<城、その「美しさ」の背景> 第1回「姫路城天守」 狭隘な敷地に高密度建築 難条件を克服した奇跡の世界遺産   香原斗志

姫山にそそり立つ天守群

日本人のお城好きは特別のものがあります。テレビでは頻繁に「名城」を取り上げる番組が放送され、お城をテーマにした出版物も人気です。「日本100名城」巡りなどを楽しむ方も少なくありません。ただ、そうした中、お城の「美しさ」にフォーカスして論じたものは意外と少ないように思えます。この連載では、城郭に詳しい歴史評論家で、オペラなどヨーロッパの文化にも通じた香原斗志(かはら・とし)さんに、各地の名城の歴史と特徴、そしてその「美」について自在に綴ってもらいます。第1回はやはりこれしかないでしょう。世界遺産のあの城です。

建築群が濃密に重なり合う

 姫路城の天守は美しい。現存する12の天守のなかで最大でもあり、他を圧する存在感を放っているが、たまたま残った遺産のなかではこれが美しい、という小さな話ではない。慶長20年(1615)に幕府が一国一城令を出したのちにも、全国に百数十の天守が存在したが、そのなかでも「姫路城は日本一」と、江戸時代から道中記などで讃えられてきた。そんな特別な天守が、幸いにもいまに伝えられているのである。

 

では、なぜ姫路城はこれほど美しいのだろうか。もちろん、築城した池田輝政の美意識も反映されているだろうが、それだけではない。やむをえない物理的な条件なども重なった結果として、あの美しさがある。

 

姫路城の天守は眺める角度によっては、高い建物が林立しているように見える。実際、複数の建造物の集合体だ。石垣で築かれた口の字型の天守台の四隅に五重の大天守と三重の小天守3棟が建ち、二重の渡櫓で結ばれている。連立式天守と呼ばれる構成だが、姫路城の場合、天守台がとても狭いので、大天守を中心とした天守群が天高くそびえるように見える。

 

というのも、天守群が建つ標高約46メートルの姫山の山上は狭小なので、そこにそそり立つように築かれた天守台の面積もとても狭い。そんな場所に、ほかに例がないくらい壮大な建築群を建てたものだから、「密」が気になるほど重なり合い、姫路城だけの美しさが表現されているのだ。

古い縄張りの狭い石垣ならでは

 ところで、この天守はすでに述べたように、徳川家康の女婿でもあった池田輝政が築いた。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、大名の大規模な配置換えが行われた。東軍で活躍した輝政は播磨52万石を賜って姫路城主になり、姫山を中心に城と城下町の整備に取りかかり、慶長14年(1609)に天守が完成している。

 

関ヶ原合戦後、慶長20年(1615)に大坂夏の陣で豊臣氏が滅びるまでは、幕府が諸大名の城についてまだ統制しなかったので、猛烈な築城ラッシュが起き、石垣の築造技術から建築の精度まで、短期間にすさまじいほどの進化を遂げた。もちろん、輝政のもとでも最新の築城技術が用いられた。ただし、本丸や二の丸などがある姫山にかぎっては、旧式をかなり引きずっている。

じつは輝政が入る前の姫山には、羽柴秀吉が築いた城があった。織田信長の命令で播磨平定に乗り込んだ秀吉は、天正8年(1580)から築城を開始し、翌年には三重天守がそびえる城郭を完成させた。輝政は姫山にめぐらされた秀吉の縄張りを活かし、石垣も秀吉時代のものをかなり流用したのである。

 

天正8年といえば、織田信長が安土城を、日本で初めての総石垣で築きはじめてから4年しか経っていない。石垣の築造技術は未熟で、山を大胆に整地することができず、地形に沿って小規模で複雑な曲輪がつらなっていた。

 

つまり、築城技術が長足の進歩を遂げている真っただ中に、輝政はオールドスタイルで妥協したのである。実際、歩いたことがある人は感じたと思うのだが、天守までの通路は迷路のように複雑だ。その間、秀吉時代に築かれた古い石垣も、あちこちに見ることができる。

 

ただし、天守台は新たに築かれたのだが、その位置は秀吉の天守台の上だった。実際、大天守の地下では秀吉の天守台の石垣と礎石が発見されている。狭い山上で古い縄張りを活かしているので、そこにしか天守を築く余地はなかったということだろう。

 

そういう場所なので、大天守の1階平面は、東辺の北端が南端よりも東に飛び出していて、台形に近いかたちになっている。大天守を囲む小天守たちの1階平面も、かなり歪んでいる。そんな厳しい物理的条件にもめげずに、天に向かって大胆かつ壮麗な天守群を建てた結果が、この美しさなのである。

三の丸から仰ぐ天守群

実戦的な工夫も美しさに色を添える

 濃密にそびえ立つ天守群は壁が真っ白い。日本の城というと姫路城のように、白漆喰で壁面から軒裏までを塗り固めた総塗籠の白壁が、真っ先にイメージされると思う。だが、こうしたスタイルは関ヶ原合戦後に流行したもので、それ以前は安土城天主や秀吉の大坂城天守がそうだったように、下見板を貼った壁面が多かった。

 

漆喰で塗り籠めるようになった最大の理由は、燃えないため、そして弾丸で壊されないためだ。事実、姫路城大天守の土壁の厚さは50センチ近くもあり、その上に不燃材料の漆喰が塗られている。ただし、風雨にさらされるとはがれ落ちやすいのが漆喰の弱点で、下見板張りにくらべて維持が大変なのだが、真っ白い壁は城主の権威の象徴でもあった。権威を守るためには費用は度外視する、という発想だったのだろう。

 

また、天守の屋根には屋根飾りである破風が、じつに巧みに、優美に配置されている。入母屋破風、千鳥破風、弧を描く軒唐破風。直線と曲線が交錯しながら白い壁に絶妙のリズムを刻み、羽をはばたかせた鷺たちの群れのようにも見える。

 

最上階の壁面についても触れておこう。姫路城の天守群は柱や長押(柱と直角に交わるように張りつけられる横材)も壁のなかに隠し、表面に凹凸がないようにした大壁だが、最上階だけはあえて、柱や長押を壁から出っ張らせた真壁にして変化をつけている。こうした装飾の数々が、そびえる天守群に色を添えている。

西の丸から夕映えの天守を望む

ところで、真っ白い壁がそもそもは防火や防弾のためだったことからもわかるように、姫路城天守は戦闘を意識して建てられている。しかも、ほかの天守とくらべても実戦が意識されている。たとえば、地階には6カ所の便所と大きな流しが備わるが、これは籠城するときのためのものだ。また、3階と4階は構造上、窓が高い位置にあるが、そこから外に向かって射撃するための石打棚が備わる。

 

これらは外から見えるわけではないが、同様の意識は外観にも反映されている。たとえば、鉄砲を撃つために壁にうがたれた狭間は空前の数である。石落としも大天守一重目の四隅や小天守の隅部もちろんのこと、大天守一重目と二重目の屋根に設けられた軒唐破風の下の出窓にも備えられている。

 

「密」なのに破風のリズムの力も借りて、いまにも空に飛び立ちそうな天守群。そこに添えられた実戦的な工夫もまた、その美しさを後押ししている。

香原斗志(かはら・とし):歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。