【探訪】聖徳太子と法隆寺展 ③途切れることの無い太子への想い

法隆寺が伝えて来た品々を語る時、忘れてはならないことの一つが、飛鳥時代から途切れることなく各時代の遺産が大切に保存されて来たということだ。何度も危機があったのだろう。でも、そのつど乗り越えて来た。根本にあったのは太子への深い尊崇の念だろう。そんな想いの伝わる品々の中からいくつか取り上げてみたい。
特別展「聖徳太子と法隆寺」
奈良国立博物館(奈良市) 4月27日(火)~6月20日(日)(*終了しました)
東京国立博物館(上野)
会 期 7月13日(火)~9月5日(日)
前 期 7月13日(火)~8月9日(月・休)
後 期 8月11日(水)~9月5日(日)
開館時間 午前9時30分~午後5時
休館日 月曜日(8月9日は開館し10日休館)
入館料 一般2100円ほか 事前予約制
詳しくは公式サイトへ
法隆寺に7世紀以来の古い建物や聖徳太子ゆかりの宝物が数多く残っているのは、政治の中心地から少し離れているという地理的要因もあったかも知れない。
奈良や京都の寺社の多くは戦乱の巻き添えとなった。法隆寺も明治維新以後の廃仏毀釈の流れの中で、大きな危機を迎える。幕府や有力者の庇護を失って財政的な苦境に陥り、伽藍や堂宇の維持が困難になる。
そこで明治11(1878)年、宝物300件余りを皇室に献納し、1万円を下賜された。この援助で伽藍や堂宇の維持が可能となった。献納された宝物は一時的に正倉院に保管された後、博物館に収蔵された。
戦後は法隆寺に返還された4点と皇室に残された数点を除き、320件あまりを東京国立博物館(記事中、以下「東博」。奈良国立博物館は「奈良博」)が所蔵している。
往生した太子の姿が見たい

「天寿国繡帳」という、伝世品としては日本最古の染織作品である刺繍の帷がある。太子が亡くなった後、妃の橘大郎女の、「天寿国」に往生した太子の姿が見たいという願いを受けて作られた。
今では多くが断片化している。本来は画面上に欽明天皇から太子に至る系譜や、太子の仏教思想を記す銘文が刺繍されていた。
太子に直結する宝物として保管されていたが、場所が蔵の中だったため、平安時代には忘れられてしまったようだ。
鎌倉時代の文永11(1274)年に中宮寺の比丘尼が見つけ、以後は中宮寺の所蔵となる。模本も作成された(ちなみに文永11年は1回目の元寇「文永の役」が起きている)。
飛鳥時代の断片には、千数百年も前の物とは思えない鮮やかな赤が残る。赤は退色しやすいのだが、染料に通常使用するものより生育年数の長いアカネを使い、染める回数も多くしたのではないかという。
目の詰まった刺繍の緻密さも注目したい。制作に関わった人たちの名前も記録として残っている。撚りの強い糸を、宮中の若い采女たちが一針一針祈りを込めて縫う姿が想像できる。
中宮寺に残された額装作品は江戸時代に、飛鳥時代の原繡帳と鎌倉時代の新繡帳のいくつもの断片を貼り合わせて作ったのだという。言葉は悪いが、ぼろぼろになった断片を千年以上にわたって残してきた。さらに、千年以上も経ってそれを復元しようとした。太子への信仰がそれだけ深く、かつ絶えることなく続いてきたということなのだろう。
信仰が生んだもの

太子に由来するものとして信仰上極めて重視され、東院の舎利殿に伝わって来た七種の宝物がまとまって展示される(東博で展示)。この七種宝物は「糞掃衣」、「梵網経」、「五大明王鈴」、「八臣瓢壺」、「御足印」、「梓弓」、「六目鏑箭・箭・利箭・彩絵胡簶」。
糞掃衣とは衲袈裟ともいい、ぼろきれを洗い、縫い綴じた袈裟のことをいう。釈迦が勝鬘夫人に授け、小野妹子が中国の隋から持ち帰って太子が勝鬘経講讃の時に着用したとされる。
梵網経は太子の自筆本で、表紙の一部に太子の手の皮が貼ってあるとされる。実際は平安初期の様式だが、表紙に経巻を荘厳する絵画を描く例としては、現存する経巻の中で最古の部類に入る。
五大明王鈴は金剛鈴という密教で使う法具の一つ。太子誕生の時に宮中の棟に現れたという伝承がある。
八臣瓢壺は別名「賢聖瓢」。孔子などの聖賢が表され、儒教が盛んになるしるしとさる。唐時代に制作されたと見なされる。
御足印は太子の足跡のある壁代(かべしろ=カーテン状の用具)で、太子が未来の人々と縁を結ぶために残した。その存否が仏法の隆盛と滅亡を知らせるとされる。
梓弓は太子が所持した怨敵退治の弓。鏑箭などは物部守屋を退治した時に用いたという伝承がある。
いずれの宝物もいわれなど史実ではない。しかし、太子が着用した袈裟、太子の手の皮、足跡など生身の太子に触れたい、感じたいという人々の切なる願いが伝わってくる。明治11年の宝物献納に際しても一揃えで目録の筆頭に掲げられている。
太子信仰の中心

太子への信仰の深さを表すものとして七種の宝物を紹介したが、信仰の中心ともいうべきものが「南無仏舎利」(東博で展示)だ。太子が数え二歳の二月十五日の夜明けの頃に東に向かって「南無仏」と称えたところ、合わせた掌からこぼれ落ちたという。
『聖誉鈔』(14~15世紀)という記録によると、釈迦の舎利を分けた時に古代インドのコーサラ国王が左眼の舎利を頂戴し、それを娘の勝鬘夫人に与えた。彼女は聖徳太子の前世であり、太子は仏舎利を持って生まれたのだという。金銅製の蓮華座の上、丸い水晶製の舎利容器に納められている。現在は正月三が日など特別な機会のみ開帳される。東博で通期展示されるのは貴重な機会だ。
人柄を想像させる筆線
現在も皇室所有の御物の中に、太子の自筆本と伝わる宝物がある。「御物 法華義疏 (法隆寺献納)」だ(巻第三:奈良博後期展示、巻第二:東博前期展示、巻第四:同館後期展示)。
法華経の内容や語句について解説した書物で、中国学僧の解釈を引用しつつ、自らの説も述べている。字句の訂正や貼り紙などによる修正、書入れなどがあり草稿本と考えられる。
書体は「書聖」と呼ばれ日本でも手本とされた中国・東晋の王羲之のような力強い書体に比べ、素早く伸びやかな造形を見せる。書いた人の人柄を偲ばれる書体で、奈良博展覧会担当の山口隆介・主任研究員は「有能な人物がさっと書いたような」と表現した。明治天皇が手元に置いていたとも伝わる。太子の仏教興隆にかける思いが伝わると同時に、太子の存在を感じさせる貴重な宝物だと実感できるだろう。
悲しんではならない

最後に奈良博でのみ展示されるものから一つ。法隆寺五重塔の一番下の層、心柱を中心とした四面に作られた塑壁を背に、一群の塑像が安置されている。
覗いてみた人も多いだろう。記者も50年ほど前の修学旅行の時に覗いたのだが、暗くてよく見えなかった。その塑像をガラス越しではあるが、目の前にすることができる。
四面はそれぞれ釈迦の入滅(北面)、弥勒の説法(南面)、維摩居士と文殊菩薩の法論(東面)、舎利の分配(西面)で構成される。
目を引くのは北面の泣き叫ぶ羅漢像だ。釈迦の入滅を嘆く姿を描いている。天を仰いで歯を食いしばったり、きつく目を閉じ大きく口を開けて泣いたり、嘆きの大きさが伝わって来る。浮き出たあばら骨や顔のしわなどもリアリティーに富む。
仏教系の大学を出た記者は授業だったか雑談だったか、「修行を積んだ菩薩は釈迦の入滅を悲しんでいない。修行の足らない羅漢だけが悲しんでいる」と聞いた覚えがある。釈迦も自分の入滅を「悲しんではならない」と説いたという。確かに仏になった釈迦には人間的な「死」はない。という理屈は分かるのだが、修行の至らない身をしては、嘆き悲しむ姿に共感を覚えてしまう。
(読売新聞事業局美術展ナビ編集班・秋山公哉)
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