<城、その「美しさ」の背景>第18回「大洲城天守」 大河に映える優雅な姿 計算され尽くした意匠 香原斗志

左に台所櫓、右に高欄櫓を従えた天守

正確に復元できる数少ない城だった

伊予国(愛媛県)でいちばんの大河川、肱川。その対岸の地蔵獄とよばれる比高30メートルほどの丘にそびえる大洲城天守は、川越しに眺めると思わず声を上げてしまうほど美しい。明治21年(1888)に解体されてしまったこの天守は平成16年(2004)、116年ぶりに、しかも往時の工法による木造でよみがえった。

明治というあたらしい時代を迎えると、城は無用の長物となったばかりか、封建時代の遺物として、唾棄すべき存在とされてしまった。しかも、当時は文化財という概念もないから、どんどん破却された。

明治5年(1872)にいわゆる「廃城令」が発布され、全国の城は陸軍が管轄する「存城」と、売却用財産として大蔵省に引き渡される「廃城」に分けられた。存城は43で廃城が125(このほか68の陣屋も廃城に)。ただし、存城といっても、陸軍が軍用財産として利用する対象になっただけで、保存が決まったのとはわけが違う。いわば所管官庁が決められたにすぎなかったのだ。

大洲城は「廃城」とされたが、廃藩後も旧城内に県庁が置かれるなど統治施設として使われたため、天守をはじめとする建造物が、比較的長く残されたようだ。とはいえ、廃城になった直後から士族の役人たちが、愛媛県に外堀の払い下げなどを要求したため、城の敷地は次々と個人に払い下げられ、堀もすっかり埋められ、天守も個人所有になった挙句に解体され、4つの櫓を残すのみになってしまった。

台所櫓(手前)と天守

それから100年になろうという昭和59年(1984)、大洲市まちづくり委員会が発足し、天守復元に向けた動きがにわかに活発化する。当初は復元の専門部会が「鉄筋コンクリート造とする」と報告し、市民から「それなら反対」という声も上がったそうだ。

しかし、平成6年(1994)に遠江国(静岡県)の掛川城天守が木造で復元されると、その設計に携わった宮上茂隆氏を顧問に迎えて大洲城天守閣再建検討委員会が発足。材料もふくめてほぼ旧態どおりに復元できる、という宮上氏の言葉を得て、木造再建に向けて走りはじめたという。

宮上氏によれば、大洲城は往時の姿を正確に復元できる数少ない城で、史料が豊富なのがその理由だった。たとえば絵図。幕府が正保年間(1644-48)に各藩に提出させた「正保城絵図」のひとつ「伊予国大洲之絵図」(国立公文書館蔵)や、元禄五年(1692)に制作された「大洲城絵図」(大洲市立博物館蔵)には、各曲輪の規模や構造、建造物の姿図などが描かれていた。天守の規模や構造を伝える木製の模型(天守雛形)も残っており、柱や梁組などの内部構造も確認できた。

また、維新後も比較的長く残っていたのが幸いしたのだろう、天守を各方向から写した複数の写真があった。木造再建は建築基準法に抵触する部分が多いので、許認可だけで2年を要したそうだが、13億円の事業費に対して5億2800万円の寄付金が寄せられ、直径40センチ以上の檜と杉の提供を募ったところ、577本が集まっている。

およそ2年半の工事期間は、設計を委託した宮上氏の急逝など不測の事態に見舞われたが、4重4階の天守は平成6年9月1日に完成した。

原型は望楼型だった可能性もある

内部に入ると、中央に大きな心柱(通し柱)が据えられ、階段はそれを廻るようにかけられ、その周囲が一部、吹き抜けになっている。天守によくみられる急で上りにくい階段とはずいぶん異なる。

心柱の周囲に階段をめぐらせ吹き抜けに

だが、それは再建の際に手心を加えたものではない。姫路城と同様、上下2本に分かれた心柱が使われていたことも、それを廻るように階段が設置されていたことも、天守雛形で確認されている。それでも、2階から上の広さや高さはわからず、CGによる解析に古写真を重ね合わせるなどして、寸法を算出したという。しかも工事に着手したのち、個人宅からより鮮明な古写真が見つかるなどし、より精密な復元になったようだ。

天守の1階平面は、平側(軒に並行な側面)が7間で妻側(軒に直角な側面)が6間。高さは19.15メートルで、これまでに木造で復元された天守では最大だが、決して大きいとはいえない。だが、それにしては大きく立派に見えるのはなぜだろう。それを解明するために、この天守の歴史を少したどりたい。

この地にはじめて築城されたのは、鎌倉時代末期にさかのぼるが、近世城郭としての大洲城の原型を築いたのは、文禄4年(1595)に南予(伊予国南部)に封じられた藤堂高虎だと思われる。慶長5年(1600)に関ヶ原合戦の恩賞で、伊予一国の領主になった高虎は今治に築城し、大洲には養子の高吉を置いたが、同13年(1608)に高虎は伊勢国(三重県)津に移る。

翌年、5万3000石を封じられて淡路島の洲本城から大洲城に移ったのが、高虎とは懇意の脇坂安治だった。この保治が廃城になった洲本城から大洲城に、天守をはじめ主要な建築を移築したのではないか、という説が近年、有力である。

たしかに、淡路島の海岸に近い洲本から、材木を船に載せて瀬戸内海経由で肱川をさかのぼり大洲まで運ぶのは、それほど大変ではなさそうだ。また、前出の宮上氏が洲本城の天守台や周囲を計測したところ、大洲城の天守台および附属する台所櫓や高欄櫓の寸法とほぼ一致したという。

そうであるなら大洲城の天守は、その原型がどんなに遅くても慶長14年(1609)以前に建てられたことになる。その当時の天守はといえば、下の階から規則的に小さくしながら上の階を積み重ねる層塔型はまだ黎明期で、洲本城天守は、大きな入母屋屋根をかけた1重か2重の建物に物見を載せた望楼型だった可能性が高い。

しかし、復元された大洲城天守はどう眺めても典型的な層塔型である。この矛盾はどう解きほぐしたらいいのだろうか。

実際より大きく見せる絶妙のバランス

大洲城天守は、前出の心柱が3階で継がれているが、内部の構造も3階を境に異なっている。1、2階は、身舎(中央部)の周囲に廊下状の入側(武者走りともよぶ)がめぐっているが、3、4階は入側がなく1室で構成されている。また、3階は側柱(外壁に並ぶ柱)が2階よりもかなり多い。

要するに、2階建ての建物のうえに3、4階を載せた構造で、内部の構造は旧式の望楼型のものを受け継いでいる。したがって、そこをみるかぎり洲本城から移築されていたとしても、まったく矛盾しない。

大洲は肱川と主要な街道が交差する水陸の交通の要だった。とりわけ肱川は重要な交通路で、同時に大洲城の天然の堀としても重要だった。天守が建つ本丸西北隅は、そんな肱川が大きく蛇行する正面に位置し、川面から石垣が3段にわたって積み重ねられた頂点に天守がそびえている。

あきらかに肱川の川面と対岸から眺められることが意識されている。その際、天守をどのように見せるか、考え抜かれたに違いない。回答のひとつとして、もともとの構造は望楼型でありながら、最新の層塔型の意匠がほどこされた。さらには、この天守は軒の張り出しが非常に小さいが、高さと軒の長さをバランスさせ、小さな天守を大きく見せるための工夫だと思われる。

肱川対岸から眺めた台所櫓と天守
左右に櫓を従えた天守

破風の数も多い。1重目は北面と南面に三角形の千鳥破風が2つ並び(比翼千鳥破風)、東面と西面にも千鳥破風が1つずつ。2重目は配置を入れ替え、千鳥破風が北面と南面に1つずつ、東面と西面には2つずつ並ぶ。3重目は各面が向唐破風で飾られている。きわめて装飾的だが、一つひとつの破風は小さめで、これも天守の大きさとバランスさせ、実際よりも大きく見せるための工夫だろう。

また、壁面に下見板が張られているので、窓の色が壁の色に同化していて気づきにくいが、2重目のすべての窓は装飾性が高い華頭窓で、そこにも見られることを意識した痕跡がうかがえる。

2階はすべて華頭窓

ところで、先ほど明治に天守が解体されたのち、4つの櫓のみが残った旨を書いたが、天守に連結している2棟は、そのうちの2つである。

天守西側に渡櫓で連結されているのが、幕末の安政6年(1859)に再建された台所櫓で、現在、天守の入り口となっている。入り口が土間なのは、まさに台所だからだ。この櫓は2階の縮小率が平側と妻側とで異なるので層塔型ではなく、望楼型に該当する。だが本丸側は入母屋破風を省略し、肱川を望む北側だけ入母屋破風をもうけ、さらには妻を華頭窓で飾っている。

天守から見下ろした台所櫓。1階は肱川に面した側だけ入母屋破風なのがわかる
本丸側から見た天守。左が高欄櫓、右が台所櫓

一方、天守北側に渡櫓で連結されているのが、文久元年(1861)再建の高欄櫓で、こちらは2重の層塔型だが、外側の東側と北側は2階に高欄をめぐらせ、2重目の屋根を軒唐破風で飾っている。さらに東北隅に袴腰型の石落としがあるが、幅が狭くて事実上、機能しない。

高欄櫓の外側は軒唐破風、高欄、石落としと装飾三昧

要するに、小天守に相当する2つの櫓は、大天守の両翼で見栄を張らんばかりに装飾されている。大きく見えるように絶妙にバランスされた大天守を2つの櫓が引き立て、大洲城天守はなおさら美しい。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。