【探訪】 溢れ出る求法の熱 伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」

「最澄と空海」と並び称される二人。天才型の空海(774-835)に対し地味な印象がある最澄(767-822)だが、平安以後の日本仏教の原型を作ったと言っても過言ではない。融通念仏宗の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮。鎌倉仏教と呼ばれるものの開祖は、ほとんどが比叡山から輩出されている。そんな精神界の巨人である最澄の世界に、目で見えるものとして迫ることができるか。
伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」
東京国立博物館平成館(東京・上野)
会 期 10月12日(火)~11月21日(日) 会期中、一部展示替えあり
開館時間 午前9時30分~午後5時
休館日 月曜日
前売日時指定券 一般2,100円、大学生1,300円、高校生900円
当日券 一般2,200円、大学生1,400円、高校生1,000円
※中学生以下、障がい者手帳を持つ方とその介護者1名は無料(ただし日時指定の予約が必要)
*混雑緩和のため、事前予約制(日時指定券)を導入。入場にあたってはすべて日時指定券の予約が必要。
*「当日券」は会場に若干数の用意はあるが、来館時に販売終了の可能性あり。
JR上野駅公園口・鶯谷駅南口より徒歩10分
東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅、千代田線根津駅、京成電鉄京成上野駅より徒歩15分
詳しくは展覧会公式サイトへ
巡回情報
≪九州会場≫
会期: 2022 年 2 月 8 日(火)~ 3 月 21 日(月・祝)
会場:九州国立博物館(福岡県太宰府市石坂4 – 7- 2)
≪京都会場≫
会期: 2022 年 4 月 12 日 (火 )5 月 22 日(日)
会場:京都国立博物館(京都市東山区茶屋町527)
最澄の面差しと天台の高僧像

現存する最古の最澄の肖像と言われる坐像。頭巾をかぶり袈裟を着て瞑想する。鎌倉時代としては珍しい一木造り。当時の肖像画や像はもちろん現代で言う写実とは違う。でも人々の目にどう映ったか、どう感じていたかを示唆してくれる。奈良仏教界との激しい対立や比叡山で12年の修行を積んだ、一途な精神が伝わってくる。ただ、後述する肖像画でもそうだが、近寄りがたい険しさは感じられない。それまでの己の解脱を目的とする仏教から、すべての衆生を救うという思想に転じた大乗の道らしいと言えばいいか。

同上 (左から)慧思(複製)、智顗(複製)、灌頂

インド、中国、日本の天台の高僧と聖徳太子の肖像画。何故ここに聖徳太子がいるかというと、天台宗の根本経典である『法華経』について日本で初めての解説書を著し、また太子が天台宗の祖智顗の師匠である慧思の生まれ変わりと伝えられているためだ。聖徳太子の次に来るのが龍樹。インドの仏教学者で著書「中論」で空の思想を確立し、大乗仏教の宗派からそれぞれの「祖」と位置付けられ尊敬されている。中国天台宗の実質的な開祖は中国隋時代の天台智者大師・智顗(538-597)で、皇帝煬帝の帰依を受けて天台山国清寺を建立し、天台宗を確立した。最澄の肖像はやはり頭巾をかぶり瞑想中だが、穏やかな表情が印象的だ。10幅の肖像画は展示替えの時期により何幅かは複製だが、11月2日から7日まではすべて現品が並ぶ。余談だが、高精細画像をもとに作られた複製の精度には驚く。
ただの文書と言うなかれ

最澄の得度、度縁、具足戒に関した文書3通を1巻としたもの。得度とは仏教への入門、度縁は僧になることを許可する交付証、具足戒とは出家者の守るべき決まりで具足戒を受けて出家者集団(僧伽)に入ることが認められる。ただの文書と言ってしまえばそれまでだが、1400年以上前の、将来も分からない一人の僧の入門のための文書が残っているということに驚きを覚える。得度を認めた文書には「三津首広野」という最澄の俗名や出自、度縁牒には黒子など身体的特徴まで書かれている。国宝に指定されているのも納得する。

最澄が唐から持ち帰った密教法具や聖教など66種の宝物を、比叡山内の道場や院に収めた際の目録の残巻。巻頭、巻末が無くなっており11行分を残すのみ。紙面全体に朱色の「比叡山印」が32か所も押されている。裏側のつなぎ目には「惣封最澄」との自筆がある。仏教にかける最澄の気概と厳しさを感じさせる力強い筆跡だ。東京会場では会期前半に、現存する最澄の唯一の自筆書状《尺牘(久隔帖)》が展示されていた。尺牘とは漢文の書状のことで、「久しくあなたからのお便りがなく」という書き出しから「久隔帖」と呼ばれる。空海のもとで修行していた弟子の泰範に宛てたもので、空海に尋ねてほしいことが書かれている。歳下の空海に対し礼を尽くした文書で、空海を示す「大阿闍梨」の文言も見え、最澄の真摯な人柄が現われている。筆致も《羯磨金剛目録》とは異なり柔らかだ。
最澄は延暦23年(804)に、遣唐使に同行して往復する学問僧の還学生として唐に渡る。その時の遣唐使船4隻中、無事に着いたのは2隻だけだった。別の1隻に乗っていたのが唐に留まって学問する留学生の空海。最澄は唐で天台教学や禅、当時の中国で最新の仏教だった密教を学んで帰国する。しかし、数年後に空海が帰国すると、自分が学んだ密教は傍流のものだと知り、辞を低くして空海に教えを乞う。空海が請来した経典などを借り空海も応じていたが、やがて絶縁する。思想的違いが大きかったのだろうが、天才と言われる空海と誠実・真摯な最澄とでは肌が合わなかったこともあったのではないか。その辺の関係については司馬遼太郎の「空海の風景」が詳しい。

最澄の高弟・光定が大乗菩薩戒を受けた時に嵯峨天皇が書いた戒牒。空海、橘逸勢とともに三筆と呼ばれた嵯峨天皇の書の特徴が存分に現れている。楷書、行書、草書を使い分け、字の大きさや線の太さにも変化をつけている。筆を自在に操って思うままに書いている姿が目に浮かぶようだ。
ところで正式の僧になるための戒を受ける戒壇院は東大寺、下野国の薬師寺、大宰府の観世音寺にしかなかった。実質的な権限は南都六宗と呼ばれる奈良の仏教界が握っていたと言える。最澄は大乗仏教の菩薩が守るべき戒である大乗菩薩戒を比叡山に建立することを求め、天皇に上奏した。当然、奈良仏教界は反対し生前、願いはかなわなかった。それが近年の研究で最澄入滅の前日に勅許がおりていたことが確認された。その大乗戒による受戒式が行われたのは最澄入滅の翌年で、その際の戒牒がこれである。
苦労の跡をしのぶ

第3代延暦寺座主となる円仁(794-864)の 9年6か月にも及んだ唐での旅行記。45歳で入唐し五台山などを巡礼、長安で密教を学んだ。仏教遺跡や寺院の経済状態、仏教儀礼や武宗の廃仏令による惨状、交通、地理、風習など当時の唐の様子を伝える貴重な資料となっている。現存最古の『入唐求法巡礼行記』の写本。唐で学んだ最新の密教は、空海の東密に対する天台の台密の完成に寄与した。船の漂流で帰国が遅れるが、その間に、入手した経典類を延暦寺に送っている。受け取った延暦寺が作った目録が特別展の前期に展示された。
個人的な話で恐縮だが、記者は40年以上前の学生時代に教授とともに『入唐求法巡礼行記』を読んだ。その時は航海や勉学の苦労も表面的にしか認識できなかったのだが、この歳になって少しは実感として分かるような気がする。45歳という当時としては高齢の身で唐に渡り、9年半も巡礼や勉学を続ける苦労はとても真似できない。また、インドから西域を経て中国に至った仏教の数多くの経典の中から、自分の求める経典を探し出して写す、あるいは手に入れることも並大抵のことではなかったろう。どんな経典があるのか全貌も分からない。玄奘三蔵がインドに、近くは明治末に日本の大谷探検隊が西域で経典を求めたのも、自分の求める、あるいは知らない経典を読みたいという切実な願いからだろう。苦労して手に入れた経典等の目録からは求法の思いがにじみ出ているようだ。

唐に渡る困難さは前にも述べたが、遣唐使船は絵で見ても分かるように、船首から船尾まで船体の底を貫く竜骨(キール)を持たない平底箱型。不安定な上に強風や波浪に弱い。その上、元日朝賀に出席するために気象条件の悪い6、7月に日本を出航するというハンディも負っている。そのため多くの遣唐使船が、難破して中国にたどり着けないという悲劇に遭っている。それだけを見ても最澄や円仁の求法の決意の強さが分かる。
(読売新聞事業局美術展ナビ編集班・秋山公哉)