<城、その「美しさ」の背景>第13回「小田原城天守と銅門」 江戸の守りの要、その権威と威容 香原斗志

災害と復興を繰り返した「将軍家の城」
小田原城は一般に思われているよりもずっと特別な城である。戦国時代は北条氏の本拠地として東日本最大の規模を誇り、豊臣秀吉に攻められる可能性が高まってからは、城下全体を周囲9キロもの防塁で囲むという、ヨーロッパの城塞都市にもたとえられる構えになった。
また、江戸時代は江戸の西側の守りを固めるうえで重視され、さらには徳川将軍家の城という性質もあわせ持っていた。事実、本丸御殿は将軍家専用の御殿とされ、歴代将軍のうち家康が7回、秀忠が4回、家光が1回、そして14代の家茂が2回宿泊している。だから瓦(軒丸瓦)に三ツ葉葵紋がもちいることが許され、本丸や御用米曲輪などから数多く出土している。
一方、小田原はフィリピン海プレートの一部である伊豆半島と日本列島のプレートが衝突して沈み込めない場所なので、地震が発生しやすい。大正12年(1923)の関東大震災の震源地も小田原だったが、江戸時代にも何度も地震の被害に見舞われている。
たとえば、寛永10年(1633)1月にはマグニチュード7.1と推定される寛永小田原大地震が発生し、城も城下も壊滅的な被害を受けている。だが、このとき天守や御殿、櫓などの再建には、幕府の普請奉行や大工頭が動員され、再建のために幕府は4万5000両を負担している。
また、元禄16年(1703)に発生したマグニチュード8.1といわれる南関東伊豆地震でも、城内の建築ばかりか城下の侍屋敷から町屋まですべてが倒壊し、12カ所から火事が発生して、天守をはじめすべて焼けてしまったという。このときも、藩主の大久保家は幕府からの借金で急場をしのぎ、宝永3年(1706)には天守も再建された。
いくら壊れようとも、幕府にとっては巨費を投じて維持しなければならない城だったことがわかる。事実、江戸時代に天守が2度失われ、2度とも再建された城は小田原城しかない。
だが、その後も地震による被害は続き、明治維新を迎えると、明治3年(1870)に知藩事だった大久保忠良は、もう城を維持する苦労に耐えかねていたのだろう。新政府に小田原城の廃城を出願して受け入れられ、建物は払い下げられ、その年のうちに天守も解体されてしまった。

「復元」とはよべない理由
その後も、今度は関東大震災で天守台が全壊してしまう。しかし、昭和25~28年(1950~53)に石垣が積み直され、昭和35年(1960)に現在の天守が鉄筋コンクリートで再建された。これは宝永3年に再建された天守を再現しようとしたものだが、一般に復元天守ではなく復興天守とよばれている。
復元天守とよばれるためには、古写真や絵図面などの資料にもとづいて、過去の建築ができるかぎり忠実に再現されている必要がある。そのなかで、往時と同じ材料や工法で再建したものが木造復元天守で、鉄筋コンクリートなど現代の材料や工法で外観だけを再現したものは外観復元天守とよばれる。
小田原城天守が「復元」ではなく「復興」といわれるのは、古写真や絵図面などの決定的な史料に欠け、推定を交えて再建しなければならなかったからだ。とはいえ、それなりに資料は存在していた。
まず古写真だが、唯一、初重の骨組みだけが残された解体中の写真がある。これを見ると、石垣の天端から3メートルほどの高さに床があるのがわかる。したがって、下層から上層にかけて逓減させながら規則的に積み上げる層塔型の3重天守は、初重の部分だけが2階建てで、3重4階だったことがわかる。また、大きな出窓型の石落としも確認できる。

また、3重天守のひな形の模型が3つ、ほかに古図の模写が残っている。模型は大久保神社蔵の模型と、旧東京大学蔵の模型、そして東京国立博物館蔵の模型。3つに共通する点は多い。平側(軒に並行な面)は3重目の屋根に軒唐破風がつき、2重目には千鳥破風が2つ並んだ比翼千鳥破風がつく。妻側(軒に直角な面)も2重目に軒唐破風がつくのも、みな同じだ。

いちばん違うのは初重で、平側に古写真でも確認できた大きな出窓型の石落としがつくのは共通しているが、その屋根が大久保神社のものと東博のものは切妻で、2重目の壁面にかからないのに対して、旧東大のものは入母屋で、屋根の頂部が2重目の壁面にかかっている。また、旧東大のものは初重の妻側にも、切妻屋根がかかった出窓型石落としがあるが、ほかの2つは小さな千鳥破風になっている。
現在の天守の設計は、熊本城の外観復元天守も設計した藤岡道夫氏が担当した。そして、全体的な意匠構造は、外壁の意匠も再現している旧東大の模型をもとにし、平面規模は大久保神社のものに合わせ、高さはそれらの中間として設計された。
昭和35年当時としては、かなり綿密な検討のうえに再建されたのだが、復元とは到底よべない残念な面もあった。現在の天守は最上階に高欄つきの廻縁があるが、宝永3年に建った天守に廻縁はなかった。これは当時の小田原市当局が、観光用にどうしてもつけたいと主張したためについたもので、当時の文部省からも好ましくないといわれ、設計者の藤岡氏ものちに「遺憾の限り」と記していた残念なシロモノなのだ。
権威と結びついた美
さて、東日本大震災が起きると、小田原市はすでに建築後半世紀が経った復興天守の耐震改修を計画し、「小田原城天守閣耐震改修等検討委員会」を設置。その一環として平成25~26年(2013~14年)に「小田原城天守模型等の調査研究」が行われた。
その結果、昭和35年の復元ではほとんど無視された東博の模型が、かつての天守の姿をもっともよく伝えているという結論にいたっている。調査の結果、最上階には摩利支天など天守七尊を安置する空間があって、それと合致しているのが東博の模型だけだった、というのだ。平成27年(2015)に終了した耐震改修では、コンクリートの天守の最上階に摩利支天像の安置空間が木造で再現された。

こうなると、いま建っている復興天守の姿は、最上階の廻縁はもちろんのこと、初重の平側の石落としの屋根をはじめ、細部が往時と異なる可能性が高いといわざるをえない。だが、ディテールを観察するのではなく、全体像をとらえるのであれば、元禄の大震災で倒壊、焼失後に再建された江戸中期の天守のイメージを伝えている。
白漆喰による総塗籠の層塔型で、各階とも窓上の小壁の部分が大きくて、少し背伸びをしたようにバランスを欠いたところもある。実際、復興天守は27.2メートルと、3重天守としてはかなり高い(オリジナルの高さは不明だが、これより極端に小さいことはないだろう)。

しかし、箱根のふもとで西方への守りを固める役割を負い、あわせて将軍家の城でもあったという小田原城の位置づけを思い出しながら眺めるといい。あえて背を高くしたかったのではないだろうか。それに、失われた天守は再建されないこといが多かった時代に、これだけものが建てられたのである。各階の窓の上下にも窓上の壁にも長押がめぐらされるなど装飾性が高いのも、江戸城の建造物とよく似ている。
復興天守が心もとないぶんは、復元された馬出門や銅門を訪れて補うといい。関東大震災後、江戸時代の登城ルートだったこれらの門の石垣は撤去され、周囲の住吉堀も埋められてしまったが、昭和58年(1983)から発掘調査が行われ、その成果や古絵図をもとにして、昭和63年(1988)から堀と石垣が復元された。

その後も復元作業が続き、平成9年(1997)に高麗門と櫓門からなる銅門が伝統工法でよみがえり、門扉や鏡柱にはその名の由来である銅の装飾が輝いている。同21年(2009)には三の丸から二の丸に進むとき銅門の前にとおる馬出門が、やはり伝統工法で復元された。とくに長押による装飾などが江戸城や大坂城、名古屋城など将軍家の城と共通する櫓門の威容を前にすると、権威と結びついた美を強く意識させられる。


