<城、その「美しさ」の背景>第14回「松前城天守」  最後の日本式築城、はかなき運命 香原斗志

本丸から眺めた天守

戦後まで残っていたのに焼失

函館から南西に100キロほど。松前半島最南端の海を見下ろす台地のうえに松前城は築かれている。この台地の名からとった福山城が正しい呼び名だが、備後(広島県)の福山城と区別するためにも、当初から松前城とよばれることが多かったようだ。

いま本丸の東南隅に3重3階の三重櫓、すなわち事実上の天守が建っている。昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものだが、じつはオリジナルの天守が明治期の取り壊しを逃れ、太平洋戦争の空襲にも遭わず、昭和24年(1949)まで残っていた。

戦時中に空襲を免れるために偽装網で覆っていたところ、網がふくむ水分のせいで壁がはがれ落ち、ひどい状態になってしまったので、ちょうど修理に着手するところだったという。すでに作業小屋が建ち、明日には足場を組もうとしていた昭和24年6月5日午前1時すぎ、町役場の当直室から出火。役場と周囲の建物を焼き尽くしたのち、火は天守に回ってしまった。

折悪しく、しばらく雨が降っていなかったため内堀にも水がなく、海水をくみ上げ、リレーで放水したそうだが、残念ながら天守は焼け落ちてしまった。

ただ、このオリジナルの天守は焼失したとき、創建されてからまだ100年も経っていなかった。というのも、松前城が完成したのは、すでに日米和親条約も締結されたのちの安政元年(1854)9月末なのである。

それ以前にも、城に準ずるものはあった。

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦ののちに蠣崎慶広が外様大名に準ずるかたちで蝦夷地の領有と、松前姓を名乗ることを認められたが、蝦夷地では米がとれないので所領の石高表示ができない。城持もしくは城持並大名と認められるためには、最低1万石以上の石高が必要なので、松前慶広は城郭を構えることを許されず、福山館とよばれる陣屋を構えることになった。これを事実上の城とよべないこともない。ただ、天守や櫓はもちろんのこと、本格的な堀や石垣もなかった。

幕末にあたらしく築かれた旧式の城

それから時が下ること2世紀半。17代目の藩主になったばかりの松前嵩広は、幕府から突然、念願の城持大名への格上げを告げられ、城を築くことを認められた。南下政策を進めるロシアの船が蝦夷地沿岸にたびたび姿を見せるようになっていたため、沿岸防備のために城が必要だ、というのが幕府の判断だった。

では、どんな城を築くか。縄張り、つまり設計を依頼されたのは、当時の日本三大兵学者のひとりで高崎藩に仕えていた市川一学で、息子の十郎を連れて松前にやってきた。一学は領内をくまなく歩いた結果、前が海で後ろはすぐ山という松前の地勢は防御上問題があるので、箱館の背後への築城を勧めたが、松前藩士たちが納得しなかった。結局、福山館がある場所に、既存の建物をなるべく利用しながら築城することに決まった。

こうして、最後の日本式築城のひとつといわれる松前城が、安政元年に完成したのである。

時代の変化を象徴する設備もあった。三の丸の海に面した断崖のうえには、屋根のついた7基の砲台が並んでいた。また、既存の技術を応用した工夫も、あちこちにみられる。海側の城壁は複雑に曲げられ、横矢(側面からの攻撃)が自在にかけられるようにしてあり、城門も桝形を複雑に変形するなど、江戸軍学の最後の輝きがみられる。

砲台の址(五番台場)
復元された搦手二の門と折り曲げられた石垣

石垣も石材の加工技術が進み、整形した石をすき間ができないように積み上げる切込みハギが中心で、しかも積石を六角形に加工した亀甲積みが随所で見られる。これは冬季に石垣内の土砂が凍結して膨張して石垣がはらんだり、春に溶けた土砂が石垣のあいだから漏れ出たりするのを防ぐ意図もあったようだが、同時に、砲弾が食い込むすき間をつくらないという狙いもあったという。

亀甲積みの本丸御門石垣

とはいえ、事実上の天守や櫓が建ち並ぶ城の外観は、外国船に備える城郭にしては、いかにも古いものだった。白漆喰総塗籠の天守は、船の目じるしとして灯台の代わりとしての役割も負わされたようだが、外国船からすれば恰好の標的だっただろう。

それでも、この天守はさまざまな特殊事情が重なった結果として、ほかの城の天守にない独特の美しさをたたえている。

完成から20年で廃城というはかなさ

3重3階の天守は、層を重ねるほど床面積が規則的に小さくなる層塔型で、前述のように壁面は白漆喰で塗り籠められている。

石垣から見ていこう。さきほど述べたように、亀甲積みに近い切込みハギで積まれた天守台の石垣は、石材に緑色凝灰岩が使われ、整然とした石積みと色彩が相まって美しい。また、天守は天守台の天端(上端)いっぱいには立っていない。天守台の内側に石で小さな台をもうけた二重構造になっていて、天守の周囲には犬走ができている。

各階の壁面は江戸城の櫓群や宇和島城天守と同様、窓の上下に長押がめぐらされ、アクセントになっている。その壁面は、海に面した側には船からの艦砲射撃に耐えられるように鉄板が埋め込まれていた。備後の福山城は防御上の弱点だった北側の壁面に鉄板が張られていて、このたびの改修で外観復元天守にそれが再現されたが、蝦夷の福山城は鉄板を壁のなかに隠していたのである。壁のなかにはさらに、万が一のときの食糧への配慮として、干わらびまで埋め込まれていたという。

特徴的なのは屋根だ。寒冷地の北海道では凍害に弱い瓦は葺けない。しかも、海風をまともに受ける場所に建っているからなおさらだ。そこで銅板が葺かれているが、屋根だけでなく軒裏もすべて銅板で覆われ、窓にも銅板があしらわれている。

3重目の入母屋破風を除き、屋根に破風は設けられていない。だが、緑青による濃緑の屋根や窓はシンプルだからこそ美しいともいえ、白漆喰との対比が鮮やかだ。しかも、この濃緑色は石垣の緑色と呼応して調和のとれた美しさをかもし出している。

復元された内堀と天守
復元された堀、塀と天守

現在の天守は耐震性の問題が指摘され、震度6程度で倒壊の危険があるという。このため松山町は平成30年(2018)12月、天守を木造で復元する方針を決めた。ただ、松山町の一般会計50億円に対し、復元の事業費は30億円。国の補助制度や寄付などでうまく補えるといいのだが。

天守に続いて建つ本丸大手御門は、幸いにも昭和24年の火災を免れて現存している、この門も屋根は銅板葺きで、鏡柱や門扉にも銅製の金具が撃たれている。亀甲積みの石垣も美しい。だが、不思議なことに、正面から見ると通常の櫓門で、門扉の手前には石落としも備わっているが、背面から見ると屋根が石垣のところまで下りていて、壁面がない。

本丸御門と天守
背面から見ると渡櫓がない本丸御門

松前城はかなりの予算不足のなかで築かれた。そこで防御のためには必ずしも必要でない背面を省略して木材を節約したらしい。天守に破風がないのも、同様の理由によるものだろう。しかし、結果として天守にも門にも個性が生じている。

だが、私が松前城を眺めて、いつもいちばん思うのは、やっと城持大名になって時代遅れの城郭を嬉々として築いた松前嵩広の心中である。よろこびも束の間、時代は激しく変化し、それから20年も建たずに松前城は廃城になる。そのはかなさが、この城の美しさに色を添えているように思う。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。