<城、その「美しさ」の背景>第16回「今治城」 シンプルで堅固、「徳川の城」の標準形 香原斗志

外観復元された御金櫓

藤堂高虎が海辺に築いた城

築城の名手といって、加藤清正とともに真っ先に名前が挙がる藤堂高虎。自分のために築いた城のほかに、とくに徳川政権下では膳所城、伏見城、江戸城、駿府城、篠山城、名古屋城、丹波亀山城、二条城、和歌山城、大坂城……と、幕府が戦略的に築いた城のほとんどで、縄張りなどを手がけている。

このように、築城に関して幕府の圧倒的な信頼を得ていて、徳川の城の意匠の多くは、高虎の考案によるといっていいほどだ。そんな高虎流の築城術の原型になったのが、伊予国(愛媛県)に瀬戸内海に面して築かれた今治城だった。

何度も主君を変えたのちに豊臣秀吉の弟の秀長に、秀長亡きあとは秀吉に仕えた高虎は、秀吉のもとですでに伊予3郡7万石の大名に取り立てられていた。そして、秀吉が亡くなると徳川家康に仕え、関ヶ原合戦の軍功で伊予半国20万3000石の大大名に抜擢。慶長7年(1602)、今治城の築城に取りかかった。

高虎は伊予国を、あまり仲がよくなかった加藤嘉明と分け合っていて、両者の領地は一部、モザイクのように入り組んでいた。また、瀬戸内海の対岸の広島には豊臣恩顧の大名の代表格である福島正則がいた。既存の国府城では心もとないと判断し、瀬戸内海の交通の要衝だった今治の海辺に、あらたに城を築くことになった。

海上交通の要衝に築くのだから、港を抱え込むような設計にする必要がある。しかし、海辺の砂地は地盤が脆弱だ。そこで高虎は、石垣と堀が接するところに犬走とよばれる細長い平地をもうけ、地盤を補強。壮大な城を築くための足がかりとした。

復元された武具櫓。石垣と堀の間に犬走があるのがわかる

広い堀と高い石垣に囲まれたシンプルな構造

では、高虎らしさはどこに表れているのだろうか。

今治城は戦略的に、あえて海岸沿いの平地に築かれている。それ以前の城の多くが、少なくとも微高地にあったことからもわかるように、もともと平地は軍事的に不利とされる場所だった。だが、高虎はそこに外堀、中堀、内堀と三重の堀で囲まれ、北側は海に面した輪郭式の城を築いた。そして、城の中心部の輪郭は正方形が基準になっている。

天守の上から見下ろすと、海岸に築かれたこと、輪郭がシンプルなことがわかる。左から山里櫓、武具櫓、鉄御門の枡形

豊臣の時代までは、方形の縄張りであっても長方形がふつうだったが、今治城の縄張りは正方形ベースで単純明快。迷路のような複雑な通路も無縁である。その代わりに城内の土地は広く活用できる。この効率性の追求が高虎らしさを象徴している。

もちろん、効率性を追求して、防御のうえで弱点が生じてしまっては仕方ないが、そこは高虎に抜かりはない。

現在、今治城には三重の堀のいちばん内側の内堀と、それに囲まれた本丸や二の丸の敷地が残っていて、内堀の幅は50~70メートルにおよぶ。これは弓矢の射程距離を上回っているが、一方、城内から鉄砲で敵を狙い撃つことができる距離でもある。また、石垣の高さは9~13メートルと、砂地に立つことを考えると驚異的だ。前述の犬走のような工夫によって、それを実現している。

この時代、石垣の構築術をはじめ城を築くための基礎技術は日進月歩で高まっていた。それを前提に、シンプルな造りの堅固な城を効率よく築くのが高虎流で、敵を寄せつけない広い堀と高い石垣があるなら、構造は単純なほうがいいという割り切りが見られる。

広大な内堀に囲まれた今治城の内郭。左から武具櫓、天守、山里櫓

事実、今治城を皮切りに、駿府城や篠山城、名古屋城や二条城など、徳川幕府が築いた城の多くに、同様の正方形の縄張りが採用されている。また、地形の関係から正方形にはできなかった江戸城や大坂城にも、圧倒的な高石垣と広大な水堀が継承された。

高虎が今治城で開始し、徳川幕府の城にとってスタンダードになった要素は、ほかにも複数ある。

まず桝形虎口である。たとえば江戸城も、徳川が再建した大坂城も、城の虎口すなわち出入口のほとんどが枡形になっている。枡形とは石垣(または土塁)で囲まれた四角形の空間を設け、内側と外側に2つの城門をもうけた出入口のこと。2つの城門の位置をずらして敵がまっすぐに進めないようにしてあり、また敵を枡形内に閉じこめ、殲滅することもできる。

内郭の正門である鉄御門は典型的な枡形虎口で、枡形を取り囲む多門櫓と二の門である櫓門が平成19年(2007)に木造で復元されている。土橋で内堀を渡ったところにあった一の門の高麗門は欠けたままだが、かつての堅固な枡形が再現されている。枡形虎口自体ははじめて登場したわけではないが、これほど明確な形状は今治城以前には見られない。徳川系の城郭で多用された枡形虎口は、今治城にはじまったと考えられているのだ。

さらにいえば、今治城では本丸の周囲や鉄御門のような主要な門の周辺は、高石垣のうえに長屋のような多門櫓を配置して、絶対に超えられない城壁を築き、単純な構造を補っている。これものちに徳川系の城郭の標準仕様になっている。

江戸城や名古屋城、大坂城の原型

もうひとつ忘れてはならないのが層塔型天守である。下の階から上の階に向かって、床面積を少しずつ規則的に小さくして積み上げる単純な層塔型天守は、今治城にはじまったといわれる。

それまで天守といえば、大きな入母屋屋根がかかった建築のうえに望楼を載せた望楼型だったが、高虎は今治城に、下の階から規則的に積み上げた単純構造の層塔型天守を出現させた。この構造のほうが用材を規格化でき、工期が短縮され、移築も容易で、以後、全国の天守は一転して層塔型が主体になっていく。名古屋城天守も、徳川が再建した大坂城天守も、江戸城天守もみな層塔型で、その原型は今治城に見いだせる。

山里櫓(左)と模擬天守

この天守は慶長13年(1608)、高虎が伊賀と伊勢に移封になった際、伊賀上野城に移築されるはずだったが、結局、慶長16年(1611)に天下普請で築かれる丹波亀山城の縄張りを高虎が担当したとき、そこに天守として献上している。

5重5階で、記録によれば1階の床面積は9間4尺四方で、5重目の3間四方まで少しずつ面積が小さくなっていた。明治5年に撮影された亀山城の古写真には、最上重の入母屋破風をのぞいて破風がまったくない層塔型天守が写っている。

ところが、いま今治城の本丸に建つ鉄筋コンクリート造の天守は、なぜか2重目に大きな入母屋屋根がある望楼型だ。

今治城の天守が丹波亀山城に移築されたという記述は、すでに昭和42年(1967)に『宗国史』や『高山公実録』などの史料に確認されていた。それなのに昭和55年(1980)に再建された天守には、残念ながら、亀山城天守の姿が反映されなかった。しかもこの天守は、本丸北隅櫓のあとに、石垣を改変したうえで建てられたというシロモノだ。

むしろ今治城で目を向けてほしいのは、再建された櫓群だ。まず昭和60年(1985)、二の丸東隅の御金櫓が古写真をもとに鉄筋コンクリートで外観復元され、平成2年(1990)には二の丸北西隅の山里櫓が木造で復元。そして平成19年(2007)には先述した鉄御門とそれを取り囲む多門櫓とともに、二の丸北東隅の武具櫓が史実に忠実に復元されている。

広大な堀の向こうにそびえる高石垣と、そのうえに並ぶ櫓と多門櫓。これが名古屋城や江戸城、大坂城の原型なのだ。そして、武具櫓をはじめとする層塔型の2重櫓を大きくしてさらに積み重ねた姿が、ここに誕生した初の層塔型天守と重なると思って、そう遠くはない。

左から復元された多門櫓、鉄御門、武具櫓、多門櫓。奥に天守

いまある天守は残念な姿をしている。しかし、徳川幕府が築いた大城郭にみられる、広大な堀と高い石垣、白亜の建造物に、日本の城らしさと美があるとするなら、その原型は今治城に見いだせるのだ。

ちなみに、今治城の堀には海水が引かれていたが、いまも内堀は海につながり、コイではなくボラやクロダイが泳いでいる。また、石垣の築石に混ざっている大理石も見ものである。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。