【探訪】「運命」と「時」、儚く美しい清方の世界を堪能――東京国立近代美術館で「没後50年 鏑木清方展」

会場:東京国立美術館(東京都千代田区北の丸公園3-1)
会期:2022年3月18日(金)~5月8日(日)(※月曜休館、ただし3月21日、28日、5月2日は開館し、3月22日が休館)
アクセス:東京メトロ東西線竹橋駅 1b出口から徒歩3分
観覧料:一般1800円、大学生1200円、高校生700円、中学生以下、障害者手帳を持っている方と付添者(1名)は無料。それぞれ入館の際、学生証等の年齢のわかるもの、障害者手帳等の提示が必要。
※詳細情報は公式サイト(https://kiyokata2022.jp/)で確認を。
「三部作」に流れる時代の空気
やっぱりすごいものである、《浜町河岸》《築地明石町》《新富町》の三部作は。関係者が集まる内覧会でも、徐々に人だまりが出来ていく。数多すばらしい作品がそろっているのに、だれもがそこに足を止めざるを得ない。決して派手派手しい、スペクタクルな作品ではないのだけれど、やさしく切ないメロディーが流れ出してきそう。江戸から明治を経て、大正、昭和へと流れる時代、そんな空気がこの3作には詰まっている。

その中でもさらに印象に残るのは、やはり《築地明石町》だろうか。遠くに舟影が見える中、どこかに出かけようとしているのか、訪問着に身を包んだ女性がふと振り向いた瞬間。何を想うのだろう、涼やかだが意志の強そうなまなざしが心に響く。その視線、そのたたずまいからにじみでる、いかにも江戸芸者らしい「張り」や「心意気」。どんな「運命」を背負っているのか。どんな「時」の中で生きているのか。何げない表情の中から、様々な物語が脳裏に浮かんでくるのだ。

大きな力に翻弄され、懸命に生きる人々のいとおしさ
「運命」と「時」。今回の「鏑木清方展」、美人絵や風俗画、様々な作品に触れて浮かんだのは、この二つの言葉だった。踏み絵に向かう女性たちを描いた《ためさるゝ日》。美しく着飾った遊女も自分ではどうにも動かしようがない「運命」の中で生きている。《鰯》が描くのは、清方の時代であっても遠くなっていただろう明治の暮らし。そこに塗り込められた「時」は、在りし日への郷愁を誘う。それとともに、つい想いを巡らせてしまう。後の世の人々は文明の発展で何を得、何を失ったのか――。

いずれにしても背景にあるのは、人間が自分たちでは到底動かすことができない「大きな力」である。「運命」や「時」という「大きな力」に支配された世界で、時に人は小さな日常に楽しみを見いだし、あるいはその流れに身を任せ、そうでなければ《曲亭馬琴》で描かれた馬琴親子のように力を尽くして立ち向かう。悠久の「時」と抗うことのできない「運命」。それが透けて見えるからこそ、清方の作品は美人画も風俗画も美しく、儚く、愛おしい。・・・・・・まあ、「個人の感想」に過ぎませんが。同じ美人画でも、それぞれの女性が「ひとつの存在として、根源的な生命の光」を発しているような上村松園とは、まったくベクトルが違って見える。・・・・・・まあ、これも「個人の感想」なのですが――。

「芝居通」の清方にうなる
個人的に楽しいのは、芝居に関する絵が多かったことだ。初代中村吉右衛門らの役者や芝居関係者との交流も多かった清方だけに、画題のひとつひとつがいちいち芝居好きの心をくすぐる。《道成寺(山づくし)鷺娘》、《桜姫》など、大ぶりの作品も楽しいが、それよりもうなってしまうのは、小品の《芝居絵十二題》の方。

『三人吉三』の《お嬢吉三》。有名な大川端の場面、「月はおぼろに白魚の・・・・・・」でおなじみの名台詞が聞こえてきそうな陶酔感がある。《鳴神》、雲の絶間を介抱する姫鳴神上人、画面の隙間から男の色気が漂ってくるようだ。『お富与三郎』の《源氏店》での番頭・藤八とお富の絡みの場面。お富と与三郎が再会を果たす本題の前のコミカルな場面なのだが、ここを画題に選ぶあたり、いかにも芝居通だ。どの絵を見ても、リラックスして楽しみながら描いている感じがする。

劇場に来た母娘を描いた《さじき》も楽しい作品だ。左側に描かれた、まだローティーンに見える少女に、芝居好きなら親近感を持ってしまうに違いない。初めて見る芝居にすっかり心を奪われてしまったのか、ぽかんと口を開け、少し身を乗り出して一心に舞台を見つめるその姿。視線の先にあるのは、「花の海老さま」(九代目市川海老蔵=十一代目市川團十郎)だろうか、『娘道成寺』を踊る六代目中村歌右衛門だろうか。これから先、この子はどっぷり芝居の魅力にはまっていくのだろうな。自分の身と照らし合わせながら、ついつい笑みがこぼれてしまうのである。 (事業局専門委員 田中聡)
