【探訪】詩情あふれる風景へ心を飛ばす「歌枕 あなたの知らない心の風景」サントリー美術館 小説家・永井紗耶子

《吉野龍田図》(左隻) 六曲一双 江戸時代 17世紀 根津美術館 8/3~8/28

行ったことのない土地に思いを馳せる時、どうするでしょう。

その土地の写真を眺めたり、ガイドブックを熟読したり。その地を舞台にした映画を観たり、物語を読んだりする人もいるかもしれません。最近では、グーグルマップで見てみる……なんていう楽しみ方もありますね。

まだ見ぬ場所への憧れは、今も昔も変わらない。それが古から歌に詠まれた名所であればなおのこと。そんな「歌枕」にまつわる美術を見られるのが、サントリー美術館で開催中の「歌枕」展です。

会場で最初に目に飛び込んでくるのは、鮮やかな朱の紅葉と、柔らかい薄紅の桜の屏風です。古今和歌集にある在原業平の有名な歌「ちはやふる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」の龍田川の紅葉。そして新古今集の撰者である藤原定家の歌「桜花 咲きにし日より 吉野山 空もひとつに かほる白雪」の吉野山の桜。二つの歌枕が描かれた「吉野龍田図」です。この屏風絵は、下に流れる川によって繋がっています。並べて眺めると、川のせせらぎを聞きながら、現の喧噪を離れて春から秋へと移ろう景色を感じられるでしょう。

《吉野龍田図》(左隻) 六曲一双 江戸時代 17世紀 根津美術館 8/3~8/28
《吉野龍田図》(右隻) 六曲一双 江戸時代 17世紀 根津美術館 8/3~8/28

次いで見られる武蔵野図屛風もまた、秋の夜の涼やかな空気と虫の音が聞こえてきそう。秋草を渡って来る風の音に、様々な歌が彷彿とするのではないでしょうか。

こうした作品の多くは、歌が詠まれた同時代のものではありません。

古今和歌集をはじめとした名歌は、数多の人々の手によって書き写され、伝えられてきました。なかでも手蹟の美しいものは、美術品としても愛されてきました。当時の人々にとって歌は、その文字すらも詩情を誘うものだったのでしょう。

そうして歌を愛したのは貴族に限りません。展示の後半にある「大原野千句連歌懐紙」には、武将でもあり歌人としても名高かった細川幽斎が連歌に興じているのが見られます。武将とはいえ、強いだけではなく、教養としてこれらの歌や歌枕の知識を持っていた。殺伐としているかに見える戦国時代にも、花を愛で、月を眺め、歌を詠む優雅なひと時があったのだと思うと、当時の人々の豊かな文化を感じることができます。

江戸時代には、浮世絵で歌枕や歌人の姿を描いたものもあります。例えば百人一首之内 源俊頼朝臣の歌「うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを」という歌と共に、江戸の当世風の女性の姿が描かれています。古今和歌集の歌に当時の人々の様子を乗せることで、より身近に感じることができたのかもしれません。言うなれば、現代の高校生が古今和歌集の恋の歌を、インスタグラムにポートレートと一緒に載せるという感覚でしょうか。そうすると、ああ、こんな情景を詠んだものなんだな、と共感しやすい。江戸の人たちも、歌に描かれる情景や歌枕の魅力を、多くの人に伝えようとしていたのでしょう。

百人一首之内 源俊頼朝臣 歌川国芳 天保13~14年(1842~43) 跡見学園女子大学図書館 【展示期間:7/27~8/28】

また、当時の日常の中にも歌枕はありました。尾形乾山の手による龍田川の向付や、吉野山の風景を蒔絵で描いた棚なども手元に置いて眺めるだけでも、歌に詠まれた心を想い、その土地へ思いを馳せることができます。歌枕を描いた小袖などは、見ているだけでも眼福ですが、まとうとなるとまた格別でしょう。その風景を想うだけではなく、歌に詠まれた思いもまた、纏う心地がするのではないでしょうか。

《色絵龍田川文向付》 尾形乾山 六口 江戸時代 18世紀 公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館 全期間展示
《吉野山蒔絵棚》 一基 江戸時代 19世紀 東京国立博物館 7/27~8/28

今はネットで調べれば、その土地の情報は手に入ります。写真を見て、ルートを調べ、何ならばその地の名物料理のレストランの評判まで分かってしまう。それはもちろん便利で快適です。しかし、そうしたツールを持たなかった時代。歌に詠まれた美しい風景と、そこに詠まれた恋や悲しみ、喜びに共鳴しながら思い描いた歌枕は、その地を訪ねるよりももっと深く、心に刻まれていたのかもしれません。

現代を生きる私たちも、古典の授業などで古今和歌集を覚えたり、百人一首をかるたで楽しんだりと、歌枕に触れたことがあると思います。授業で居眠りをし、テストで文句を言いながら覚えたのですが、今にして思えばなんとまあ彩り豊かな感性を与えてくれたことか。おかげで、花の咲く様、紅葉の散る様、山河の荘厳な美しさが、歌と共に想起され、あっという間に時代を越えた人々と共感をすることができるのですから。

今回、歌枕を描いた作品の中には現地を見ずに描かれたものも少なくありません。これは「風景」を描くものではない。あくまでも歌に寄り添い描かれたからこそ、作品の前に立った時にふわりと遠くへ連れていかれるような心地よさがあるのかもしれない。そんな風に思わせてくれる展示でした。

ぜひ、皆さんの中の歌心と共に、楽しんで下さい。

歌枕 あなたの知らない心の風景
会場:サントリー美術館(東京・六本木)
会期:2022年6月29日(水)~8月28日(日)
開館時間:10~18時 *金・土および7/17日(日)、8月10日(水)は20時まで開館
休館日:火曜日(ただし8月23日は18時まで開館)
アクセス:都営地下鉄大江戸線六本木駅出口8より直結、東京メトロ日比谷線六本木駅より地下通路にて直結、東京メトロ千代田線乃木坂駅出口3から東京ミッドタウンまで徒歩約3分
入館料:一般1,500円、大学・高校生1,000円、中学生以下無料
※作品保護のため、会期中展示替えあり。詳しくは同館のホームページへ。
永井紗耶子さん:小説家 慶應義塾大学文学部卒。新聞記者を経てフリライターとなり、新聞、雑誌などで執筆。日本画も手掛ける。2010年、「絡繰り心中」で第11回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。著書に『商う狼』『大奥づとめ』(新潮社)、『横濱王』(小学館)など。第40回新田次郎文学賞、第十回本屋が選ぶ時代小説大賞、第3回細谷正充賞を受賞。『女人入眼』(中央公論新社)が第167回直木賞候補に。

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