【探訪】「聖徳太子と法隆寺展」改めて知り考える 東京国立博物館(東京・上野)で開催中

(手前)「南無仏舎利」 舎利塔:南北朝時代 貞和3~4年(1347~48) 舎利据箱:鎌倉時代(13世紀)   (奥)「聖徳太子立像(二歳像) 鎌倉時代(13~14世紀) ともに奈良・法隆寺

奈良に続き東京で開かれている展覧会も、残すところわずかな日数となった。奈良で見て改めて見たもの、東京で初めて見たもの。新たな発見や考えたことがあった。その中から「南無仏舎利なむぶつしゃり」や「御物ぎょぶつ 法華義疏ほっけぎしょ」などについて触れてみたい。

聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」
東京国立博物館(東京・上野)
会期 713()95()
開館時間 午前930分~午後5(入館午後400分まで)
休館日 月曜日
入館料 一般2100円ほか 日時指定制(当日券も若干数あり、特別展の公式ツイッターで確認できる)
JR上野駅公園口・鶯谷駅南口より徒歩10
東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅、千代田線根津駅、京成電鉄京成上野駅より徒歩15
詳しくは公式サイト

「南無仏舎利」

上半身裸の2(数え年、以下同)の太子像の横に置かれた「南無仏舎利」の前で、僧衣の人たちが興奮を隠せずに見入っていたという話を聞いた。仏舎利とは釈迦の遺骨。釈迦入滅後に荼毘に付された遺骨が分けられて8つの塔に安置され、時代を経て各地に広がった。
「南無仏舎利」は太子が2歳の2月15日の夜明け頃に東に向かって「南無仏」と称えたところ、合わせた掌からこぼれ落ちたという。現在では正月三が日など特別な日にのみ開帳される。法隆寺東院舎利殿に安置された「聖徳太子像(二歳像)」の前で、僧の一人が厨子から七重の錦袋に納められた舎利塔を取り出し、袋を解いていく。昔は仏舎利を管理する役職があり、その筆頭が今の住職にあたるという重要な役目だった。
実際に舎利塔を間近に見られる人は限られる。「南無仏舎利」の存在や舎利講を知っていても見られない人にとっては、またと無い感慨深い機会なのだろう。

※舎利講の動画を見たい人は「紡ぐ」サイト

「舎利塔」の球体の中に「南無仏舎利」が納められている。

一般の入場者にとっても一生に一度あるか無いかの機会だ。「仏舎利」に関する知識に興味を持つ人もいるかも知れない。2歳の太子の掌から仏舎利がこぼれ落ちたのはなぜか。
聖誉鈔しょうよしょう』(14―15世紀)という記録によると、釈迦の仏舎利を分けた時にコーサラ国王が左眼の仏舎利を受け取り、娘の勝鬘夫人に与えた。
彼女は太子の前世であり、太子は舎利を持って生まれて来たのだという。仏舎利を納める舎利塔は水晶製で南北朝時代に作られた。
「塔」とはもともと古代インド語の「ストゥーパ」が語源で、中国で「卒塔婆」の文字があてられ、やがて「塔」となった。お椀を逆さにしたような半球型だったが、中国に伝来した後、現代につながる三重塔や五重塔の姿となる。

重要文化財「如意輪観音菩薩半跏像」平安時代(11~12世紀) 奈良・法隆寺。会場入り口で迎えてくれる。
重要文化財「「十七条憲法板木」 鎌倉時代 弘安8年(1285) 奈良・法隆寺 太子は没後まもなく聖人視されるようになったが、中世になって太子信仰はさらに高揚し、信仰を示す数々の資料が残された。

「法華義疏(ぎしょ)」

東京国立博物館の展示でぜひ見たかったのが、聖徳太子の自筆とされる「御物 法華義疏」だ。御物とは皇室の私有品として伝来した品で、「法華義疏」は明治天皇が手元に置いていたと伝わる。現在も宮内庁が管理している。
写真撮影ができないのは残念だったが、詳細に見ることができた。
25センチほどの紙の巻物に墨書されたもので、長さは1315メートル。全部で4巻あるが前期は巻第二、後期に巻第四が展示される。
記者が見たのは巻第二。文字の大きさは1センチほどと意外に小さく、細く速い筆致で右回転の丸い字形が印象的だ。一文字ずつ切り離して書かれていて、つながってはいない。写経のような整った字とはまた別の趣がある。
東京国立博物館の研究員は「システマティックで事務能力が高く、今で言うとノートをうまくつける人のような書」と表現する。
義疏とは解説書のことで、法華経の内容や語句について中国学僧の解説を引用しながら自らの説も延べている。草稿本と考えられ、紙を貼ったり逆に紙を削ったりして字を消した跡や、行間に書き加えたりした跡が生々しい。執筆している時の息づかいが伝わってくるようだ。
後日、へらで引いた罫線があると本で読んだ。記者は気づかなかったが、これから見る人は注意して見てほしい。

(右)国宝「四天王立像 多聞天」と(左) 国宝「四天王立像 広目天」 ともに飛鳥時代(7世紀) 奈良・法隆寺 奈良国立博物館では向かい合うように展示されていたが、東京国立博物館では並んでいる。

「三経義疏」

太子によって著された義疏としては、前述の「法華義疏」の他に「勝鬘しょうまん経」と「維摩ゆいま経」の義疏がある。合わせて「三経義疏」と呼ばれる。
このうち「勝鬘経義疏」と「維摩経義疏」は原本が失われ、後代の写本が残されている。
ところで、19世紀末に中国・敦煌の莫高窟から発見されたいわゆる敦煌文書の中に「勝鬘経義疏本義」というものがある。「勝鬘経義疏」と7割が同文だった。そのことなどに触れ、学界で「法華義疏」の太子自筆説についての論争があった。詳細については触れないが、6世紀前半に書かれたと推定される中国の注釈書を基に、著されたと思われる「勝鬘経義疏本義」と「勝鬘経義疏」。もともとの注釈書は失われ、長安(今の西安)から西と東に遠く離れた敦煌と日本に著作が残ったというのも、歴史の面白さを感じさせる。

 

(読売新聞事業局美術展ナビ編集班・秋山公哉)

 

探訪「聖徳太子と法隆寺」展 

①太子のお顔

②再現された金堂

③途切れることの無い太子への想い

④そぞろ歩く太子の地

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