<城、その「美しさ」の背景>第17回「明石城三重櫓」 西国ににらみを利かせた鉄壁の構え 香原斗志

武家諸法度発布後に築かれた「あたらしい城」
全国に現存する天守は12にすぎない、というのはよく知られているが、三重櫓がいくつ現存するか、知っている人は少ないのではないだろうか。答えは天守と同じ12である。北から弘前城の丑寅櫓、巽櫓、未申櫓、江戸城の富士見櫓、名古屋城の西北櫓、彦根城の西の丸三重櫓、明石城の巽櫓、坤櫓、福山城の伏見櫓、高松城の月見櫓と艮櫓、熊本城の宇土櫓。
錚々たる城が並ぶなかで、明石城という名は比較的地味に響くかもしれない。だが、そこに全12のうち2つ、要するに6分の1が残っているのだ。しかも、これら白漆喰総塗籠による白亜の三重櫓は、端正な佇まいに装飾がバランスよく施されて、じつに美しい。
明石城はあらたな築城の機会が激減した大坂夏の陣以後に築かれている。もちろん、大名が勝手に築いたのではない。築城を決めたのは幕府であり、幕府の全面的な支援があればこそ、この美しさは実現された。
豊臣氏が滅ぶと、その翌々月の元和元年(1615)閏6月、幕府はいわゆる一国一城令を発布し、主として西日本の諸大名に対し、原則として居城以外の城は破却するように命じた。続いて翌月の武家諸法度で、新規築城が禁じられたばかりか、城を修理するだけでも幕府に届け出ることが義務づけられた。
そんななか、元和3年(1617)に信濃国(長野県)の松本から播磨国(兵庫県)の明石に移った譜代大名の小笠原忠真に、2代将軍徳川秀忠から直々に築城命令が下ったのだ。
もとはといえば、同じ播磨国の姫路城主だった池田家が鳥取に移封されたのがはじまりだった。姫路城は西国にいる豊臣恩顧の大名たちににらみを利かせるため、徳川家康の娘婿である池田輝政が52万石を得て居城にしていた。しかし、あとを継いだ利隆が病死。いったんはその嫡男の光政の家督相続が認められたが、わずか8歳では西国の押さえという重責を担うには心もとない。
そこで光政を鳥取に移し、姫路には伊勢国(三重県)桑名から本多忠政を15万石で移動させた。だが、忠政の領地は池田時代の半分以下。秀忠は西国の大名たちを押さえ、さらに大坂方面にも目配りをするためには、姫路城だけでは足りないと考えたのだろう。池田時代の領地を分割し、東側の明石に小笠原忠真を10万石で配置したのだ(さらに東の尼崎にも譜代の戸田氏鉄を5万石で入封し、城を築かせた)。
士族の保存運動のおかげで残った2つの櫓
元和4年(1618)、秀忠が築城を命じると、翌年正月に工事がはじまった。いわば、一国一城令や武家諸法度によって力を削がれた西国大名を、さらに押さえつけるための城である。じつは、姫路城主になった本多忠政は明石城主になる小笠原忠実の義父で、秀忠は築城に際し、忠政によく相談するよう忠真に指示していた。
石垣や堀などの土木工事はすべて公共事業として行われ、幕府は銀100貫目(いまの金額で30億円以上といわれる)を提供したうえで、3人の普請奉行を派遣。忠真の負担は櫓や門、御殿などの建築と外堀などの掘削等で済んでいる。堀や石垣の普請、すなわち土木工事は同年8月ごろには終わり、翌年4月には全体がほぼ完成したようだ。
それは外堀までふくめると姫路城に匹敵する、10万石の大名の城とは思えない大城郭だった。本丸は四隅に三重櫓が配置され、大きな天守台が築かれたが、結局、天守は築かれなかった。そして4つの三重櫓のうち、南面の高石垣上にそびえる2つが現存する。
明治14年(1881)、艮櫓が解体されてしまったのを機に、地元の士族たちによる保存運動が起き、明石城内郭は官有地のまま明石公園になった。こうして2つの櫓は守られ、内郭部分の石垣や堀は一部を除き、今日まで比較的よく保存されることになった。
東西90メートル超の土塀――その大半は平成12年(2000)の復元――で結ばれた2基の三重櫓は、JR明石駅のホームからも眺めることができる。右(東)が巽櫓、左(西)が坤櫓で、とくに巽櫓は寛永8年(1631)の火災で焼け、その後、再建されたと考えられている(坤櫓は伏見城から移築したものが残っている可能性も指摘されている)。

ともに1重目から3重目まで逓減させながら積み重ねた層塔型の3重3階で、遠くから眺めても気づきにくいが、じつは巽櫓に対して坤櫓のほうがひと回り大きい。

坤櫓は13番目の現存天守?
巽櫓から見ていこう。1階は屋根の棟に平行な平側が5間、棟に直角に接する妻側が4間。南の外側(三の丸側)正面に平側が向けられている。屋根は1重目の南側は弧を描く軒唐破風で、東側と西側は三角形の千鳥破風で、2重目の屋根の南側と北側も千鳥破風で飾られている。控えめながらバランスよく装飾されており、城内の側には窓がない。

一方、天守台のすぐ南にある坤櫓は、1階が平側6間で妻側5間。しかし、南の三の丸側を向くのは狭い妻側で、正面の寸法は巽櫓と揃えられている。遠方から眺めたときに2つの櫓が同じ大きさに見え、なおかつ視覚的な変化が与えられるように、景観上のバランスがとられているのである。

また、坤櫓は多くの破風で飾られ、その組み合わせも華やかだ。1重目の屋根は南側に軒唐破風、東側と西側に千鳥破風がもうけられている。2重目の屋根は南側に千鳥破風、東側に軒唐破風、そして北側は、軒唐破風のうえに千鳥破風が重ねられた飾られた珍しい意匠だ。4つの面がそれぞれ異なったスタイルで飾られているところも凝っており、さらには巽櫓とちがって、城内側にも窓が開かれている。


すぐ北側に天守台があり、東西25メートル×南北20メートルと、5重の天守が建ってちょうどいい大きさである。豊前国(福岡県)の小倉藩主だった細川忠興が息子の忠利に宛てた手紙に、明石城のために中津城の天守を譲渡する旨が書かれていて、天守を建てる計画はあったものと思われる。結果的に建たなかったのはなぜなのか、予算が尽きてしまったのか、事情はわかっていない。

だが、いずれにせよ、坤櫓が意匠を凝らした破風で華麗に彩られ、城内側すなわち裏側にもしっかりと窓を開けられていることから、この櫓が天守の代用を務めるものとして建てられたことはまちがいない。
これら2つの三重櫓は、南側の三の丸から立ち上がる高石垣のうえに築かれている。三の丸から5メートルほど石垣を積んだところに細長い帯曲輪があり、そこからさらに15メートルほど石垣が積まれた長大な壁面の左右に、前出したように白亜の土塀に結ばれて建っている。

ちなみに、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災では石垣が崩れ、あるいは孕みが生じるなど、現存するうちの19%に当たる3743平方メートルが被害を受けたが、2年足らずで修復された。櫓下の石垣が孕んでしまった巽櫓は、曳家工法でいったん櫓を移動させてから石垣が積み直された。
西国ににらみを利かせるために幕府直轄で講じられた鉄壁の守り。その余裕の構えが明石城の美につながっているが、それを今日に伝えるために、数々の努力が重ねられている。