<城、その「美しさ」の背景>第19回「甲府城」 秀吉時代の力強い石積み、徳川時代の白亜の建築 共存の妙 香原斗志

関ヶ原以前のスタイルと徳川の城のハイブリッド
東京方面からJR中央線に乗って甲府駅に到着する直前、左手の車窓に壮大な石垣と白亜の櫓を眺めることができる。一方、駅の右手にも石垣と白亜の建造物が望める。もうおわかりとは思うが、中央線は甲府城を分断しており、甲府駅はかつての甲府城内に敷設されている。
とはいえ甲府城は、本丸を中心に南方の鍛冶曲輪、東方の稲荷曲輪や数寄屋曲輪など、現在、舞鶴城公園とされている部分に石垣がよく残り、整備も行き届いている。とくに平成元年(1989)までに舞鶴城公園整備計画が策定されてから、石垣の補修、櫓や門、土塀の復元が積極的に進められ、すぐれた景観がたもたれている。
その景観には、2つの見どころがある。ひとつは関ケ原合戦以前に築かれた、古いスタイルの石垣によって構成され、もうひとつは復元事業でよみがえった徳川の城としての景観である。
では、なぜ見どころが2つに分かれるのか。それを理解するために甲府城の歴史を概観しておきたい。
天正10年(1582)に武田氏が滅んだのち、甲斐国(山梨県)はいったん織田信長の領国となったが、本能寺の変ののちに徳川家康の支配下に。だが、このころは甲斐国の支配拠点は北方の武田氏館のままだった。
天正18年(1590)に家康が北条氏の領国だった関東に移封になると、豊臣秀吉から甲斐国を拝領した加藤光泰が築城を開始し、光泰の死後は浅野長政と幸長の親子がそれを引き継いで完成させた。それは明らかに、江戸の家康ににらみを利かせるための大名の配置だった。
だが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、浅野家は加増のうえ和歌山に転封となり、甲府城は徳川の城になる。
慶長8年(1603)に家康の九男で尾張徳川家の祖となる徳川義直が城主になり、義直が清州に移ると城番が置かれる。その後、2代将軍秀忠の三男で駿府城主だった徳川忠長の支城になり、ふたたび城番制が敷かれたのち、3代将軍家光の三男の徳川綱重が、続いてその嫡男でのちに6代将軍家宣になる綱豊が城主になっている。
宝永2年(1705)には5代将軍綱吉の側用人から出世して権勢を誇った柳沢吉保が城主になるが、享保9年(1727)にその嫡男の吉里は大和郡山へ転封となる。以後は甲斐国全体が幕府領になり、甲府城には甲府勤番が置かれた。こうした経緯からも、甲府城が江戸の西を守る前線基地として重視されてきたことがわかるだろう。
未熟な技術で積まれた大きくて力強い天守台
さて、ひとつめの見どころ、すなわち関ヶ原以前の石垣は、本丸やその東の稲荷曲輪や数寄屋曲輪に広範囲に残っている。事実、甲府城は広島城や岡山城、熊本城と並んで、関ヶ原以前の石垣がもっともよく残る。
石垣の新旧の見分け方だが、まず隅部が算木積みでなければ、関ヶ原以前に積まれたと思っていい。算木積みとは長辺が短辺の2~3倍ある直方体の石材を、石垣の隅部に、長辺と短辺を交互になるように重ねる積み方で、これが編み出されて石垣の強度は増した。しかし完成したのは関ケ原以後なので、石垣が築かれた年代を判定するうえで大きな目安になる。
ほかにも関ヶ原以前の石垣は、勾配がゆるく、あまり加工していない不整形な築石を積んだいわゆる野面積みで、築石同士のすき間も大きい。また、石垣の築造技術が未熟だったので、石垣上の平面がゆがんでいる。

だが、未熟だとはいっても、のちのような整形した石をそろえて積んだ石垣にはない凛とした美しさがあり、甲府城はそれが累々と築かれていて壮観だ。しかも、木が生えるにまかせている城が多いなか、整備が行き届いて立木が制限されているので、石垣がよく見えるのもいい。
そうした石垣のなかでも、とくに見どころが本丸の東に突き出て、どこから眺めてもひときわ高くそびえ立っている天守台である。南北約22メートル、東西約16メートルと大きく、同時期に築かれた広島城や岡山城とほぼ同じ規模だ。

また、長辺が短辺よりかなり長く、その長辺も東面より西面のほうが長く、平面は四角といっても台形で、各辺は糸巻きのように内側に湾曲している。このようにいびつなところも広島城や岡山城の天守台と共通しており、甲府城は石垣が整備されながら天守は建っていないので、こうした特徴がよく観察できる。

この天守台に天守は建てられなかった、という説が近年まで有力だったが、先に述べた整備事業の一環として行われた発掘調査で鯱瓦が見つかってからは、浅野氏が天守を建てた可能性が高いと考えられている。
それは安土城や豊臣大坂城の流れを汲み、広島城や岡山城と共通する望楼型の天守だっただろう。望楼型とは大きな入母屋屋根がかかった1重か2重の建物に上階を載せたスタイル。天守台がゆがんでいる場合、入母屋屋根のところでゆがみに見切りをつけ、きちんと整形した上階を載せることができる。
一方、のちに流行する層塔型は、上重まで相似形で面積を逓減させていくので、一重目のゆがみがいちばん上まで影響してしまい、ゆがんだ天守台には建てられない。
秀吉の時代、五重天守を建てることが許されたのは、広島城を築いた毛利輝元や岡山城を築いた宇喜多秀家ら五大老までで、浅野長政はそれに続く五奉行の一人だったので、甲府城天守は4重5階だった可能性が高い。広島大学名誉教授の三浦正幸氏はそう推定している。
徳川の城に共通する権威をまとった意匠
もうひとつの見どころは、古い石垣上に復元された徳川時代の櫓や門である。平成16年(2004)に完成した稲荷櫓は、発掘調査の結果のほか、古絵図や古文書、古写真などをもとに、徳川綱重時代の寛文4年(1664)に建てられた姿が伝統工法でよみがえった。


白漆喰の総塗籠で、北側に入母屋破風がかかった出窓、東側には切妻破風がかかった出窓がつき、それぞれ石落としを兼ねている。白亜の櫓も出窓型石落としも徳川の城に共通する意匠だ。また、北側の入母屋破風は2重目の入母屋破風と交差し、デザイン上のバランスがたもたれている。
稲荷櫓より以前に、薬医門である鍛冶曲輪門、高麗門である内松陰門と稲荷曲輪門は復元されていたが、平成25年(2013)には本丸南側の櫓門である鉄門も復元された。稲荷櫓と同様に白漆喰で塗籠られ、窓の上下に長押型がつくのは江戸城などと共通する。自然石を積んだ勾配がゆるい古式の石垣で固められた虎口と、徳川流の最新の櫓門の組み合わせ。それらが独特に調和した姿は、甲府城以外ではあまり観ることができない。


また、JR甲府駅を挟んで舞鶴城公園とは反対側も、発掘調査で石垣の一部が見つかった山手御門を中心に整備され、櫓門と高麗門とで四角い枡形虎口を形成する山手御門が、平成19年(2007)までに伝統工法で復元された。やはり徳川の城らしい白亜の城門だ。

この山手御門からも、そびえる天守台が眺められる。秀吉の時代の未熟ながら力強い石積みを征服した、徳川時代の白亜の建築。それは同時に、まだ体制が定まらない時代ならではのダイナミズムと、幕藩体制が確立したのちのスタティックなスタイルとの対比でもあり、それが重なって生じる力学的な美が甲府城の美しさでもある。