<城、その「美しさ」の背景>第5回「金沢城石川門」 比類なき完成度 百万石の矜持 香原斗志

百閒堀から見上げた石川門

天守はなくても百万石にふさわしい城

 

加賀百万石。徳川家をのぞけば前田家は、江戸時代を通じて全国最大の大名だった。もちろん、その居城である金沢城は、百万石にふさわしい城だった。

 

ただし、金沢城に天守はなかった。天正11年(1583)に金沢城主になった前田利家が本丸に天守を建てたのは間違いないが、慶長7年(1602)に落雷で焼失すると、再建されなかった。利家が死ぬと、跡を継いだ前田利長は関ヶ原合戦の前年、謀反の疑いをかけられている。五大老筆頭の徳川家康が、五大老ナンバー2の利長をゆさぶったのだが、利長は母親を江戸に人質に出すなどしてなんとかしのいだ。そんなこともあって、徳川家から疑いをかけられないように細心の注意を払い、天守を再建しなかったのである。

 

天守の代わりとなる小ぶりの三階櫓は建てられた。だが、遅くとも寛永8年(1631)の火災で焼失し、再建されたが宝暦9年(1759)の火災でふたたび焼失。以後は三階櫓も建てられなかった。

 

しかし、城の美しさは天守の有無で決まるわけではない。事実、金沢城は一つひとつの櫓や門、それに土塀までが、この城独自の個性がつらぬかれた磨かれた様式で統一され、ほかの城にはない美しさが表現されている。それは高級な意匠であることからも、高い品位が保たれていることからも、百万石の城にふさわしい。

 

まずは、広大な百閒掘を渡った三の丸の入り口に現存する石川門を見てみたい。

 

鉛瓦、海鼠壁、唐破風つきの石落とし

 

石川門はいわゆる枡形門である。枡形とは文字通り、酒や米を計量する四角い枡状だからついた呼び名で、一の門である高麗門をくぐると四角い空間がある。そして右か左に直角に曲がって、二の門である櫓門をくぐる。侵入した敵はまっすぐに進めないばかりか、枡形の空間に閉じこめられ、櫓門など三方から攻撃されてしまう。攻めにくく、守りやすく、近世城郭の門のメインストリームが枡形門だった。

石川門の一の門(高麗門)から二の門(櫓門)を見る

だから、全国に無数の枡形門があったわけだが、そのなかでも防備が最も厳重なひとつがこの石川門だ。一の門をくぐって右に折れると櫓門があるのは定石通りだが、一の門の正面や左手の辺には、一般には土塀が建てられていることが多い。ところが、石川門は多門櫓で取り囲んでいる。二の門の上も渡櫓なので、枡形の三方が櫓に取り囲まれ、守る側は雨が降ろうが雪が降ろうが屋根の下から余裕の攻撃をしかけられる。しかも、一の門の右脇には二重櫓が建つ。

石川門枡形の多門櫓。石垣にも注目

まさに鉄壁の防御だが、それぞれの建物の意匠は、凝りすぎなくらい凝っている。

 

石川門を少し離れた位置から眺めると、屋根が銀色に輝いている。とくに陽に照らされると輝きを増すが、それはほかの城にほとんど例がない鉛瓦が葺かれているからである。木でつくられた瓦型の下地に鉛の板を巻きつけた瓦で、金沢城の瓦は寛文5年(1665)に鉛瓦に吹き替えられたようだ。軽量化や耐久性を考えてのことだろうが、美観も意識したに違いない。というのも、この城は美観への配慮が徹底しているのだ。

 

海鼠壁もそのひとつ。石垣から立ち上がった壁面に、少し銀色を帯びた小さな正方形の枡がたくさん描かれている。これは土壁の上に平瓦を張りつけ、継ぎ目を漆喰で塗り固めたもので、漆喰の断面が半円を描いてナマコのように見えるために海鼠壁と呼ばれる。張りつけられた平瓦のいぶし銀の色彩が鉛瓦の輝きと呼応して、じつに美しい。もちろん外壁を保護する目的があってのことだが、下見板などにくらべて手間も経費もはるかにかかる。百万石の財力があればこその、美観へのこだわりだろう。

 

また、櫓の隅には白木の柱が表に出ているように見えるが、そうではない。わざわざ筋鉄を打って、柱に見せかけているのだ。この筋鉄が壁面の白さを際立たせてもいる。

石川門の二の門の石落とし

石落としも凝っている。二重櫓も櫓門の渡櫓も一の門と並んだ面に、唐破風がつき、前面に格子が並ぶ出窓がしつらえてあるが、これは石落としである。なんと手間がかけられて優美な石落としだろう。石川門から続く土塀に設けられた石落としも、同じ形状なのだ。しかも出窓はみな、すみずみまで銅板が巻きつけられている。櫓の隅の筋鉄もそうだが、耐久性に欠ける部分が一つひとつ、金属や瓦でていねいに埋められている。

石川門に続く土塀の石落とし

城内全域におよんだ凝った意匠

 

ところで一の門の左手の二重櫓は、一重目の屋根が大きな入母屋造りで、その上に二重目を、入母屋の屋根を1階とあえて交差させて載せている。つまり、天守の起源につながる古い望楼型の形状をしている。しかし、この櫓は構造的には望楼型ではないのだ。

 

初期の天守は石垣の構築技術が未熟だったため、天守台の表面がゆがんでいることが多かった。しかし望楼型の場合、正方形や長方形の望楼を載せることが可能で、1階の平面のかたちを上階が引きずらなくてもよかった。だが、この二重櫓は1階の平面が菱形で、2階の平面も相似形の菱形をしている。つまり、1階から上階まで同じ平面を少しずつ小さくして重ねた層塔型の構造なのだが、それなのに1階の屋根は望楼型と同じ大きな入母屋破風で飾っている。華やかさを表現するために、あえて凝った屋根にしたとしか考えられない。

 

ちなみに、現存する石川門は宝暦9年(1759)の大火で焼失後、天明8年(1788)に再建されたものだ。もとの姿をかなり踏襲しているが、焼失前はもっと凝っていた。一の門と並ぶ面の破風は、いまは前述した石落としの上の唐破風だけだが、かつては石落としの上には千鳥破風がつき、2階に向唐破風がつけられていた。破風を減らしたのは藩の財政が逼迫していたからだが、それでも基本的なつくりは変えないところに、百万石の矜持が感じられる。

 

まだまだある。櫓門の入り口は扉や鏡柱に筋鉄が、防御のためだけとは思えない水準で美しく打たれ、端部には飾り金物がしつらえてある。また、再建する際に積み直した石垣は、築石の色の配置にまで配慮してすき間なく積まれている――。このように、美観への配慮を指摘すればきりがないほどだ。

 

しかも、こだわりの意匠は城内全域におよんでいた。本丸付段に現存する三十間長屋も鉛瓦、海鼠壁、隅部の筋鉄、唐破風の出窓型石落としなど、まったく同じ意匠である。

現存する三十間長屋

金沢城址は戦後、国立金沢大学のキャンパスになっていたが、平成7年(1995)に大学が郊外に移転。以後、都市公園として復元整備事業が進められてきた。同13年(2001)に菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓、橋爪門一の門(高麗門)が復元され、橋爪門二の門も同27年(2015)に完成。同22年(2010)には実質的な正門だった河北門が復元され、令和2年(2020)には鼠多門も蘇った。いずれも発掘調査および絵図や史料をもとに、往時と同じ工法による木造で復元されている。

復元された橋爪門と続櫓

これらの復元建造物も、海鼠壁の漆喰が黒く、隅部に筋鉄が打たれていない鼠多門をのぞけば、石川門と同じ意匠だ。

2020年復元の鼠多門は意匠が少し異なる

たとえば、高さ17メートルと彦根城や宇和島城の天守よりも高い三重三階の菱櫓。この櫓も二重目の屋根が大きな入母屋で、そこに三重目の入母屋屋根を交差させて載せた、望楼型の姿をしている。しかし、櫓台の石垣はあえて隅角が100度の広角になっている。物見櫓としてより広い視覚を得るためだと考えられ、その結果、櫓の平面は菱形だ。そして石川門と同じく、最上階の平面も12階と同様に菱形なので、二重目の入母屋破風は見栄えのためだとわかる。しかも、この櫓は柱も出窓も破風もすべて菱形で、再建の際にも非常に高度な技術が必要だったという。

復元された菱櫓

百万石の誇りはこうした細部への徹底したこだわりに現れ、それが城内全体に及ぶことで、総合的な美観を形成していた。それは一点豪華主義の天守をはるかに上回る美しさだった。

復元された河北門
香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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