<城、その「美しさ」の背景> 第4回「高知城天守」 ダイナミズムとエレガンスの絶妙の均衡 香原斗志

追手門から天守を望む

最初期の面影を最もとどめる新しい天守

個人の趣味をいいすぎるのはどうかと思いながら、あえて少しだけいえば、安土城天主や豊臣秀吉の大坂城天守のような、大きな入母屋屋根に平面が正方形の小さな望楼が載った天守が好きだ。扇の勾配を見せる石垣にも似て大きく弧を描く入母屋破風の、優美にして雄大な曲線と、高欄つきの廻縁が備わるためになおさら華奢に見える小さな望楼の、異質なようで、じつは優美な点が共通しているふたつの要素がからみ合い、相乗効果で美しさを増している。

それは天守という建築の草創期にだけ見られる微妙な均衡のうえに成り立った美しさで、現存天守のなかでその特徴を色濃くとどめるのは、高知城しかない。ところが、この天守が完成したのは江戸時代も半ばをすぎた寛延2年(1749)なのだ。

高知城を築いたのは山内一豊だ。関ヶ原合戦ののち、土佐を本拠に四国の覇者となった長宗我部元親の子、盛親は西軍にくみして改易となったため、土佐24万石は一豊に与えられた。最初は長宗我部の居城、浦戸城に入った一豊だったが、そこに城下町を築く余地がないと判断すると、標高44メートルの大高坂山への築城を決断。慶長6年(1601)秋に工事がはじまり、天守は慶長8年には完成した。

しかし、永享4年(1727)に城下で発生した火災は城に延焼し、城内の建造物は天守をふくめ、ほとんどが灰燼に帰してしまった。もちろん再建事業に手がつけられ、天守は20年後に完成した。それが初期天守のスタイルなのは、焼失した一豊の天守が再現されたからである。

高さは低いのに六階建てだから

そもそも一豊は、前任地である掛川城の天守を高知に再現したいと願ったといわれ、こんな逸話も伝わる。最上階には掛川城と同じように廻縁をつけたいと主張する一豊を、家老たちは目立つからやめるようにいさめたが、一豊は希望をかなえるために徳川家康の許可までとってしまった――。

つまり再建された高知城天守は、一豊が掛川城へのオマージュとして建てた天守へのオマージュ、つまり二重のオマージュだったのだ。事実、昭和の解体修理で、礎石が焼失前とまったく同じ場所に置かれていたことが確認されるなど、焼ける前の姿が踏襲されたことが確認されている。

では、江戸中期に再現された初期天守の特徴とはなにか。それに迫るに前に、高知城天守が18.5メートルとあまり高くないのに、四重六階であることを押さえておきたい。ちなみに、三層三階の宇和島城天守は高さが15.8メートルで、それより3メートルも高くない高知城の階数が2倍なのだから、それぞれの階高はどうしても抑えられ、現存天守でいちばん低い。だが、そのおかげで安定感が増し、小さな望楼が載っても間延びせずにすんでいる。

1階と2階はともに平面が8間×7間で、総2階の建物に大きな入母屋の屋根がかかったかたちだ。ところで、天守の平面の大きさは通常、柱の間隔を表わす「間」で表記され、天守の1間は6尺5寸(1.97メートル)の京間であることが多い。ただし、天下人の城では1間が7尺の大京間がふつうで、反対に6尺から6尺4寸まで小さめの場合もあるが、そこは問わないことにする。

そして大きな入母屋屋根がかかった二重の建物のうえに、二重の望楼が載っている。三階と四階は4間四方で、三重目の屋根を経て五階、六階は3間四方。最上階が3間四方なのは、安土城や大坂城の天守と共通している。

ダイナミズムとエレガンスが均衡

外壁は白漆喰の総塗籠で、破風が大きなアクセントになっている。二重目の妻側(短辺の側)には大きな入母屋破風が美しい勾配を描き、三重目の屋根には、勢いよく上に伸びる入母屋破風の先端に推されるように、弓型に弧を描く軒唐破風がつく。このふたつの破風によるダイナミズムは、階高が低いからこそ生まれている。

東側から遠望した天守

また、平側(長辺の側)にも三重目の屋根にぶつかりそうなほど大きな千鳥破風が設けられ、妻側の入母屋破風とともに天守の二重目をダイナミックに囲む。だが、弓のように弧を描く破風の勾配は優美でもあり、エレガンスを感じさせる。このダイナミズムとエレガンスの均衡が、高知城天守の美しさのツボだろう。

これらの破風は屋根裏階である三階へ採光する役割も負っていて、それは初期の天守に共通する特色だ。また最上重の入母屋破風は、天守を正面から眺めたときに正面を向く。二重目の入母屋の大屋根と最上重の入母屋を交差させているのだが、このスタイルも安土城や大坂城と同じだ。高知城天守はこうして、初期の望楼型天守の特徴をほとんど逸脱しないまま美しさを表現している。

とはいえ防御にも抜かりはない。この天守には天守台がなく、本丸石垣の北側の、鈍角に折れ曲がった箇所から直接立ちあがり、ほかの3面は平らな土地に建てられている。そして、石垣に載った天守北面には、一階に2つの石落としが備わり、一階下端には壁から剣の先が飛び出した忍び返しが並ぶ。一階、二階、四階の壁面には大きな鉄砲狭間がたくさん並んでいる。

天守一階に設けられた石落としと忍び返し

その一方で、最上階には廻縁が備わって擬宝珠がついた高欄で囲まれ、それらは黒漆で塗られている。ここにもダイナミズムとエレガンスの均衡が見られる。

もうひとつ加えるなら、高知城天守は左右がほとんど対照なのに、どの角度から眺めても非対称に見える。それは日本で唯一、本丸が完全に残っていることと関係ある。

本丸の東方下から天守を見上げる

すなわち、東側から眺めると石垣上を東南に延びる土塀が天守の一階に重なって見え、左側には本丸御殿の屋根が天守の大屋根に連なるように見える。北側から眺めると、右に東多門がつながっている。本丸から眺めれば、天守の前には本丸御殿が建っている。このため天守がいっそう複雑な姿に見え、美しさを増している。

北側から眺めた天守
天守と本丸御殿

ただし、ひとつ指摘しておきたい。この150年近く遅れて登場した初期天守のレプリカは、太平の世、それも外からの刺激が閉ざされた鎖国下において、城郭建築が進化の歩みを止めてしまった証でもある。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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