<城、その「美しさ」の背景>第15回 「大坂城天守(大阪城天守閣)」 “最も長く建っている”再建天守 その価値と論点 香原斗志

西の丸から望んだ天守閣

ほかの城にない存在感の理由

いま建っている「大阪城天守閣」には、ほかの城にはない存在感がある。昭和6年(1931)に復興されてからすでに90年以上が経過し、風格が出てきたこともあるだろう。事実、平成9年(1997)には、鉄筋鉄骨コンクリート造でありながら、国の登録有形文化財に指定されている。

だが、「存在感」がある最大の理由は、江戸時代が終わるまでの歴史のなかで存在したことがない建築だからだ、といわざるをえない。

「大阪城天守閣」とよばれる復興天守が建ったきっかけは、大正14年(1925)に大阪市が、面積でも人口でも東京市を抜いて日本一の大都市になったことだった。翌年、大正天皇が崩御して昭和と改元されると、当時の関一大阪市長は「大大阪」を象徴するモニュメントが必要だと考え、大阪城公園の設置と天守の復興が計画された。

ただ、そのころ大坂城内には陸軍第4師団の司令部が置かれていたので、交渉が必要だった。師団司令部は本丸を公園として開放することを認めながら、新たな庁舎の建設を求めるなど難題も吹っかけてきた。しかし、市民からの寄付が目標の150万円に達したこともあって、現在、複合施設「ミライザ大阪城」になっている司令部の新庁舎を市が建てたうえで、公園を整備し、天守を再建することができた。

その際、大大阪の象徴として復興される天守は、大阪が繫栄する基礎を築いた豊臣秀吉時代の天守であることが大前提で、『大坂夏の陣図屏風』に描かれた大天守をモデルに設計された。こうして、1重目と3重目に大きな入母屋屋根をいただき、4重目の屋根の上部の壁面に虎、そのうえの廻縁のうえの壁面に鶴の彫刻があしらわれた、巨大な望楼型の天守が建てられた。

本丸から天守閣を仰ぐ

しかし、この「大阪城天守閣」が載る天守台は、大坂夏の陣後に徳川が築いたもので、秀吉の天守が載っていた天守台とは位置もサイズもまったく異なっていた。

 

秀吉の大坂城は地下に埋まっていた

そのようなものが建ったのも、90年前としては致し方ないところがあった。当時は、大坂城は大坂夏の陣で灰燼と化して天守も焼け落ちたが、石垣は残って、そのうえに徳川があらたに天守や櫓を建てたと理解されていた。だから、いまある天守台上に秀吉の天守を復興させることに、違和感を覚える余地がなかったのだ。

ところが、昭和34年(1959)を機に、驚くべき事実が明らかになっていく。

この年からはじまった大坂城総合学術調査で、石垣には江戸期に工事を負担した大名のものとみられる刻印が多数見つかった。また、ボーリング調査を行ったところ、本丸の地下7.3メートルの位置から石垣が発見されたのだ。しかも、その石垣は小ぶりの築石がほとんど加工されずに野面積みで積まれていて、地上の石垣とは明らかにちがう。

翌年、さらなる発見があった。徳川幕府の京都大工頭だった中井家から、豊臣時代の「大坂城本丸図」が見つかり、そこには石垣の高さや長さのほか、天守や御殿など建物の平面図も詳細に記されていた。そして、前年に発見された地下の石垣は、この「本丸図」に描かれた「中の段帯曲輪」の石垣の位置と重なった。

昭和59年(1984)にも、天守台東南の地下から高さ6メートルの石垣が見つかった。こちらは前回見つかった石垣より浅い地下1.1メートルの位置にあり、「本丸図」で「中の段帯曲輪」の内側にあって一段高い「詰めの丸」の石垣の位置と一致した。「本丸図」によると、この「詰めの丸」には秀吉や正室の北政所が住む奥御殿が建ち、その北東隅に天守がそびえている。

こうした発見が重なってわかったのは、現在の大坂城は豊臣の大坂城のうえに盛り土をして、まったくあたらしく築かれた城だった、という事実である。大坂冬の陣ののちに埋められた外堀を掘り返したり、内堀を豊臣時代よりもはるかに広く深く掘ったりし、その土で本丸を中心に、場所によっては10メートル以上も盛り土をしていた。

そこに最新の築城技術をもちいて、秀吉の大坂城をはるかに超えるスケールで、徳川の大坂城が築かれていたのだ。

広大な南外堀と六番櫓

現在、大坂城は広大な二重の堀と高い石垣に囲まれ、そのスケールは圧倒的だ。たとえば南外堀は約2キロにわたって続き、もっとも広いところは幅が75メートルもある。その対岸にそびえ立つ屏風折れの石垣も、堀底からの高さはおよそ30メートル。その石垣上に現存する六番櫓は高さ15.4メートルで、現存12天守とくらべても備中松山城、丸岡城、丸亀城、弘前城より大きいのだが、堀や石垣のスケールが大きすぎて、むしろ小さく感じられる。

南西から内堀越しに天守閣を眺める

こうしたすべては、徳川幕府の指示のもとに各大名が天下普請で、持ち場を分担しながら築かれていた。秀吉は大坂城を築くことで、主君の織田信長超えを演出した。同様に徳川家も豊臣家を滅ぼしたのち、こうして豊臣超えを演出し、将軍家の力と権威を世に示そうとしたのである。

したがって、天守台の大きさもまったく違う。いまの天守台の北東に堀に面して建っていた豊臣時代の天守は、1階の平面は平側(軒に並行する側面)が12間、妻側(軒に直角の側面)が11間だったのに対し、徳川の天守は平側17間、妻側15間と、かなり大きかった。天守本体の高さも、秀吉のものが30メートル程度だったのに対し、徳川のは44.8メートルと、江戸城天守と並んで天守の歴史上、もっとも高かった。

要するに、豊臣家をはるかに凌駕する徳川の権威を演出した巨大な天守台のうえに、豊臣時代の天守を再現しようとして建てられたのが、いまの「大阪城天守閣」なのだ。

豊臣の天守とも徳川の天守とも異なる

豊臣時代の天守は5重6階、地下2階だったと考えられ、その姿はいくつかの屏風絵に描かれている。その代表的なものが「大坂城図屏風」と「大坂夏の陣図屏風」だ。前者を見ると天守外壁は黒漆塗りで、そこに金色に装飾された菊紋や桐門などの大きな木彫がぎっしりと飾られている。また、2重目と3重目に大きな入母屋屋根がクロスするように置かれた望楼型で、最上重は正面に妻側を見せている。

一方、後者に描かれてた天守も望楼型だが、大きな入母屋は1重目と3重目で、最上重をふくめ3つの入母屋はすべて平側を正面に向けている。また、壁面に木彫りは飾られておらず、前者にくらべると簡素な印象を受ける。姿がだいぶちがうので、伏見城が倒壊した慶長元年(1596)の大地震で大坂城の天守も被害を受け、建て直された可能性も指摘されている。

だが、いずれも壁面には黒漆が塗られていたと考えられ、「大阪城天守閣」とは印象がかなり異なる。

一方、寛永3年(1626)に完成した徳川による天守は、5重5階、半地下1階の典型的な層塔型で、外観は白亜の総塗籠。小さな千鳥破風が数多く飾られ、5重目の屋根だけが銅瓦葺きだったようだ。

問題は現在の「大阪城天守閣」が豊臣時代の天守とも、徳川時代の天守とも、姿が大きく異なるため、むしろ過去の景観を想像するうえで邪魔になっていることだ。

ただ、豊臣時代の天守は、建て替えがなかったとしても創建から30年余りで焼失し、徳川時代の天守も寛文5年(1665)に落雷で焼失し、創建から40年ももたなかった。結果的に「大阪城天守閣」がもっとも長く居座っているので、すでに別種の歴史的価値が生じている。ある種のランドマークとして、受け入れるしかないのかもしれない。

北西から内堀越しに眺めた天守閣

そうであっても、豊臣期の天守を想像するなら、図屏風や復元図をもとに想像をたくましくするしかない。一方、徳川の天守を思い浮かべるに当たっては、既存の櫓や門を眺めるという手もある。

たとえば、大手門に向かって左側の石垣上に構える千貫櫓。元和6年(1620)に建てられたこの層塔型の2重櫓は、1階平面が平側8間、妻側7間と、現存12天守の多くを超えるサイズで、城の正門の脇で幕府の権威を誇示している。「大阪城天守閣」の大きさに千貫櫓のシンプルな威圧感を重ね合わせると、徳川時代の天守の姿を想像しやすいように思う。

大手門(右)と千貫櫓
千貫櫓の内部
香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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