<城、その「美しさ」の背景>第12回「丸亀城天守」   より立派に見せる工夫の数々 香原斗志

本丸から眺めた天守

現存12天守のひとつだが天守ではなかった?

近世城郭を研究するうえで重要な史料のひとつに正保城絵図がある。正保元年(1644)、幕府が全国の大名に提出させた精細な絵図だが、丸亀城のそれを見ると天守の姿図のうえに「矢倉六間五間」と書かれている。丸亀城天守は現存12天守のひとつだが、これをみると幕府には「天守」ではなく「矢倉」、すなわち「櫓」として申告されていたことがわかる。

じつは、そういう例は珍しくない。平成になってから白石城(宮城県白石市)、白河小峰城(福島県白河市)、新発田城(新潟県新発田市)に、三階櫓や三重櫓が木造で復元されたが、これらもみな幕府には櫓として申告されていた事実上の天守だった。

幕府は元和元年(1615)に豊臣氏を滅ぼすと、武家諸法度によって諸大名に、あらたな築城はもちろんのこと、すでにある城の増築も禁止した。とはいっても、大名が転封になるなどしたとき新しい領地に相応の城がなければ、あたらしく築くことができたし、その際、天守を建てることもできた。

だが、幕府は原則として城の増築や新規の築城を禁止した手前、武家諸法度の発布後に新築された天守は、ごく一部の例外を除いて「三階櫓」や「三重櫓」などと呼ばせた。だから丸亀城の場合も、事実上は天守なのだが呼び名は三階櫓だった。現存12天守のなかでは、ほかに弘前城が三階櫓だった。

事情をさらに理解するために、この城の歴史に触れておきたい。

一国一城令ののちに再築されたので

丸亀城は豊臣大名の生駒親正とその子の一正が、慶長2年(1597)から築いたといわれる。関ヶ原合戦後も、一正は東軍に組したので讃岐(現香川県)一国の領有を認められたが(西軍についた親正は隠居)、慶長7年(1602)に居城を高松に移して、丸亀城は支城となった。そこに元和元年、武家諸法度の1カ月前に幕府は一国一城令を発布し、諸大名に本城(居城)以外の支城を破却するように命じたため、丸亀城はいちど廃城になってしまったのだ。

ところが、寛永17年(1640)に生駒家が改易になると、幕府は讃岐国を2つに分けた。そして、高松には徳川光圀の兄の松平頼重を配置し、西半分(西讃)は山崎家治にあたえたが、西讃には城がない。そこで丸亀城が再建されることになったのである。

山崎家治は標高66メートルの亀山を、山麓から3段、4段と重ねた石垣で取り囲み、5万3000石の大名とは思えない壮大な城を築いた。ときの老中が家治に宛てた寛永20年(1643)の書状によると、築城費用として幕府から銀300貫があたえられたほか、その年の江戸への参勤も免除されているが、城をどう築くかは幕府の指示に従うようにいわれている。そこから、丸亀城が幕命によって築かれたことがわかる。

丸亀は瀬戸内海の交通を監視するうえで要所に位置している。また、この時期は寛永15年(1638)の島原の乱の記憶がまだ生々しかった。丸亀沖の島々にはなおキリシタンが多いといわれていたため、万が一にも彼らが蜂起したときのために、幕府は丸亀に守りの堅い城を築いておきたかった可能性もある。

その後、万治元年(1658)に山崎氏は世継ぎがいないために断絶。京極高和が城主になり、明治を迎えるまで京極家が代々城主を務めたが、城は山崎氏の時代にほぼ完成し、三階櫓とよばれた天守もそびえていたようだ。

ところで、事実上の天守で四階櫓や五階櫓とよばれたものはない。幕府は武家諸法度を発布して以降、焼失した天守を再建する場合はともかく、あらたに天守相当の建物を建てる際に4重や5重にするのを認めなかったからだ(内部だけ4階、5階であるならいい)。

そういう状況だから、たとえ幕命で築かれていても三階櫓を大きくすることは、5万3000石という石高からしてもはばかられただろう。事実、丸亀城天守は小さい。

さきほど正保城絵図に「矢倉六間五間」と記されていると書いたが、これは1階平面の寸法が、平側(軒に並行する側面)が6間で、妻側(軒に直角の側面)が5間だという意味である。現存天守のなかでは、やはり三階櫓だった弘前城と並んで小規模だ。そのうえ丸亀城は上の層ほど床面積が規則的に小さくなる層塔型で、しかも逓減率が大きいので、3重目は3間×2間余りしかない。

柱が林立する天守1階
狭い天守3階

大きく見せるための意匠

だが、そのわりには存在感があるのではないか――というところに丸亀城天守のおもしろさがある。

いちばんの仕かけは三重目の屋根にみられる。大手門がある北側から山上の天守を仰ぐと、入母屋屋根の破風が、つまり妻側が正面を向いている。一般には妻側が短辺で平側が長辺のことが多いから、この姿を見れば、天守には奥行きがあると想像することだろう。

北側から眺めた天守。3重目の屋根は入母屋破風が正面を向く

ところが、丸亀城天守の3重目は、平側が2間余りしかない。要するに、城下から見上げたときに大きく立派に見えるように、あえて屋根の長辺に入母屋破風をつけたのだ。本丸に登って西側から天守を眺めると、こういってはなんだが、平側が滑稽なほど狭い。とにかく城下から見上げたときの姿に勝負をかけたということだ。

北側の1重目は左に出窓型の石落としがあり、狭間が並ぶ。四角いのが大筒狭間
西側から眺めると妙に細い

城下から眺められる北側には、ほかにも仕かけがある。まず1重目は、下部に下見板が張られ、左側に出窓型の石落としがつく。また、2重目には向唐破風がもうけられ(南側にも)、虹梁(虹のように反った梁)や蟇股で装飾されている。これらもやはり、大きく立派に見せるための意匠だと思われる。

天守2重目の、虹梁や蟇股で装飾された向唐破風

そして3重目は、窓の両側の壁までを囲うように白木の格子で飾って、大きな窓が開いているかのように見せている(南側には格子はつかない)。これも明らかに、実際以上に大きく立派に見せるためのギミックだといえる。

さきに述べたように要所を抑える要の城であるだけに、実戦的な装備も忘れられてはいない。1重目には前述の石落としのほか、鉄砲狭間と、さらには2つの大筒狭間まで開けられている。海上交通を監視する城ならではの設備で、この事実上の天守はちゃんと役に立つ、という幕府へのアピールも兼ねていたのかもしれない。

1階にもうけられた大筒狭間

こうして、さまざまに工夫を凝らしているが、それでもやはり丸亀城天守は小さい。一方、そんな天守が載る石垣は3段から4段に積み上げられ、総計では60メートル前後と、日本でいちばん高い。天守が小さいがゆえに石垣の高さが強調され、石垣が壮観だから、小さいながらも虚勢を張っている天守がなおさら立派に見える。そこに丸亀城だけの美しさがある。

本丸石垣と天守

丸亀城には大手門も現存し、天守と大手門がそろって残る城はここと高知城しかない。いま記した天守と石垣の妙は、大手門といっしょに天守を眺めると、より強調される。

現存する大手門と、その背後に天守
香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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