【探訪】「リアルな歴史」が匂い立つ――大倉集古館で企画展「合縁奇縁」が開幕 10月23日まで

展示風景

企画展「合縁奇縁」

  • 会期

    2022年8月16日(火)10月23日(日) 
  • 会場

    大倉集古館
    http://www.shukokan.org/
    東京都港区虎ノ門2-10-3(オークラ東京本館正面玄関前)
  • 観覧料金

    一般1000円、大学生・高校生800円、中学生以下無料

  • 休館日

    月曜休館、ただし9月19日、10月10日は開館し、9月20日、10月11日が休館

  • アクセス

    東京メトロ南北線六本木一丁目駅中央改札から徒歩5分、日比谷線神谷町駅4b出口から徒歩7分、虎ノ門ヒルズ駅A1、A2出口から徒歩8分、銀座線(南北線)溜池山王駅13番出口から徒歩10分、銀座線虎ノ門駅3番出口から徒歩10分
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※詳細情報は公式サイト(https://www.shukokan.org/)で確認を

降る雪や 明治は遠くなりにけり

俳人・中村草田男がこの句を詠んだのは昭和6年、1931年だった。「遠く」なった明治が終わったのは1912年。19年前のことである。ちなみに、令和4年の今から同じだけ時を遡ると2003年、平成15年だ。横綱・貴乃花が引退し、流行語大賞に「なんでだろう~」(byテツandトモ)が選ばれたこの年、世の中には森山直太朗の「さくら」や大塚愛の「さくらんぼ」が流れていたのである。この句を詠んだとき、草田男先生には、明治→大正→昭和という時代の流れの中で、「明治」と「昭和」の時間差が「リアルな今」から「歴史」へと変わりつつある、という認識があったのだろうか。ザ・ローリング・ストーンズの名曲「Time Waits for No One」にはこんな歌詞がある。

Men, they build the towers to their passing(人々は過ぎ去ったもののために塔を建てる)
Yes, to their fame everlasting(そう、永遠の名声のために)

「過ぎ去ったもののために」建てられた塔に収められるのは、「リアルな今」から「歴史」へと移行した中で、「永遠の名声」を偲ぶ文物の数々なのである。

展示されている重要文化財《如来立像》(中国・北魏時代=5世紀末~6世紀初)

大倉集古館の前身、大倉美術館が公開されたのは1902年、草田男先生が生まれた翌年だったという。パンフレットによれば、「日本で最初に財団法人化した、現存最古の私立美術館」である。そこにあるのは、明治の政商・大倉喜八郎(18371928)、その跡継ぎだった大倉喜七郎(18821963)、二代にわたる財界の大物が収集した美術品、工芸品だ。美術館公開から120年、その歴史を振り返りながら、どんな「縁」で所蔵品がそこにやって来たのか。その一端を紹介するのが、今回の企画展なのである。

ホテルオークラの真ん前にある大倉集古館。今回の展覧会でまず目に入るのが、一階受け付けのすぐ前にある《如来立像》である。戦前に古物商を通じて入手したという石造りの立像。平安時代の仏像から横山大観の絵画まで、国宝3件、重要文化財13件をはじめとする約2500件の美術・工芸品を所蔵する同館だが、今回は「他人の集め得ない物をおおたばに、大づかみに集めた」中国伝来の文物、タイの美術品などを中心に展示している。「おおたばに、大づかみに」は今回の展覧会のひとつのキーワードなのだろう。

山本昇雲(松谷)《大倉邸之図(含大倉美術館)》 明治36年(1903)
展示風景

展示はまず、大倉美術館・大倉集古館の歴史から始まる。なぜ美術館ができたのか。それはどんな所に作られたのか。当初はどんな建物だったのか。《大倉邸之図》を見ていると、その優雅さ、豪華さがよく分かる。大きな転機が大正12年(1923)の関東大震災だったそうだ。集古館は設立当初、漆工品のコレクションで有名だったそうだが、約200点の所蔵品のうち、「8点を残してほとんどが灰燼に帰し」たという。重要美術品の《唐草文螺細手箱》は被災を免れた作品のひとつなのだ。

明治から昭和にかけての「時代の記憶」。今回展示されている文物が現すのは、「モノとしての価値」だけではない。例えば、大倉財閥が製作した刀剣の展示。本来、同館には平安期からの名刀も所蔵されているのだが、あえて昭和の軍刀を展示しているところに企画者の意図を感じる。併せて紹介される大倉財閥と関係の深い人々――渋沢栄一から張作霖に至るまで――のエピソード。ここで展示されているのは、単なる美術品・工芸品ではないのである。

重要美術品《唐草文螺細手箱》朝鮮 高麗時代=13世紀
柴田果《刀 銘 以本渓湖高純鉄 果(花押)/皇紀二千六百参季十月吉日》 昭和18年(1943)

二階への階段を上ると、そこにあるのは中国の陶俑、清朝の染織、タイの仏像……。陶俑も関東大震災で被災し、その多くが失われてしまったという。戦前の中国では、墓所の副葬品だった陶俑は「少し気味が悪いモノ」としても見られていたようで、古物商などを通じ、容易に手に入ったようだ。《加彩駱駝》や《三彩馬》などの展示品を見ていると、その精緻な技術、豊かな造形力に感嘆するのだが。《三彩馬》は帝国劇場を大倉喜八郎とともに創立した横河民輔の旧蔵。仏像と並んでタイ王室から大倉家に贈られた工芸品も展示されている。経済人・文化人、アジアの貴人など、この時代の人のつながりも見えてくるのである。

タイの仏像などの展示風景
《三彩馬》(左端、中国・唐時代=7~8世紀、横河民輔氏旧蔵、東京国立博物館蔵)などの展示風景

陶俑の収集でも分かるが、大倉喜八郎は中国に対して多くの投資や借款を行っていたそうで、それに伴って収集した多数の文物も展示されている。「蒙古の鎧」や清朝の朝廷で使われていた《蟒袍》などがそうだ。どんな人が着ていたのか。それはどんな状況だったのか。映画「ラスト・エンペラー」の一場面がアタマの中に浮かんできたりする。

《蟒袍》中国・清時代19世紀(光緒帝期のもの)
「蒙古の鎧」などの展示風景

一覧して思うのは、ここで展示されている文物、紹介されている事象のほとんどは、「永遠の名声」を獲得する途上にあるモノだということだ。歴史にはなりきっていない、「リアルな今」の痕跡を残した展示品の数々。まだ「塔」には収まりきっていない生々しさが、そこはかとなく漂ってくる。これらの文物が「歴史」の中でどのように評価を固めていくのか。「おおたばに、大づかみに」「時代」を伝え、その「価値」が形作られる過程を見せていくのも、美術館・博物館の役割のひとつではないかと実感する。まあ、それが将来、どのような形に収まるかは、「時の流れに身をまかせ」るしかないのだが。

(事業局専門委員 田中聡)