<城、その「美しさ」の背景>第7回「江戸城天守と富士見櫓」 桁外れのスケールと究極の合理性 香原斗志

本丸内に展示されている天守の模型

史上空前の城の特別な天守

日本史上最大の城は、いうまでもなく徳川将軍家の居城、江戸城である。二百数十年におよんだ太平の世の重石として機能した城だから、すべてにおいてスケールが違う。なにしろ内郭の周囲がおよそ2里(約7.85キロ)で、それを外堀で囲んだ外郭の周囲はおよそ4里(15.7キロ)におよび、総面積は約230ヘクタールにもなった。外郭まで含めて約23ヘクタールの姫路城、約25ヘクタールの名古屋城の10倍近い。

西の丸方向からみた富士見櫓。超高層ビルに囲まれた現在にあっても、城全体のスケールの大きさには驚くばかりだ

この空前の規模の城は、技術と人手を全国から総動員して築かれた。徳川家康が江戸城に入ったのは、小田原の北条氏が滅んだのちに関東に領地を宛がわれた天正18年(1590)だが、そのころは家康も豊臣政権の一大名だったので、秀吉からあらぬ嫌疑をかけられないように、改修は最小限にとどめていた。だが、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられると、その翌年には西国の29大名に江戸城の普請を命じた。

以後、3代将軍家光の時代の寛永13年(1636)まで、大きく分けて5次にわたる天下普請、つまり全国の大名に命じての工事が繰り広げられ、延べ471家もの大名が動員されて、江戸城はひとまずの完成をみた。その間、武家諸法度によって諸大名は新たな築城が原則として禁止され、修理するにも幕府の許可が必要になったが、もちろん江戸城はそうした制約を受けなかった。

右から巽櫓、内桜田門、富士見櫓

そんな特別の城だから、もちろん天守の特別なものだった。

江戸城天守はわずか30年余りの間に3回建てられている。初代天守は慶長11年(1606)に家康が建てたもので、いま本丸に残る天守台より200メートルほど南の、現存する御休息所前多聞の向かいあたりに建っていた。だが元和8年(1622)、2代将軍秀忠のときに本丸を拡張するに当たって解体され、いまある天守台の位置に建て直された。そして、この天守も3代家光の時代の寛永13年(1636)に解体され、翌年までに3代目天守が完成している。

ルネサンス建築を思わせる合理的な姿と構造

この天守は、わが国の木造建築の歴史において画期をなすものだった。天守台の石垣は高さ13.8メートルで、天守本体が44.8メートル。総計は58.6メートルで20階建てのビルの高さに相当し、少なくとも日本においては史上最高層の木造建築のひとつだったと思われる。ちなみに、現存天守で最も高い姫路城は天守本体の高さが31.5メートル。戦災で焼失した名古屋城天守の本体がおよそ36メートルだった。

そして平側(棟に平行した側面)が18間で妻側(棟に直角な面)が16間と、1階の面積も史上最大で、姫路城の2.3倍もあった。

天守焼失後に前田家が築いた天守台

規模だけではない。安土城に初めて5重の天主が登場して以来、およそ60年かけて到達した天守建築の完成形だった。上階に向って平面を少しずつ小さくして重ねる層塔型で、2階が15間×13間、3階が12間半×10間半、4階が10間×8間、そして最上層の5階が8間×6間。じつに規則正しく逓減し、最上階から地階まで柱の位置もしっかりそろい、きわめて合理的に建てられていた。

私は江戸城天守にいつもルネサンスを重ね合わせてしまう。イタリアのルネサンス建築が秩序立って見えるのは、柱(円柱)の長さや直径、柱と柱の距離やアーチを構成する半円の半径など、すべてに秩序だった比例関係が用いられているからだ。そして建物全体にもシンメトリー(左右対称性)が取り入れられ、それはこの時期に体系化された線遠近法(透視図法)とも非常に親和性が高い。

天守の発展に西洋の影響はあったのか、なかったのか。いずれにしても日本の木造建築が合理性を追求してたどり着いた、美しい比例にのっとった合理的な姿と構造。抜群のプロポーションを得た巨大な天守の隙のない造形は、三百諸侯を従えた徳川家の絶対的権威と盤石の支配体制を体現していた。石落としがなく、鉄砲狭間も外からは一切見えないのも、均整のとれた美によって権威を示そうという徳川家の自信の表れだろう。

外壁には高価な銅板が張られ、そこに耐火および耐久性能が高い黒色の塗料が塗られていた。屋根も銅瓦葺きで、軒先の軒平瓦や軒丸瓦には金箔が押され、てっぺんには金の鯱が載っていた。また破風にも銅板が張られ、そのうえ金の金具で飾られていた。信長や秀吉による建築のようにこれ見よがしではないものの、じつはそれ以上に贅沢だというのが徳川流だ。

本丸入口の中雀門の石垣は、猛火で傷んだ天守台の石垣が再利用されたという

代用天守の名に恥じないプロポーションと造りこみ

しかし、この天守建築の頂点は明暦3年(1657)、江戸の大半を飲み込んだ大火で焼失すると、江戸城にふたたび天守が建つことはなかった。当初は同規模の天守を再建する計画だった幕府は、金沢藩前田家に命じてあらたに天守台を築かせたが、家光の異母弟で時の将軍、4代家綱の叔父であった保科正之が、天守は「軍用には益なく唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」と提言。これが受け入れられ、再建は中止されたのである。

以後は幕末まで、全国で大型の天守が建てられることはなかった。

この空前の天守の在りし日の姿を思い描くのに役立つのが、現在、本丸休憩所増築棟内に展示されている、30分の1スケールの復元模型だ。建築構造は「甲良家文書」に残された図面をもとに、屋根や壁面などの外観は「江戸図屏風」をはじめ、建築年代が近い他城の天守や江戸城のほかの建造物なども参考に再現したという。

本丸内から見た富士見櫓

あるいは、天守なきあとに「代用天守」とされた富士見櫓からも、その姿を偲ぶことができる。やはり明暦の大火で焼失した後に再建されたこの三重櫓は、1階が7間×6間で、2階が6間×5間、3階が4間半×3間半と規則的に逓減。プロポーションに隙がなく、美しい。

高さも建物単体で15.5メートルと宇和島城天守とほぼ同じで、代用天守の名に恥じない。関東大震災で損壊したが、修復されていまにいたる。

1階の外側は平側に切妻破風、妻側に唐破風があしらわれ、それぞれその下に出窓型の石落としがつく。2階は平側に軒唐破風がある。また、2階の唐破風はフロア面積が逓減した分、小さくしつらえるなど、装飾のバランスも考え抜かれている。窓の上下に長押型が浮き上がっているところも、失われた天守と共通している。

富士見櫓はじつはとても装飾的だ

さらには、一般に櫓は内側には窓がないものだが、この櫓はどの面のどの階にも窓があり、内側の2階平側にも軒唐破風が設けられ、「八方正面の櫓」とも呼ばれる。

そして、江戸城の櫓全体に共通することだが、破風はすべて銅板で飾られ、最上重の入母屋破風には、半円形を3重に重ねて波のように反復させた青海波模様が銅板で描かれるなど、将軍の城にふさわしい凝った意匠がほどこされている。

皇居東御苑に入れば、本丸側すなわち内側からその姿を見ることが可能だが、できれば一般参観を利用して外側、つまり本丸の下から眺めてほしい。均整のとれたプロポーションと徹底した造りこみ。それが加藤清正の手になるとされる15メートルの石垣上にそびえる。徳川政権が志した統治のあり方がそのまま表現されているかのようだ。

高石垣のうえに建つ富士見櫓。石垣を洗っていた堀は埋められている

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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