【探訪】聖徳太子と法隆寺展 ④そぞろ歩く太子の地

シリーズの最後は、「聖徳太子と法隆寺」展を見た余韻を胸に、法隆寺を詠った文学作品なども思い浮かべながら境内を歩いた。
特別展「聖徳太子と法隆寺」
奈良国立博物館(奈良市) 4月27日(火)~6月20日(日)(終了しました)
東京国立博物館(上野)
会 期 7月13日(火)~9月5日(日)
前 期 7月13日(火)~8月9日(月・休)
後 期 8月11日(水)~9月5日(日)
開館時間 午前9時30分~午後5時
休館日 月曜日(8月9日は開館し10日休館)
入館料 一般2100円ほか 事前予約制
詳しくは公式サイトへ
「停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近づくにつれて、何となく胸の躍り出すような、刻々と幸福の高まっていくような、愉快な心持ちであった」――和辻哲郎『古寺巡礼』の法隆寺について冒頭のくだりだ。
筆者の高揚感が伝わってくる。記者も駅から約2キロの道を歩いた。今は周囲に建物が建ち、遠くから五重塔を見ることはできない。しかし、松並木の参道を通り南大門に近づくにつれて、和辻の言う幸福感が徐々に伝わって来た。法隆寺は金堂や五重塔のある西院伽藍、夢殿のある東院伽藍からなるが、まずは西院伽藍に入る。
本当に柿を食べた?
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
法隆寺の句と言えば誰もが正岡子規のこの句を思い出すだろう。「聖徳太子および侍者像」が安置される聖霊院の向かい、鏡池のほとりに句碑が立っている。前書きに「法隆寺の茶店に憩ひて」とある。茶店で柿を食べて一服していたら、法隆寺の鐘が鳴ったという。
目の前にある西院伽藍の鐘楼の鐘だったろうか。子規は柿が大好物だった。ただ、子規が法隆寺を訪れたとされる日は雨天だったことや、当時の子規の病状などからフィクションの句ではないかという説もある。
ちょうど100年前の感慨
「ちとせ あまり みたひ めくれる ももとせ を ひとひ の ごとく たてる この たふ」
中門を挟んで子規の句碑のある場所とは反対側、三経院の手前には歌人・会津八一の歌碑がある。千年を超えて、千三百年を一日であるかのように五重の塔は建っているという歌だ。八一は奈良の美術を愛し、生涯35回にわたって奈良を訪れて多くの歌を詠んだが、法隆寺の歌は19首に及ぶ。
この歌が詠まれた大正10年は今からちょうど100年前。聖徳太子千三百年遠忌の年に当たる。歌碑の周囲には立派な楠木が何本も太い幹から枝を伸ばし、葉を繁らせている。100年前に植えられたのだそうだ。
歌碑の斜め後ろ、葉の間から五重の塔が見える。歌碑の前には弁天池という池がある。法隆寺の境内には小さな池がいくつもある。裏の小高い山から豊富な水が流れてくるのだという。
法隆寺の不思議

中門から北を見ると右に金堂、左に五重塔がある。世界最古の木造建築群だ。八一の歌のように1300年余の時を超えて建っている存在が不思議なもののように思えて来る。
和辻は「魂の森のなかにいるような」とその静けさ、さらに「金堂の屋根の美しい勾配、上層と下層との巧妙な釣り合い、軒まわりの大胆な調和。五重塔の各層を勾配と釣り合いとでただ一本の線にまとめ上げた微妙な諧調」とその美しさの衝撃を書いている。
釈迦三尊像や阿弥陀如来坐像、展覧会で見た薬師如来坐像や四天王立像が安置されている金堂。その内部はそれ自体が一つの宇宙のようだ。その宇宙を外側からみる不思議。
そして、もう一つの不思議は中門だ。中央に柱がある。
法隆寺の不思議の一つとして言われているものだが、哲学者の梅原猛はこの柱が「怨霊を封じ込めている」という説を唱えている。詳しくは立ち入らないが、横に並んだ金堂と五重塔越しに中門を見ていると、展覧会の取材で聞いた、中央の柱の左右がそれぞれ金堂と五重塔の入り口にあたるという説が妥当のように思えて来る。
懐かしい道

西院伽藍から東大門を通り夢殿のある東院伽藍へ向かう。この道はなぜか懐かしい。今は周囲の駐車場やお土産屋なども含めてきれいに整備された法隆寺だが、記者が初めて訪れた50年ほど前は鄙びた雰囲気が残っていた。南大門の前に数軒あった茶店兼お土産屋も、小さくて静かな佇まいだった。
夢殿のある東院伽藍は今でも静かな雰囲気を残している。和辻も「伽藍の感じではなくて、住み心地のよい静かな住宅地の感じ」と書いている。ここは聖徳太子の住まいである斑鳩宮のあった場所だ。天皇の宮のあった飛鳥宮(現明日香村)からはかなり遠い。記者はそれがずっと不思議だったのだが、政情不安な飛鳥宮から離れた静かなこの地に住んで仏のことを考え、政務で必要な時に飛鳥まで通ったのかも知れない。
昭和の大修理
手元に昭和60(1985)年の新聞がある。6月30日で昭和9年から進められてきた大修理が終わる、とある。「55棟すべてに保存の手が施された」という。後日、管長として20年にわたり修理の陣頭指揮を執り、完了時に長老だった間中定泉氏の談話が載っている。
戦前は塔や金堂の基壇が壊れて塀も内側は半分崩れ、寺経営のために境内を貸して桑畑にしたなどの苦労が語られる。今は参拝客でにぎわうようになったとも。しかし、近年は修学旅行も少人数で好きな所に行くスタイルが定着し、観光バスが次々に到着するという光景はなくなったようだ。コロナ禍のこの2年は特に。
確かに若い人にはなかなか法隆寺の素晴らしさは分からないかも知れない。しかし歳を経た人にとっての法隆寺は、それぞれの人生に見合った味わいがあると思う。今回の展覧会を機に、ぜひ法隆寺を堪能して欲しい。
最後に有本芳水という明治から昭和にかけて活躍した詩人の、作品の初めの部分を載せて、このシリーズの終わりとしたい。
法隆寺
乱松一路すぎがてに
山もと烟る秋の日を
堤に添いて野を越えて
たづねて来つる法隆寺
破れし築地に身をもたせ
塔に入る日を眺むれば
緋のささべりも美しう
むらさきの色乱れ散る
(読売新聞事業局美術展ナビ編集班・秋山公哉)