<城、その「美しさ」の背景> 第2回「彦根城天守」 “プレハブ作り”を逆手に取った創造性 香原斗志

天守の南面

歴史評論家、香原斗志(かはら・とし)さんがお城の「美」を語る連載。第2回は琵琶湖にほど近い、戦略上の要衝に築かれた名城です。

佐和口多門櫓越しに望む天守

小さいことに気づかないほど華麗な天守

 彦根城の天守は、天守台を除いた建物自体の高さが約15.5メートルと小ぶりで、姫路城の半分にすぎず、国宝5城(姫路城、松本城、松江城、犬山城、彦根城)のなかでも一番低い。だが、小さいことに気づかないほど、外観からは華麗な印象を受ける。それほど装飾性が高いのだが、一つひとつの装飾を観察する前に、彦根城の成り立ちを確認しておきたい。なぜなら、築城するにあたってのさまざまな事情が、この天守の美観に大きく関係しているからである。

 

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍を率いた石田三成の領地を、徳川家康は戦後、徳川四天王のひとりの井伊直政に与えた。直政は三成の居城だった佐和山に入ったものの、そこは標高233メートルで土地が狭く、琵琶湖の水利を活用するにも不便だったので、ほかの土地に城を移すことが検討された。

 

直政は関ヶ原で負った傷が原因で慶長7年(1602)年に没するが、移転先選びは徳川家康も口出ししながら進み、翌年には彦根山への築城が決まった。なぜそこに家康が関わったのかというと、琵琶湖東岸のこの地域は、大坂の豊臣秀頼と、豊臣家の息がかかった西国の大名たちを牽制し、戦闘になったときは防御線になることが求められたからだ。

 

したがって彦根城は、幕府の命令で各大名が工事を請け負う、いわゆる天下普請で築かれた。慶長9年(1604)までには工事が始まり、ほぼ2年で天守以下の主要部が完成した。

本丸から天守の東面を見る

五階を三階に縮めたどっしりとした構え

 築城にあたっては工期を短縮するために、ある方法が多用された。移築である。日本の伝統的な木造建築は、木材に凹凸を加工して組み合わせる工法で建てられ、構造部分には釘などの金物を使わない。いわば積み木のような構造だから解体するのも簡単で、要らなくなった建物をよそに持ちこんで組み立てる移築は、日常的な手段だった。

 

だから、彦根城にいまも残る建造物は、天秤櫓は長浜城の大手門を移築したものだといわれ、太鼓門櫓もどこかから移築された痕跡が残っている。そして、天守は大津城から移築したと伝えられているのだ。

 

『井伊家年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守(天守のこと)也。此殿守は遂に落申さず。目出度殿守の由。家康公上意に依て移され候由、棟梁浜野喜兵衛、恰好仕直候て建候由」と書かれている。つまり、関ヶ原合戦で西軍に攻められても落ちなかったおめでたい天守なので(現実には大津城は降伏しているが、焼けずには済んだからめでたいということか)、家康の命で移築が決まり、大工の棟梁が改造して建てた、というのだ。実際、大津城にあったときは四重か五重の五階建てだったのを、彦根城に建て直すとき三重三階に縮められた。

北側の内堀から望んだ天守

さて、そういう前提で彦根城天守を眺めてみよう。まず1階平面は桁行(建物のけたが渡されている長さで、長手方向のこと)が11間で、7間の梁間(建物のはりに平行な方向で、短手方向)にくらべてかなり長い。なにしろ桁行は天守の高さを上回っている。だから極端なほど長方形の平面で、高さも抑えられているため、南北から眺めると、かなりどっしりとした構えに見える。

 

移築の際には新調する部材も多く、単純に上層部をちょん切ったわけではないが、五階建ての天守を切りつめたために、地面に踏ん張るような構えになったとはいえるだろう(大津城天守の1階の表面積は、むしろ彦根城より少し小さかったようだ)。ちなみに、長方形の平面は初期の天守にときどきみられる。また一般に天守は、上の層にいくに連れて逓減し、特に最上層は小さいケースが多いが、彦根城は逓減率が小さい。これも五階建ての上部を切りとったからではないだろうか。

天守の西面

異例なほど多い破風と花頭窓

 さて、彦根城天守は、このどっしりとした構えのなかに、ありったけの装飾を押し込んでいる。

 

まずは屋根飾りの破風である。南面と北面は、一重目に庇のついた切妻破風が2つ並び、二重目に入母屋破風、三重目には軒唐破風が。そして東面と西面は、一重目に大きな入母屋破風があり、その両側を切妻破風が飾っている。二重目には軒唐破風、三重目には入母屋破風が設けられている。その合計は18。もちろん、三重の天守でこれほど破風が多かった例はほかにない。

 

しかも、それらが絶妙のバランスでリズミカルに配置され、弧を描く軒唐破風を飾る金箔貼りの装飾金具も、華やかさに色を添えている。

 

それから釣鐘型(尖塔型)で、イスラム建築の窓にも似た装飾的な花頭窓が、二層目と三層目に、これまた計18も開けられている。最上層には、実際にその上を歩くのは困難ながら、廻縁がつけられて(破風でさえぎられ、廻ってはいないが)華やかさを増している。

 

移築して上層部を切りとり、小さくなってはしまった。しかし、こうした数々の装飾を得たことで、城下から望んでも横に大きく羽を広げているように見え、非常に華麗な印象を受ける。その効果で、あまり小ぶりには感じない。

 

既存の建物を、まるでプレハブのようによそから運んできて組み立てる、という大きな制約を逆手にとって、美しく独創的な造形を実現させた。そこに彦根城天守の価値がある。

井伊家の庭園、玄宮園から天守を望む

香原斗志(かはら・とし):歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。

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