<城、その「美しさ」の背景> 第3回「名古屋城天守」 強靭な戦闘能力を秘めた将軍家の自信作 香原斗志

本丸御殿の向こうに大天守と小天守

歴史評論家・香原斗志さんの好評連載。3回目はこちらも日本を代表する名城。今なお巨大都市のシンボルです。

将軍家の威信をかけた最大級の天守

 

中学生のとき、炎上する名古屋城天守の写真を見て衝撃を受けた。名古屋城がB29の焼夷弾攻撃に遭ったのは昭和20年(1945514日未明で、江戸時代から俗謡に「尾張名古屋は城でもつ」とうたわれた名城は失われてしまった。写真が飾られていたのは、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで外観復元された天守のなか。デパートのような味気ない空間で、30数年前まで存在していたオリジナルの天守の威容を思い浮かべ、いたたまれない気持ちになった。

 

名古屋城天守は多くの点でほかの城の天守を圧倒していた。名高い金の鯱だけではない。まずスケールが違った。天守本体が36.1メートル、天守台の石垣を合わせると55.6メートルという高さは、完成した慶長17年(1612)当時、徳川家康が建てた江戸城の初代天守に次ぐ規模だった。

 

その後、寛永4年(1627)に徳川家光が再建した大坂城天守は本体が43.9メートル、同じく家光が寛永15年(1638)に建て直した江戸城天守は44.8メートルで、一段と背が高かった。しかし、これらはともに半世紀も経たずに焼失してしまったので、それからは幕末まで名古屋城が日本最大の天守であり続けた。

 

これほどの規模で建てられたのは、徳川家康の命で築かれたからである。大坂の豊臣秀頼に睨みをきかせるために、西国の20大名に助役を命じ、20万人の人夫を動員して慶長15年(1610)から築城工事がはじまっている。大坂城を上回る大城郭だ、という大坂に向けてのメッセージでもあったのだろう。徳川将軍家の威信の結晶のような城だった。

再建された本丸御殿越しに見る天守

最新の層塔型を採用して巨大なスケールに

 

だが、もちろん、やみくもに巨大な天守を建てたのではない。それは最新の形式、すなわち層塔型を導入してこそ可能になった。

 

ここでいずれの城の天守も、望楼型と層塔型に分かれることを説明しておきたい。

 

天守はもともと、大きな書院造の建物のうえに小さな物見台を載せたかたちからはじまっている。だから、初期の天守は織田信長の安土城などが典型だが、大きな入母屋屋根の建物のうえに物見すなわち望楼が載っていた。これが望楼型天守で、だから一重目か二重目にかならず大きな入母屋破風がある。現存天守では犬山城の姿を思い浮かべるとわかりやすいだろう。

 

じつは姫路城や彦根城も望楼型だ。姫路城は二重目に、彦根城は一重目に大きな入母屋破風があり、事実、入母屋の建物のうえに望楼を載せる構造で建てられている。すると継ぎ目に屋根裏階ができやすい。だから姫路城天守は五重六階で、重なる屋根の数と内部のフロアの数が一致しない。

 

一方、層塔型は下から一重ずつ、フロア面積を一定の比率で小さくしながら積み木のように重ねた形式で、大きな入母屋破風はない。築城の名手とたたえられた藤堂高虎が慶長7年(1602)、五重五階の今治城天守に採用したのが最初だとされる。以後、この形式がたちまち主流になったのだが、それは構造が単純なので(外観の重数と内部の階数もおのずと一致する)木材を規格化しやすく、工期も短縮できたからだ。そして、構造が単純なほうが規模も拡大しやすい。名古屋城天守のスケールは、新式の層塔型を採用することで可能になった。

 

もちろん、前述した大坂城や江戸城の巨大天守も層塔型だった。しかし、これら二つは屋根を重ねるごとにバランスよく逓減してスマートなのにくらべると、名古屋城は「層塔(屋根がいくつも重なった高い塔)」というわりには、少しずんぐりむっくりし、デコラティブな印象も強い。

破風がリズミカルに配置され、軒の反りも大きい

戦闘力は隠して美しさを強調する

 

望楼型の姫路城天守のわずか3年後に完成した名古屋城天守は、多くの天守が層塔型に移り変わる過渡期に建てられた。だから、望楼型に通じる部分も多い。

 

たとえば、現存する望楼型天守を例にとると、犬山城も、松江城も、姫路城も、一階(一重目)と二階(二重目)はほぼ同じ大きさだ。つまり、入母屋屋根が載ったおおむね総二階の建物の上に望楼が載っているのだ。一方、屋根を重ねるごとに床面積が逓減する層塔型の場合、一般に二階は一階よりも小さい。ところが、名古屋城天守は一階と二階が同じ大きさで、三重目から層塔型で積み上げたような姿をしている。実際、三階から上が伸びやかなのにくらべると、一階と二階は押しつぶされたように高さが抑えられているのに気づくだろう。

 

ちなみに、名古屋城天守は一重目からの逓減率が低いぶん、江戸城天守をも上回る4424平方メートル(1338坪)もの延べ床面積を誇っていた。

19.5メートルの石垣上に建つ名古屋城天守

また、二重目の妻側(短辺の側)の大きな千鳥破風(屋根の斜面に三角形を載せた破風)は、大きな入母屋破風のようにも見える。一、二階の構造とともに、どう見ても望楼型の名残である。このため単調になりがちな層塔型に変化が加わっている。

 

変化はそれだけではない。二重目から上の屋根には、ほかにも大きな破風がたくさん飾られている。平側(長辺の側)は二重目に2つの千鳥破風が(2つ並んでいるものを比翼千鳥破風と呼ぶ)、三重目に大きな千鳥破風が、四重目には軒唐破風(軒を丸みをつけて迫り上げた破風)がつく。かたや妻側には、二重目にいま述べた千鳥破風のほか2つの軒唐破風が、三重目には比翼千鳥破風、四重目にも千鳥破風がつく。

 

こうして破風の数は史上最多の22にもなる。とくにたがい違いに配置された千鳥破風のおかげで、リズムと躍動感が生まれている。また、一階と二階が同じ大きさなので一重目には破風をつけられず、そのぶん二重目から上に22もの破風が集中したので、一見ずんぐりむっくりしていながら、空に向かって飛び立ちそうな躍動感がある。そのうえ、どの千鳥破風も勾配が大きく反り、軒先の反り方もほかの城の天守よりかなり大きいので、いっそう躍動的だ。

本丸の西南隅櫓と天守

じつは、名古屋城天守はかなり戦闘的にもできている。たとえば、大天守には連結する小天守の地階から入るのだが、入口の門扉をくぐるとコの字型に折れ曲がってまた門扉があり、橋台を通って大天守に到達すると、その入口の口御門は総鉄板張りで上からは石落としがのぞき、その先の大天守地階はなんと枡形になっていた。おそろしいまでの厳重な防備だが、それは外からは見えない。同様に、大天守の壁には数多くの鉄砲狭間が開けられていたが、いずれも表面を塗りつぶした隠し狭間で、外からは見えなかった。

 

さらには、いずれの窓も白漆喰を塗った土戸が格子の外側にあって、それを閉めると窓が真っ白く見えるように工夫されていた。とくに最上階の窓は小さく、上下に据えられた長押がアクセントになっていた。復興天守ではこれらの土戸が省略されたうえ、最上層の窓は大きなガラス張りに改変され、残念なのだが、元来はその戦闘的な性格を極力隠して美しさを強調しようとしていた。

 

戦闘のための城であっても、戦闘力よりも美しさを強調して余裕を見せる。それが将軍家の威信だったのだろう。

北側の水堀越しに天守を望む

香原斗志(かはら・とし):歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。