<城、その「美しさ」の背景>第8回「松本城天守」 意図と偶然が生み出した独自のフォルム 香原斗志

本丸から眺める天守群

唯一の漆塗り天守

日本に現存する12の天守のうち、5重の天守は姫路城と松本城だけである。また白亜の姫路城と対照的な漆黒の容姿は、独特のシックな美しさを湛えている。いま「漆黒」と書いたが、これは比喩ではない。外壁の3分の2までの高さを覆っている下見板には、実際に漆が塗られているのだ。昭和30年(1955)年に終わった大修理で漆塗りの痕跡が見つかってから黒漆の塗装が再現され、毎年塗り替えられている。

黒門(高麗門)と天守

織田信長の安土城も豊臣秀吉の大坂城も、天守の外壁に黒漆を塗っていた。松本城の壁面は初期の、それも天下人の天守に由来する由緒ある意匠だといえる。

ところで、われわれが現在、この天守を目の当たりにできるのは、いくつかの偶然が重なった結果である。明治6年(1873)のいわゆる廃城令に際して、信濃国(現長野県)で唯一、存城として残されることになったものの、それはたんに陸軍が軍用財産として使うということにすぎなかった。

すでに明治4年には櫓や門などの払い下げと解体がはじまり、同5年には天守が落札されたと、当時の新聞で報じられている。そこに地元の自由民権家であった市川量造が、天守を会場にして博覧会を開催したいという旨の建言書を提出。いちどは拒否されながら、明治6年9月に再提出すると許可が下りた。払い下げられていた天守はまだ残っていたので、同年11月に第1回博覧会が実現し、これが明治9年(1877)まで計5回開催され、天守は解体を免れたのだ。

松本城天守はとくに南西から内堀越しに望むと、大天守が左に渡櫓と乾小天守を、右に辰巳櫓と月見櫓を従え、絶妙に均整がとれたシルエットが美しい。それは翼を広げた鳥のようで、同時に松本城から遠望できる北アルプスや美ヶ原の稜線を思わせる。しかし、それらは最初から一体のものとして建てられたのではない。

南西から内堀越しに望んだ天守群

望楼型の構造と層塔型の外観のハイブリッド

近世の松本城は天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたのちに、8万石で松本に配置された石川数正と、あとを継いだ嫡男の康長によって原型が築かれた。大天守の北側に建つ乾小天守も、石川数正が没した文禄元年(1592)から同3年にかけ、数正または康長が築造したと考えられている。「天守」と名のつく現存最古の建築が、この乾小天守であることはほぼ間違いない。

3重4階の乾小天守は高さ13.9メートルで、1階は平側(棟に平行した側面)が5間で妻側(棟に直角な面)が4間だが、未熟な技術で築かれた石垣の平面が平行四辺形気味なので、建物の平面もゆがんでいる。1階平面が矩形ではないのは安土城や豊臣大坂城、あるいは姫路城にも共通する初期天守の特徴だ。2階も同じ大きさで、その上に3間四方の3階、4階が載る。ただし妻側のほうが1間の間隔が狭いため、正方形ではない。

1階と2階が同じ大きさで、そこに2重の望楼が載って3階は屋根裏に隠れるという、典型的な望楼型天守の構造だ。ただし外観は、2重目の屋根が通常の望楼型のような大きな入母屋屋根でなく吹き下ろした寄棟で、一見したところ層塔型に見える。入母屋だったのを、後述する大天守の屋根に合わせて層塔型の外観に改造したのかもしれない。ほかにも乾小天守は丸太柱が多用されているなど、あちこちに古式を確認できる。

5重6階、高さ25.18メートルの大天守も、構造的に乾小天守とよく似ている。野面積みの石垣の平面はやはり平行四辺形にゆがみ、また、隅石を外側に張り出すように積んでいるため、平面が糸巻き状に湾曲している。大天守1階は平側9間、妻側8間だが、建物も石垣のゆがみを素直になぞっていて、とくに西側の壁は内側に大きく湾曲しているのが肉眼でわかる。

石垣に沿ってたわんだ大天守1階の壁面

2階平面も1階と同じ大きさで、1、2階のブロックに、平側7間×妻側6間の3、4階が、もうひとつのブロックとして載る。3階は望楼型天守につきものの屋根裏部屋だ。そして、その上に5、6階の望楼部分が載る。乾小天守は2つのブロックの積み上げ式。対して大天守は3つのブロックの積み上げ式である。

ただし、乾小天守は1間が田舎間寸法の6尺を基準としているのに対し、大天守の基準は京間の6尺5寸。このため、それぞれ携わった技術者や建築年代が異なるはずだという意見がある。広島大学名誉教授の三浦正幸氏は、大天守は小天守が建って20年余り下った慶長20年(1615)ごろに小笠原秀政が建てたと断じているが、結論は出ていない。

しかし平面が不整形の1階、2階上に、平面が同じ面積の3階、4階が載って3階が屋根裏階なのは、典型的な望楼型天守の構造だ。外観は1重目から4重目まで、屋根が四方に葺き下ろされて大きな入母屋屋根がなく、層塔型に見える。しかし、上階に向けて床面積が逓減する層塔型とはあきらかに異なる構造で、事実上の望楼型天守である。

大天守を下から仰ぐと層塔型にしか見えない

発想が異なる建築が絶妙のバランスで

大天守と乾小天守は同時に建てられたのか。それとも大天守の建築は遅れたのか。いずれにせよ渡櫓で連結されたこの2棟は、初期天守の構造を有している。それでいて大入母屋の華やかな屋根を排したぶん、端正な美しさを獲得したといえるだろう。また、この大小の天守と渡櫓には黒光りする壁面に100を超える狭間が開けられ、質実剛健さに色を添えている。

じつは、大天守は昭和20年代にはじまった大修理で見つかった痕跡から、いちど設計が変更されたことがわかっている。破風の数も現状より多い計画だったが、最大の違いは最上階だ。大天守6階には幅半間の入側(座敷と濡れ縁との間の通路)がある。当初はこの部分が外壁の外の廻縁になるはずだったが、実際には廻縁の周囲に外壁が設けられた。このため5階が5間×4間なのに対し、6階は4間四方で、平側から見ると4重目(5階)と5重目(6階)が同じ大きさで、頭でっかちに見える。

二の丸から天守を望む。5重目が大きくて頭でっかちなのがわかる
大天守6階。この廊下の部分が外壁の外の廻縁になるはずだった

さて、南西から内堀越しに望んだとき、大天守の右には辰巳附櫓、続いて月見櫓が複合している。この2棟は寛永10年(1633)に松本に入った徳川家康の孫、松平直政が増築したものだ。戦国が過去になりつつある時代の建築で、漆黒の外観は共通していても発想は大きくことなる。

本丸側から辰巳附櫓と月見櫓を望む

まず辰巳附櫓は狭間が5カ所にしか開けられておらず、石落としもない。かわりに2回の南側と北側に釣鐘状の優美な花頭窓が開く。また月見櫓にいたっては、朱塗りの高欄をともなう廻縁があり、東、北、南側には書院風の舞良戸がついて、それを広く開け放つことができる。つまり、三方を解放して月見を楽しむための観月楼で、戦闘的な2棟の天守とは発想が180度違う。

開放的な月見櫓の内部

それでいて、松本城の天守群はこれら5棟が絶妙にバランスされている。無骨に見えがちな乾小天守も4階に花頭窓が開いているし、大天守の屋根を飾る2つの唐破風と3つの千鳥破風は、エレガントな意匠で質実剛健さを中和させている。そして、これら破風による装飾があるから、辰巳附櫓と月見櫓が複合しても破風の延長のように大天守に自然に連なって見える。

大天守と乾小天守

左右に新旧の建築を従えた松本城大天守。先に5重目(6階)は高欄がつくはずだった位置を外壁にしたために頭でっかちになったと述べた。しかし左右に翼のように、または稜線のように小天守や櫓を従えていると、頭でっかちだからこそ空へ飛翔するような、または山の頂が天に向かうような印象が増す。意図して狙ったバランスと偶然の産物が相まって、松本城だけの美しさが生み出されている。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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