

ところで、2022年に築城400年を迎えたのだから、福山城が築かれたのは元和8年(1622)ということになる。正確にいえば元和6年に築城がはじまり、同8年に終わった。大坂夏の陣、およびその後の一国一城令や武家諸法度の発布から7年後で、大規模な近世城郭としては最後の築城となった。つまり「あたらしい城」なのである。

そもそも福山は関ヶ原合戦以後、安芸国広島に居城を構える福島正則の領地だった。ところが、元和5年(1619)に正則は、城を無断で修復した武家諸法度違反で改易されてしまう。その後、広島には浅野長晟が入封し、旧福島領のうち南東部の10万石は分割して、徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成に与えられた。

福島正則の旧領をわざわざ分割し、大和国(奈良県)郡山から水野勝成を呼び寄せた背景には、あきらかな意図があった、毛利氏をはじめとする西日本の大名を監視、牽制する役割を、譜代大名の勝成に負わせたのだ。

勝成は福島正則の改易直後に備前に入ったが、しばらくは築城候補地を探し、最終的に海陸交通の要衝である福山(常興寺山)選んで、そこに城を築いた。福島正則が台風の被害に遭った城を修理する際に、幕府への断わりがなかったといって改易されたような時代である。築城に大きな制約が課されそうなものだが、現実には、10万石の大名の城とはとうてい思えないほどの大城郭が築かれた。

戦災で焼失し、復元された御湯殿(伏見城の遺構)と天守

最新の合理的な構造に優美な彩りが加えられた

水野勝成は現在の岡山県より西に配置された最初の譜代大名で、東を向けば岡山の池田、西を向けば広島の浅野、萩の毛利と、有力な外様大名が居並ぶなかに投げ込まれ、周囲を牽制するという重い責務を課せられた。だから、城も周囲の外様大名の居城に見劣りするわけにはいかず、幕府は特別な配慮をしたのだ。

元和5年(1619)に廃城が決まり、翌年から取り壊された伏見城から、松之丸御櫓、筋鉄御門、御湯殿をはじめ、数々の建造物が下賜された。また、幕府は城石垣奉行として花房志摩守と戸川土佐守を派遣するなどし、監視しながら築城を支援した。

その内郭は標高約24メートルの常興寺山の東、南、北側を高石垣で囲い、もっとも高い位置を本丸とし、その周囲に一段低く二の丸をもうけ、広大な内堀で囲んだ。そして本丸北を1段高くし、5重の天守を建てた。ほかに3重櫓が7基、2重櫓が16基も建ちならび、10万石どころか30万石級の威容を誇ることになった。

ただし、本丸北側は石垣で囲っているものの堀はなく、防御面の弱点となっている。幕府が制限を課したためといわれ、天守が大砲の射程にもなるため、国内で唯一、鉄板張りとなったのだ。

その天守は5重5階、半地下1階で、東南角に2重3階の小天守が接合する複合型だ。ただし、創建時には4重目の屋根だけが瓦葺ではなく板葺きだった。当時、将軍家の城を除けば5重天守の創建ははばかられる状況だったので、4重目の屋根が屋根として数えられるのを避け、名目上は4重としたのだ。しかし、その実、高さ26メートルあまりの堂々たる5重天守である。

そこから上階を規則的に逓減させながら積み上げた典型的な層塔型で、1階(1重目)平面は、平側(軒に並行な側面)が9間で妻側(軒に直角な側面)が8間。姫路城の14間×13間、松江城の12間×10間などとくらべて小さめだ。そのわりには5階(5重目)は5間×4間と大きい。1階が19.76×17.66メートルで5階が10.06×8.64メートルと、逓減率が史上もっとも高い天守だったのだ。

1階から5階まで同じ広さの身舎(中央部)を確保し、周囲の廊下状の入側(武者走りともよぶ)だけを縮小するという、最新の合理的な構造だった。このため小さな下階で大きな上階の荷重を支えることが可能になり、小さな天守台にきわめて重厚な天守を築くことができた。

しかし、合理的な一方で、今治城(それを移築した丹波亀山城)や小倉城のような破風のない初期の層塔型と異なり、下階から千鳥破風や軒唐破風で華麗に装飾され、窓には前述のように銅板が巻かれ、きわめて優美に彩られた。ルネサンス期のイタリアで、合理的で厳格なマザッチョの人体表現を土台に、フィリッポ・リッピが優美さを加えたのに似ている、といえば美術好きには伝わるだろうか。

伏見城から移築された古風な伏見櫓

福山城で忘れてはいけないのは、伏見城から移築されて現存する伏見櫓と筋鉄御門だ。とくに3重の伏見櫓は、2階の梁に「松ノ丸ノ東やく□」と刻まれ、伏見城松の丸東櫓を移築したことが確認できる。

平側が8間、妻側が4間半という長方形の1、2階に入母屋屋根をかけ、そのうえに4間四方の3階を載せた望楼型の櫓で、白漆喰の総塗籠だが、1、2階は柱や長押を浮き上がらせた真壁で、非常に品がいい。

伏見城から移築されたと伝わる筋鉄御門
左から伏見櫓、鐘櫓(現存)、筋鉄御門、天守

天守は層塔型天守の完成形で、伏見櫓は豊臣秀吉の時代を想像させる古風で格調高い望楼型。織豊時代から大坂の陣ののちの元和偃武までの20年余りのあいだに、日本の城は大きく発展し、変化を遂げた。そのスタート地点と到達点におけるそれぞれの美をいちどに愛でることができるのも、福山城の魅力である。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。