<城、その「美しさ」の背景>第10回「安土城天主」 西洋を凌駕する建築に 信長の野望の結実か 香原斗志

安土城天主 復元南立面図 復元:中村泰朗 2016年

もっとも革命的な建築

 日本史上におけるもっとも革命的な建築はなにか。その問いへの答えは、私は安土城天主をおいてないと思っている。「日本の城」といえば、多くの人が石垣のうえに建つ5重の天守を思い描くだろう。そういう城は織田信長の安土城からはじまった。信長が城のあり方に革命をもたらしたと言ってもいい。

 そもそも城郭全体を覆うように石垣が築かれた城は、安土城の前にはなかった。また、石垣上に高層の天守(安土城の場合は「天主」と表記される)がそびえ立ったのも、安土城がはじめてだった。

一直線に続く大手道。この道の延長に天主が眺められた。フロイスもここを歩き、その威容に驚いたことだろう

 さらに言うなら、外観のインパクトは、その後のあらゆる天守とくらべて圧倒的で、内装もとびきり豪華だった。イエズス会の宣教師として日本に滞在したポルトガル人、ルイス・フロイスの著作『日本史』の記述を以下に引用しよう。

 「(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている」

「外部では、これら(七層の)層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている」

「この天守は、他のすべての邸宅と同様に、われらがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦には金色の丸い取付け頭がある」(『完訳フロイス日本史』松田毅一、川崎桃太訳、中公文庫)

天守台上の並ぶ礎石

外観は5重で、内部は地上6階、地下1階。計「七層」である。壁は色とりどりで、軒平瓦や軒丸瓦には金箔が貼られていた。また、『信長公記』の記述で補えば、5階(4重目)は八角形で、外の柱は朱塗り、内側の柱は金で装飾され、内部は釈門十大弟子などの仏画で飾られていた。そして6階(5重目)は外も内部もすべて金色で、内部には三皇五帝など、古代中国の伝説上の皇帝などが描かれていた。

安土城天主 復元南北断面図 復元:中村泰朗 2016年

豪華絢爛たる内外装

5重6階、地下1階という高層建築自体が日本では未曽有のもので、しかも、それを高い石垣上に建てたのだから、技術的な困難はたくさんあったに違いない。それらを一気に解決し、さらに絢爛豪華に飾り立てた安土城天主は、見る人にどれほど強い印象を与えたことだろうか。こうして信長は、戦闘目的で築かれるのが原則だった城を、見せるためのものへ、見せて相手を屈服させるための城へと転換させたのである。

外観を再確認しよう。標高198メートルの安土山山頂はけっして広くない。天主台は山頂の岩盤を削って築かれ、石垣の築造技術も未熟だったため、平面は不等辺八角形になっている。現在、天主台は上部の石垣が崩れてしまっているが、礎石は完全に残っており、礎石が置かれた平面が不等辺八角形であることをたしかめられる。

天主台。上部が崩れているのがわかる

建物も1重目と2重目は、そのまま不等辺八角形だったはずで、そこにかけられた屋根の軒先は、かなり複雑なかたちだったと考えられる。

そして、2重目の屋根は大きな入母屋を構成し、それにクロスして3重目の入母屋屋根がかけられ、そのうえに2重の望楼が載せられていた(3重目と4重目のあいだに屋根裏階が生じるため、外観は5重なのに内部は6階になる)。望楼の下部、すなわち4重目は、後にも先にも類例がない八角形だった。その上部は3間四方の5重目で、高欄がついた廻縁がめぐり、すべてが金色に輝いていたという。

一方、内部は、5階と6階についてはすでに簡単に触れたが、1階から3階までも、その後の天守の内装とは異なって書院造の御殿建築で、いくつもの畳敷きの部屋が、狩野永徳らが描いた花鳥をはじめとするさまざまな障壁画で飾られていた。

また、フロイスは『日本史』に「それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである」と書いている。要するに、内部の柱も白木のままではなく、漆塗りだったようだ。そして信長は、豊臣秀吉以降の権力者とは異なって天主に居住し、そこで賓客と対面していたと考えられている。

フィレンツェの大聖堂とそっくり

それにしても、このような奇想天外な建築が、なぜ突然現れたのだろうか。私は西洋の影響以外にないと考えている。

ただし、影響を受けたかどうかは記録に残らないので、証明するのは難しい。そのため、安土城に突如として豪華絢爛たる高層建築が出現したのは、信長の創意だとか、中国の建築からの影響だなどと説明されがちだが、西洋の影響を受けたと考えるだけの状況証拠はそろっている。

天守台入口に敷かれた特別な石

信長は永禄12年(1569)にはじめて宣教師と会って以降、天正10年(1582)に本能寺に斃れるまでのあいだに、彼らと三十数回も面会している。そして、そのたびに彼らを質問攻めにし、自分の城や建築を西洋のそれとくらべたがり、また、自身の偉業が彼らをとおして諸外国にどう伝えられるか気にしていた。そういう信長が、宣教師たちの話にのぼった西洋の城や建築に負けないものを築きたいと思わなかったはずがない。

建築以外に目を向けると、信長の時代以降、西洋の甲冑をまねた南蛮具足が流行した。信長自身、南蛮具足を身にまとい、そのうえにラシャなどで仕立てた南蛮風の陣羽織を着るのを好んだ。そんな信長が建築に関しては西洋を無視したと考えられるだろうか。

建築は具足と違って輸入できないし、当時は写真もない。したがって宣教師の話からインスピレーションを受け、それを既存の技術で再現しようとしたのではないだろうか。安土城天主は八角形の4重目からうえは唐様、すなわち中国式で、南蛮風ではないという見方もある。しかし、西洋建築のお手本がない以上、宣教師たちの話からふくらんだイメージをかたちにする際に、中国式で再現するのは不思議なことではない。

主郭部の入り口に構える伝黒金門跡

信長の時代、西洋のキリスト教建築で最大のものはフィレンツェの大聖堂だった。だから、信長から西洋の建築について尋ねられれば、宣教師たちはこの大聖堂のことを語ったであろうことは容易に想像できる。そして、この大聖堂は中央上部に八角形のドームが架けられ、そのうえには外に出られる小さい望楼が載っている。安土城天主の二重の望楼は、言葉で説明するかぎり、この大聖堂の形式とそっくりである。

前出したように白木のままの部分がなかったというのも、信長が話に聞く西洋の石造建築を意識したからだとは考えられないだろうか。

フィレンツェの大聖堂。安土城築城に際し、信長はこのドームをイメージしたのだろうか。

安土城天主は完成してわずか3年後、本能寺の変から10日ほどのちに、おそらくは信長の次男の信雄の放火によって焼け落ちてしまった。その姿は、天正遣欧使節とともにヴァティカンに渡り、現在は行方不明になっている屏風に写実的に描かれていたという。

では、なぜその屏風がヴァティカンに渡ったか。信長が「伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ねて来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい」(フロイス『日本史』)と言って、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに、その屏風を贈ったからなのだ。

この事実からも、信長が西洋の城にも負けない絢爛たる城を築き、その評判を西洋に伝えたいと考えていたことがわかるのである。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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