<城、その「美しさ」の背景>第6回「高松城月見櫓」 波間に浮かぶ「海の天守」 香原斗志

かつては波が石垣を洗っていた月見櫓

ヴェネツィアを思わせる巨大な海城

高松城は江戸時代、日本でいちばん美しい城のひとつだったかもしれない。城の北面は瀬戸内海に接し、海岸から直接、石垣が立ち上っていた。つまり、石垣の裾を波が洗い、そのうえに櫓が建ち並び、櫓は白い土塀で結ばれていた。日本最大の海城で、明治期のものだが、「讃州讃岐は高松様の城が見えます波の上」という民謡のくだりもある。

左から月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓(すべて重文)

実際、海上から眺めると、波の向こうに白亜の櫓が建ち並び、その奥にはそびえる天守が望めたわけで、ヴェネツィアのサン・マルコ広場を海上から眺めた光景とくらべたくなる。埋め立てが進み、城の中心部も石垣と海を隔てて水城通りが走り、フェリー乗り場が設けられているのが、残念でならない。

高松城の築城は天正15年(1587)、生駒親正が豊臣秀吉から讃岐一国を与えられてはじまった。同18年(1590)にひとまずの完成をみたといわれるが、実際には、さらに工事が続いたようだ。生駒氏が寛永17年(1640)に領地を没収されると、同19年(1642)に水戸の徳川家から、水戸黄門として知られる光圀の兄、松平頼重が、東讃岐12万石の領主としてやってきた。

家康の孫の頼重が江戸から遠く離れた讃岐に置かれたのは、中国や四国の大名を監察する役目を負ってのことだった。したがって、武家諸法度で城の修復が厳しく制限されているなか、頼重は幕命に従うかたちで大規模な改修を重ねている。天守は寛文10年(1670)に新装され、翌年以降も大きな改修が進められた。

寛文13年(1673)に頼重が隠居したのちも、あとを継いだ頼常が改修を続けた。現存する月見櫓も頼常のもとで延宝4年(1676)に完成している。

美しいプロポーションの「海の天守」

三の丸から海に張り出した北の丸の西の角に、威厳をもってそびえる3重3階の月見櫓は、その名の本来の意味は「月見」ではなく「着見」だった。船の出入りを監視するとともに、藩主が参勤交代から船で帰り着くのをこの櫓から眺め見たといわれる。

事実、月見櫓は城内でも特別な場所に建っていた。南側に付属する続櫓や、それに続く水手御門も現存していて、海に直接出られるこの門は、藩主が参勤交代などで出かけ、また帰国するときに、ここから船に乗り降りするための出入り口でもあった。いわば高松城の海の大手門だったのだ。

平櫓に挟まれた水手御門が海の大手門だった

海の玄関口にそびえるだけのことはあって、この櫓は非常に凝っている。1階から上階に向って平面を少しずつ小さくして重ねる層塔型で、1階が5間四方で2階が4間四方、3階が3間四方と規則正しく逓減している。このため均整がとれたプロポーションが美しい。

月見櫓を西側から見上げる

そして海に面した石垣上には、1階の屋根の平側(棟に平行な側。長辺のことが多いが月見櫓は床面が正方形だ)には石落としを兼ねる唐破風の出窓、妻側(屋根勾配が三角に見える側)には、やはり石落としを兼ねた切妻破風の出窓が設けられている。また、2階の妻側には屋根を弓型に盛り上げた軒唐破風がつく。しかも、それらがすべて、左右対称に陸側にもしつらえてある。

一般に櫓は、陸側には破風どころか窓もつかない。ところが、この月見櫓は切妻破風の出窓の反対側には、同じ意匠で玄関(向拝)を設置している。また唐破風の出窓の反対側は、続櫓につながる場所なので破風など要らないはずだが、わざわざ破風の下に出窓型の張り出しまで設けている。そして窓も、海側にも同じ位置に同じ数だけ開けられている。徹底して左右対称にこだわっているのだ。それは通常は天守のための意匠で、この櫓が、いわば海の天守だったことの証だといえる。

陸側から見た艮櫓。移築されたため石落としの位置が不自然だ
陸側から見た月見櫓と続櫓、水手御門

窓の上下に巡らされた白木の長押もアクセントになっている。また、軒裏の意匠がおもしろい。軒を支える垂木をすべて隠して軒裏を平らに塗り籠めた板軒型で、現代の住宅では標準的なかたちだが、城郭建築では珍しい。この平らな軒が美しいプロポーションと軒先の大きな反りとバランスされて、清楚な美しさをかもし出している。

月見櫓の軒裏は垂木が見えない板軒型

海岸に並んでいた優美な櫓と戦闘的な櫓

高松城には三重櫓が5棟もあった。西国大名を監察すべき城が、西国大名の豪壮な城に負けていてはいけないので、幕府のお墨つきで立派な姿に整えられたわけだ。それが月見櫓のほかにもう1棟残っている。艮櫓である。これは月見櫓が建つ北の丸の東方、東の丸の北東隅に海に面して建っていたのだが、現在は桜の馬場の、やはり三重だった太鼓櫓の跡に建っている。もともと旧国鉄の所有だったのを昭和40年(1965)に高松市がゆずり受け、2年かけて現在地に移築された。

太鼓櫓台に移築された艮櫓

建てられたのは月見櫓と同時期の延宝5年(1677)。3重3階で1階平面は5間余り四方と、月見櫓よりわずかに大きい。そして2階は4間四方、3階は3間四方と逓減する。このようにプロポーションは月見櫓とあまり変わらないが、外観は同じ城の櫓とは思えないほど違っている。

壁面は白漆喰の総塗籠で、月見櫓の外観上のアクセントである白木の長押はない。軒裏の形状もよくある波型だ。そして、1階の三方には袴腰型の巨大な石落としがつく。張り出し方が大きすぎて、櫓全体がロケットのように見えてしまう。また、各階には鉄砲狭間がこれ見よがしに並ぶ。月見櫓にも狭間はあるが、外からは見えない隠し狭間になっている。

屋根には1階の妻側に大きな千鳥破風が、2階の平側には軒唐破風がつき、それぞれ陸側にもあるところは月見櫓と通じている。陸側は一角に石落としがなく窓の数も若干少ないなど、月見櫓のような完全な左右対称ではないが、四方を正面とした天守の意匠である点は共通している。

優美な月見櫓と、鎧兜をまとったかのような艮櫓。まるで異なった姿の三重櫓が海に向って建っていた高松城。現存する建物をもとに、かつての美観を想像できるだけでも価値はある。

最後に天守にも触れておきたい。本丸に残る天守台は平成17年(2005)から修復工事が行われ、同25年(2013)に完成した。その際に地下1階から発見された58個の礎石は、天守台上で見ることができる。

整備された天守台。堀には海水魚が泳ぐ
発見された天守の礎石

明治17年(1884)に腐朽を理由に取り壊された3重4階、地下1階の天守は、高さが四国の天守では最高の26.6メートルだったと推定されている。また、1階平面が天守台の石垣より外側にはみ出し、3重目も上層の階を下層の階より張り出した、南蛮造り(または唐造り)と呼ばれる特異な姿をしていた。また、軒裏は月見櫓と同じ板軒型だった。

古写真が多く残っており、復元に向けて準備が続けられている。内堀にはいまも海水が引き入れられ、鯉ではなく鯛が悠然と泳ぐ。そこに突き出た天守台に特異な姿をした白亜の天守がふたたびそびえる日を待ち望みたい。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。