【探訪】聖徳太子と法隆寺展 ①太子のお顔

「聖徳太子二王子像」(模本) 江戸時代 天保13年(1842) 狩野(晴川院)養信筆 東京国立博物館蔵 =東京国立博物館でのみ展示。この絵の原本である「御物 聖徳太子二王子像」は奈良国立博物館の前期のみ展示

会場に入るとすぐ目に飛び込んで来たのは「聖徳太子二王子像」だ。太子像と言えば多くの人はこの絵を思い浮かべるだろう。ある年齢以上の人には1万円札の絵柄としてお馴染みだ。では太子は本当にこんなお顔をしていたのだろうか。

太子が亡くなってから1400年 (1400年遠忌おんき) を記念して、特別展「聖徳太子と法隆寺」が奈良国立博物館で開かれている。同展は一部展示品を替えて7月13日(火)~9月5日(日)に東京上野の東京国立博物館で開かれる。同展について4回にわたってレポートする。一方の博物館のみの展示品もあるので、ご注意を。

特別展「聖徳太子と法隆寺」

奈良国立博物館(奈良市)  427()620()(*終了しました)

東京国立博物館(上野)

会  期  7月13日(火)~9月5日(日)

前 期  7月13日(火)~8月9日(月・休)

後 期  8月11日(水)~9月5日(日)

開館時間  午前9時30分~午後5時

休館日   月曜日(8月9日は開館し10日休館)

入館料   一般2100円ほか 事前予約制

詳しくは公式サイト

太子の本当の顔は

誰にも分からない。太子とされる最も古い絵画「御物 聖徳太子二王子像」(奈良博前期のみ展示)が描かれたのは奈良時代の8世紀。太子が亡くなったのは621年だから、死後100年ほど経っている。当然ながら太子に直接会った人はいない。この絵が何を手本に描かれているかも分っていない。冠や着衣は奈良時代の貴人の姿を表しているという。これは大宝律令(701年制定)に定められている官服なので確かなのだが、太子の時代の姿になると古墳に描かれた壁画などから推測するしかない。

聖徳太子は574年に、用明天皇の第二皇子として生まれた。593年に推古天皇の即位とともに皇太子となり、政治を補佐した。603年に官位十二階を制定して実力本位の役人登用を図り、翌604年には憲法十七条を定めている。

こう書くと太子に関する歴史は固まっているように思えるが、それも違う。これらは『日本書紀』が典拠とされている。しかし、史料の解釈はどのようにも可能で、太子の存在そのものを疑う解釈もあった。今回の展覧会では太子の像や肖像、太子に関するたくさんの品々が展示されている。そこから、それぞれの太子像を描くのは自由だ。

江戸時代に描かれた聖徳太子二王子像の模本がある(東京国立博物館のみ展示)。「御物 聖徳太子二王子像」を写したもので、こちらの方が色が鮮やかだ。太子の服も赤みがかっており、両脇の王子の模様も緑や赤が濃い。幕府の御用絵師が弟子を使って模写したものなのだが、原本の当初の色を想像して描いたのだろう。模本には明治30年に描かれたもの (奈良博後期展示)もある。これも「御物 聖徳太子二王子像」を写したものなのだが、江戸時代に描かれた模本に比べると赤みは薄く、原本に近い色に見える。

手に持った笏

「聖徳太子二王子像」から進んですぐ目に留まったものがある。「牙笏げしゃく(奈良博では前期のみの展示)だ。太子が両手で持っているのはこれかぁ。思わず声が出てしまった。

笏とは官人が儀式の際に威儀を正すため捧げ持つ板状のもので、この笏は長さ33センチ、幅4.6センチ、厚さ1センチある。少し黄色味がかっており光沢は無い。

「牙」とあるが日本では象牙が手に入らないためか素材は骨のようだ。鯨骨の可能性が高い。太子が政治を補佐した際に用いたという伝承がある。笏の起源は古代中国で、718年に帰国した遣唐使によって伝えられたようだ。太子の時代にはまだ伝わっていなかったことになる。となると、先の「聖徳太子二王子像」の太子の姿も実物とは異なるということか。

絵伝に描かれた生涯

「国宝 聖徳太子絵伝」第1面(部分) 平安時代 延久元年(1069) 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)=「国立文化財機構所蔵品統合検索システム」https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/N-1?locale=ja)を加工して作成

厩の前で生まれた、10人の訴えをすべて聞き取った、馬に乗って天を飛び富士山を越えて信濃の国まで行ったなどなど、太子には様々な伝説がある。

これら伝説も含めた太子の生涯を描いたのが国宝「聖徳太子絵伝」だ(奈良博前期展示)。平安時代の1069年に摂津の国の絵師・秦致貞はたのちていによって描かれた。縦190センチ、幅140センチほどの絵10面からなる。法隆寺東院伽藍の絵殿の内壁にはめる障子絵として制作されたものだ。

聖徳太子絵伝としては最古、最大、かつ最高傑作と言われている。描かれた時代を反映して風俗も描き方も平安朝風だ。時代を経てかすれてしまった絵が多いが、第1面の左上には子ども時代の太子が諸童子の言葉を復唱する場面がある。童子の数を数えてみると10人いる。太子が10人の話を同時に聞いて全部理解したというのはこの場面か。(奈良博前期のみの展示なので、興味のある方は掲載の写真で確認を)

7歳の時?のお姿

「聖徳太子坐像」(伝七歳像) 平安時代 治暦5年(1069) 奈良・法隆寺蔵

太子7歳の時の姿と伝わる坐像がある。「聖徳太子坐像 (伝七歳像) 」だ(奈良博のみ展示)。体つきと言い表情と言い、とても七歳には見えない。特に顔つきは大人びている。

元々は「童子」とだけ言われていたものが、江戸時代に「七歳」と言われるようになったのだと言う。7歳の時に100巻の経典を読んだという伝説に基づいた新たな“解釈”のようだ。死後何度も太子信仰の高まりを見せるが、江戸時代にもそうした現象があったのだろうか。その時代時代で新たな太子像が創造されていったのだろう。

厳しいお顔

(左)「国宝 聖徳太子および侍者像」のうち聖徳太子 平安時代 保安2年(1121) 奈良・法隆寺蔵 (右上)「同」右が恵慈法師 (右下)「同」左が山背大兄王

国宝「聖徳太子および侍者像」の太子像からは近寄り難いほどの緊張感を漂ってくる。平安時代の1121年、太子500遠忌おんきを期して造られた。普段は法隆寺内にある聖霊院に秘仏本尊として祀られている。

勝鬘経しょうまんぎょう』という経典の内容を講義し讃える講讃の姿を表しているという。講讃像に共通した冠と相を表す一方、ほうを着けてしゃくを取る姿は摂政像という、二つの姿を合わせたものとなっている。

像内には銅製の観音菩薩像が安置されていて、観音像の顔が太子の口の高さに位置する。観音が太子の口を借りて経典を講讃しているという設定になっている。

太子の厳しい表情に対し、異母兄弟2人と息子の山背大兄王、仏教の師である高句麗僧・恵慈法師の侍者5人の表情はユーモラスだ。デフォルメされた体形も柔らか。

この対称は興味を引く。ガラスケースに顔を付けるようにして全方向から見るが、答えは見つからない。思えば聖霊院の奥に祀られているような秘仏を、手に取るような近さで見ることができるのは、生涯でそうは無いだろう。

太子が自分で描いた?

「聖徳太子像」(水鏡御影) 鎌倉時代 14世紀 奈良・法隆寺蔵

最後に決め手になるような絵画を。「水鏡御影みずかがみのみえい」という絵だ。何枚か存在するがほぼ同じ構図で同じ顔をしている。冠を戴き赤い袍を腰帯で絞めて佩刀、両手に笏を持って正面を向いて座っている。

太子の摂政時代の姿とされ、法隆寺には太子が35歳の時に水鏡に映った姿を自ら描いたと伝わっている。眉尻を上げ、唇を結んだ厳しい表情は、先に紹介した勝鬘経を講讃する太子の坐像に似ているようにも思える。

1万円札にもなった高貴はお顔。「七歳像」と伝わる利発そうなお顔。経典を講讃する厳しいお顔。絵伝に書かれた平安朝風の下膨れのたおやかなお顔。現代のような写実性という概念の無かった(薄かった)時代の、どれもその時代においての間違いのない太子のお顔だったのだろう。

 

(読売新聞事業局美術展ナビ編集班・秋山公哉)

【探訪】聖徳太子と法隆寺展 ②再現された金堂

直前の記事

新着情報一覧へ戻る