<城、その「美しさ」の背景>第11回「丸岡城天守」 最新の技術で古典様式を再現 香原斗志

北東から天守近景。独立式で穴倉はなく、1階入口まで階段を上る

「現存最古」ではなかった

 

福井県坂井市にある丸岡城の天守。古武士のような豪気なたたずまいを見せ、「現存最古」といわれていた。天正3年(1575)に織田信長が越前一国を平定したのち、柴田勝家の養嗣子の勝豊が丸岡に城を築いた。そのときに建てられ、天正4年に完成した天守がいまに残っている、とする説が有力だった。

 

昭和23年(1948)の福井大地震で、いちど天守台もろとも倒壊したが、幸いなことに昭和1518年(194043)に行われた解体修理の際の詳細な記録が残っていて、昭和30年(1960)に、もとの部材を極力使って(柱の約67%は江戸時代のもの)再建されている。

 

しかし、近年の調査の結果、建てられた年代は半世紀以上も下ることになってしまった。今年、丸岡城を訪れた際、タクシーの運転手が誇らしげに「最古ですから」と話すのを聞いて、なにやら申しわけないような気持になったものである。

 

では、どのような調査が行われたのか。それはあとで詳しく述べることにして、なぜ最古だと考えられていたのかについて、みていくことにしたい。

 

この23階の天守はまず、初期の天守に特徴的な典型的な望楼型である。平側(棟に並行した側面)が7間、妻側(棟に直角な側面)が6間の1階には大きな入母屋屋根がかかり、そのうえに載る望楼の基部になっている。そして、ともに4間×3間の2階と3階が載る。2階は屋根裏階で破風の窓から採光していて、3階には廻縁がつく。

南方から天守を望む

外壁が下見板張りで、最上階だけは柱や梁が表に出る住宅風の真壁なのも、古い天守の特徴だと考えられてきた。軒裏の垂木を塗り籠めず、白木をそのまま出しているのも同様だ。また、1階が天守台の面積いっぱいを占めず、石垣の最頂部の天端石からかなり内側に建てられ、腰庇という雨漏りを防ぐための木製の屋根がつけられている。これも珍しく、天守が誕生したころの姿をとどめていると説明されてきた。

1階は天端石より内側で、雨漏りを防ぐ腰庇がつく

実際、書院のうえに、あるいは櫓のうえに小さな望楼を載せたのが天守のはじまりであるとすれば、たしかに丸岡城天守は、そういう姿をしている。

 

ほかにも、平側に並行して1階の中央に並ぶ柱の列は、戦前に修理が行われるまで掘立柱で、そのことも建てられた時期が古いことの証のように語られてきた。

 

1626年以降の建築

 

旧説が否定されたのは、平成27年(2015)にはじまった学術調査をとおしてのことだった。この年、福井県坂井市の教育委員会に「丸岡城国宝化推進室」が設置され、さらには「丸岡城調査研究委員会」も組織され、4年間にわたって総合的な調査が行われた。その結果、丸岡城天守は寛永3年(1626)以降に整備されたことが明らかになったのである。

 

たとえば、天守の床下に保管されていた、23階の古い通し柱のもっとも外側の年輪は、年輪の数や幅の大小を細かく測る酸素同位体比年輪年代調査の結果、1626年と判定されている。

比較的広い3階内部

 

この柱は、生物が生命を失ってから5730年で半減する放射性炭素の含有量を科学的に測って、外側の年輪の年代を測定する放射性炭素年代調査でも、1623+α年という結果になっている。また、2階、3階の柱や梁なども、年輪年代調査で1620年代と判定された。こうして、寛永3年(1626)以降のある時期に建てられたのはほぼ間違いない、という結論にいたっている。

 

一方、やはり旧式の証と考えられた掘立柱についても、かつては天守台が天端から75センチほど掘り下げられ、そこに礎石が置かれて柱が立っていたのだが、のちにその穴倉が埋められてしまったために、事実上の掘立柱になっていたということのようだ。

間仕切りがない天守1階と、掘立柱と思われていた柱列

また、寛永年代に創建されたときは、外観もいまと異なっていたという。現在、瓦は寒さに耐えうるように、石を掘り出した重い石瓦が葺かれているが、当初は木の薄板を幾重にも重ねた杮葺きだったという。また、2階と3階の間には板葺きの腰屋根がついて廻縁はなく、破風を飾る懸魚には漆が塗られ、鯱瓦には金箔が押されていたという。

 

要するに、初期の天守の特徴とみられていた無骨な外観や廻縁なども、築城ラッシュが過ぎ、一国一城令が出され、天守の新築が事実上禁じられて、さらにしばらく経ってからの姿だったということになる。

 

望楼型の擬古典建築

 

以前から、慶長18年(1613)に描かれた『円陵略図』という古絵図に、天守台が描かれながら天守の姿がないため、それ以後に建てられたという説はあった。それにしても、寛永期にまで時代が下るという主張はあまりなかった。

 

しかし、いざ古くなかったといわれてみれば、思い当たるフシはいろいろある。関ヶ原合戦以前の天守は、安土城や大坂城もそうだが、最上階は3間四方が基本だった。ところが、丸岡城は4間×3間。さきほど1階は7間×6間だと書いたが、そこから逓減させて上階も矩形にしているわけで、現実には、下層から上層にかけて逓減させながら規則的に積み上げる、層塔型天守に近い手法だということになる。

4×3間の望楼部。かつて廻縁は腰屋根で、懸魚には漆が。屋根は柿葺きだった

また、初期の天守は最上重の入母屋破風を、下層の大きな入母屋屋根の平側に向ける、つまり、下層の入母屋とクロスさせるのがふつうだったが、丸岡城天守はふたつの入母屋が同じ方向を向いている。

 

後づけの廻縁も屋内の床面より高く、使い勝手がはだはだよろしくない。そこに立って遠くを望むという実用のための廻縁ではなく、大坂の陣以降の天守によくある、たんなる装飾のための廻縁だと指摘できそうだ。

 

出窓型の石落としから石を落としても、腰庇にぶつかってしまうというのも、戦国時代の建築だとしたらお粗末だ。内部も1階に間仕切りがまったくなく、書院に望楼を載せたにしては殺風景である。

 

福井大地震で倒壊した天守台の石垣は、野面積の古い工法で積まれていている。だからそのうえに前身となる天守がいちど建ち、のちにその姿に倣って新たな天守を建てたという可能性も否定はできないだろう。

天守台南面の石垣。積み直された野面積

いずれにせよ、丸岡城天守は層塔型天守の全盛期に建った、望楼型の擬古典建築といえるだろうう。しかし、そこに丸岡城だけの美しさがある。実際、ごく初期の天守の様態を伝えていそうな望楼型でありながら、プロポーションは層塔型のように均整がとれている。それは最上階が3×3間では得られないバランスである。

 

最新の技術で古い様式をさらに美しく見せる。そういう建築として眺めると、高さ12メートルの小さな天守に新たな美しさが感じられる。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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