<城、その「美しさ」の背景>第9回「大垣城天守」 往時の姿を取り戻した「水都」のシンボル 香原斗志

西側から眺めた大垣城天守

改修で焼失前に近い外観に

太平洋戦争末期の空襲による死者は、広島と長崎に落とされた原爆の犠牲者を加えると50万人にもなるという。民間人が無差別に攻撃されたという事実はあまりに痛ましい。同時に多くの都市で伝統的な街並みやかけがえのない文化遺産が見るも無残に破壊された。いうまでもなく城郭建築、とりわけ現存していた天守も数多くが焼け落ちた。

514日に名古屋城天守、629日に岡山城天守、79日に和歌山城天守、729日に大垣城天守、82日に水戸城御三階櫓(事実上の天守)、88日に福山城天守がそれぞれ焼失している。86日に失われた広島城天守は、焼失ではなく原爆の爆風で倒壊した。

戦後の復興のなかで再建を願う声が各地で高まり、水戸城を除くと昭和3040年代にそれぞれ鉄筋コンクリートで外観復元された。しかし、いずれの天守も修理などを通して膨大なデータが蓄積されていたにもかかわらず、戦前の外観を獲得するのは難しかった。

たとえば、名古屋城は眺望を確保するために最上重の窓を大きくとって、引き戸のないガラス張りにした。岡山城天守は石垣を壊してまで元来なかった入り口を設置し、一部の窓の位置を変更した。古写真と比較すると破風の勾配もゆるい。福山城天守は北面に張られていた鉄板などが省略されたほか、最上重が旧態とまるでちがう形状にされてしまった。

大垣城もこうした例に漏れなかった。焼失した44階の天守は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートづくりで外観復元されたが、観光用に最上重の窓を大きくとってガラスをはめ、破風にわざわざ金色の飾りをつけるなど、残念なことに、失われた天守の姿に必ずしも忠実な再建ではなかった。

それからおよそ半世紀を経た平成23年(2011)、ようやく天守の外観が改修された。4重目の窓が、漆喰で塗り籠められた引き戸がつく焼失前の姿にあらためられ、破風を飾る金具も取り払われた。また、江戸時代と同じ大きな瓦に葺き替えられ、鬼瓦はすべて桃をかたどっていたのが、戦災前と同じ桃21、鬼面14に戻された。こうして大垣城天守は、焼ける前に近い外観を取り戻した。

天守は本丸よりやや高い本丸本段に建つ

失われた4重の堀に囲まれた水の城

 

美濃平野の中央に大垣城が築かれたのは天文8年(1539)といわれる。当初は規模が小さかったが、永禄2年(1559)に氏家直元が城主になってから徐々に規模が拡張され、伊藤祐盛が城主だった慶長元年(1596)にはじめて天守が建てられたようだ。

 関ヶ原合戦で戦場になった大垣城の天守は、大阪市立博物館所蔵「関ケ原合戦図屏風」にも描かれている。その絵が創建当時の天守の姿をどれだけ正確に写しているか判断のしようはないが、3重で本瓦が葺かれ、漆喰で塗り籠められながら柱や梁などの軸組が表面に露出した真壁で、花頭窓が多用されている。

 戦場になりながら焼失を免れた天守は元和6年(1620)、松平忠良によって44階に改築されたのち、昭和20年まで存続した。ただし、低地に築かれた壮大な水の城は、天守が焼失する前にすっかり姿を変えていた。

かつての内柳門を移築した東門と天守

いま大垣城を訪れると、街のなかに急に石垣が立ち上がって再建された櫓や塀、そして天守が建っているが、その周囲には堀もない。しかし、江戸時代の大垣城は4重の堀に囲まれ「水都大垣」を体現していた。本丸と二の丸は幅2436メートルの広大な内堀のなかに並んで浮かび、とりわけ本丸は二の丸とのあいだを廊下橋で結ばれただけの、堀に浮かぶ島そのものだった。

 ところが、明治に入ってから堀は徐々に埋め立てられ、城域も本丸を残してほとんど市街化されてしまった。堀は外堀の一部が水門川や牛屋川として残っているにすぎない。じつは本丸も明治8年(1875)に中学校に下げ渡されたのだが、結局、中学校は建設されず同13年に有志が公園建設を出願。それが県の許可を受けたために、かろうじて天守や一部の櫓が残った。それでも空襲には勝てなかったわけだが。

水門川

新旧の意匠がせめぎ合ったダイナミズム

 

さて、大垣城の天守は高さが約18メートルで、南と東に多門櫓が付属している。1階と2階は床面積が同じで、3階、4階と上に行くにしたがって逓減し、大きな入母屋屋根はない。だから層塔型に見える。だが、2重目の屋根の四方を飾る三角形の千鳥破風は、屋根がもう少しで軒先に届きそうなほど、つまり入母屋破風と見まがうくらい大きい。そして、その上に2層の望楼を載せているようでもある。

天守の南(左)と東に多門櫓が接続する

 

一重目と二重目が同大で大きな入母屋屋根が架けられ、そこに小さな望楼が載るのは典型的な望楼型天守の構造である。望楼型天守は重と階が一致しないことが多いのに対し、大垣城は一致している。しかし、3階は入母屋破風の屋根裏階のようにも見え、実質的には34階という言い方もできるだろう。元来は望楼型だったのを、元和6年に改築した際に層塔型に見えるようにあらためたのかもしれない。

いずれにせよ、白亜に塗り籠めた層塔型のようで古式の望楼型に通じる要素が多く、新旧の意匠がせめぎ合っているところに、この天守の独特の美しさがある。

東側から眺めた天守

1重目の屋根は小さな千鳥破風が2つ並んだ比翼千鳥破風で飾られている(南面と東面は多門櫓が付属しているので破風は1つ)。そして二重目は前述したように、大きな千鳥破風が広がって、破風の上端は三重目の屋根に大きく食い込んでいる。この二重目の躍動的な千鳥破風がアクセントになって、大垣城天守は堀が埋められ追い込まれたような環境下でものびやかに見える。

真壁で装飾的な天守の4重目

そして最上重は非常に古風だ。3重目から下は柱などの構造材が見えない大壁だが、4重目だけは真壁で柱や長押が露出し、窓の上の長押に釘隠しが飾られている。あきらかに格式と装飾性が意識されている。また最上重が3間四方なのは、安土城や豊臣大坂城などの初期天守と重なる。その上に架かる4重目の屋根が大きいことも華やかな印象につながっている。

平成23年の改修前は異様に大きな窓や史実を無視した破風飾りなどに邪魔されて、この天守ならではの美しさに気づきにくかった。しかし、戦災前に近い外観を取り戻してからは、独特のダイナミズムを素直に味わえる。かつて広大な堀のなかに浮かんでいたときは、華麗な水鳥のような美しさが際立って見えたことだろう。水堀を復活させる構想もあると聞く。その実現を願わざるをえない。

戌亥櫓と天守

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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