光に包まれて 原美術館【イチローズ・アート・バー】 第32回

「イチローズ・アート・バー」は、東京・ニューヨークで展覧会企画に携わった前・読売新聞事業局専門委員の陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。

 

現代美術の美術館として、40余年にわたり先導的な活動を続けてきた原美術館(東京・品川)の東京における最後の展覧会「光ー呼吸 時をすくう5人」展(2021111日まで)は、大正・昭和の実業家・原邦造の邸宅として戦前に建てられた洋風建築の空間で、日々の何気ない出来事・情景に目を向けた作品を公開。流れゆく時間や形として留めることのできない現象に意識をいざない、静かな気持ちの高まりを呼び起こす。

展示されたのは、映像とアニメーションを組み合わせた作品を手がけた佐藤雅晴(さとう・まさはる:19732019)、台北を拠点にするインスタレーション作家リー・キット(李傑:香港出身、1978年生まれ)の近作や、佐藤時啓(さとう・ときひろ:1957年生まれ)、今井智己(いまい・ともき:1974年生まれ)、城戸保(きど・たもつ:1974年生まれ)の3人の写真家の新作など。原家の邸宅時代に暗室、トイレ、浴室だった空間に設置された須田悦弘、宮島達男、奈良美智らの所蔵インスタレーション作品も東京では見納めとなる。

音楽、写真、映像 with アニメ

 1階の広いギャラリーには、写真、映像作品が並ぶ。奥には、窓に囲まれた半円形のサンルーム。戦前、原家が朝食会場として使っていたという朝の光が差しこむ軽やかな空間だ。展覧会期間中は、ここにピアノが置かれ、無人のピアノから静かな内省を誘うようなメロディーが流れてくる。

展示風景 撮影:城戸保   正面の壁に佐藤時啓の作品、中央奥がサンルーム

窓の外には木々が見え、その中庭を囲むように、建物はゆるやかな弧をえがく。サンルーム寄りのギャラリーの壁には、光の動きを写し留めた写真。佐藤時啓が20年ぶりに手がけたペンライトを用いた長時間露光による作品だ。作家は2時間ほどシャッターを開いたまま、ペンライトを持って動き回ったといい、記された光の軌跡は、作家の営みとその時間を描き留めたかのようだ。

展示風景 撮影:城戸保  佐藤雅晴の作品

 別の壁にはモニターが並び、国会議事堂、キッチン、ピアノ倉庫、フライドチキンの店頭、交差点などの映像が流れている。佐藤雅晴の「東京尾行」(2016年)のシリーズ作品で、なんという事のない平凡な情景だが、作家はその中から花や鏡、人形、群衆の中の一人など映像の一部を切り取り、アニメに移し替える。

佐藤雅晴 「東京尾行」 12 チャンネル ビデオ、2015-2016 ©Masaharu Sato  ピアノ倉庫におかれた椅子が永遠に回り続けるのはアニメならでは
佐藤雅晴「東京尾行」12チャンネルビデオ、2015-16 ©Masaharu Sato  ケンタッキーフライドチキンの店頭の情景では「カーネルおじさん」の人形がアニメに置き換えられた

映像と同様24コマで1秒を構成。手で描き直したアニメを映像に挿入している。この作業を作家自身は「トレース」と呼んだ。動きの滑らかさは現実そのままで驚くほどだが、陰影の階調や質感には当然ながらズレが生じる。そのわずかな違いは映像とアニメを見比べさせ、現実への注視を促す。見慣れた当たり前のものや人の姿に目がとまり、小さな思いがけない発見が生まれる。見ている世界が息づき始める。

5人の作品による作家別でも時間順でもない展示構成は、出会いの感覚を生み、鑑賞者自身がストーリーを紡ぐことになる。新型コロナ感染対策を兼ねて、窓の一部は開放された。陽の光や風を感じ、鳥のさえずりや落ち葉を踏む音を耳にしながら作品と向かい合える環境は、展覧会に「呼吸」する感覚を与えている。

原美術館から原美術館ARCへの旅立ち

原美術館は東京国立博物館(当時は東京帝室博物館)や服部時計店(現和光)を手がけた建築家・渡辺仁の設計による1938年の洋館。バウハウスやアール・デコのエッセンスを取り入れた初期モダニズム様式の建物で、贅沢な空間は、コレクションとともに親しまれてきた。

 原家の邸宅として使用されていたが、戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、続いてスリランカ大使館として使われるなどした後、「廃墟」となっていた。邦造の孫で原美術館の運営母体・アルカンシエール美術財団の理事長を務める原俊夫さん(85)は、1970年代に現代美術館の創設を思い立ち、当初は構想になかったこの旧原邸の転用を決めた。邸宅を元に造られ自然との調和が称賛を集めるデンマーク・ルイジアナ美術館を訪れたのがきっかけだったという。1979年に開館して以来、現代美術のすぐれたコレクションと、先進性に富む企画展で存在感を示してきた。若手作家に積極的に発表の場を提供し、世界的な作家の個展を開くほか、企画展を海外に「輸出」することで日本の現代美術の発信も行った。

こうした実績を残す一方、作品の大型化への対応のスペース的な限界、作品搬入口を欠くなど美術館としての不自由さは、都の規制のために改善が望めず、この旧原邸での活動は20211月で終えることになった。

今後は、1988年に開設した群馬・渋川の別館「ハラ ミュージアム アーク」を「原美術館ARC」と改称してあらたな本拠地とする。草間彌生らの大型作品を含め、コレクションから選ばれた作品が展示される。品川・旧原邸に設けられたインスタレーション作品も、いくつか群馬で再構成、再制作される予定だ。

ハラ ミュージアム アーク(群馬・渋川)、ジャン=ミシェル オトニエル「Kokoro」2009年 撮影:白久雄一

トレース

サンルームで流れていた曲は、フランスの作曲家ドビュッシー(18621918年)の「月の光」だった。佐藤雅晴さんが「東京尾行」の一部として上演を指定した。何人もの演奏家がサプライズ的に登場して実演し、その後、自動ピアノがその演奏を再現している。

 

 演奏者はベテランから音楽大学の1年生までさまざま。5分程度のこの曲を3回ずつ演奏したという。最初はこの古いピアノの感触を確かめながらスタートし、2回目、3回目と進むにしたがって、弾き手の解釈、イメージが自然ににじみ出す。同じ楽譜を「トレース」しながら、ピアニストごとにテンポも強弱のニュアンスも異なり、それぞれ3回の演奏にも変化がある。

「トレース」の生む微妙な違いは、創造の小さな断面と言えるかもしれない。その瞬間にだけ生まれる一種の化学反応のような感覚が、演奏における速度や強度、作画における明暗や輪郭などに一度だけのニュアンスをもたらす、といった意味で。

未来へのフィナーレ

原理事長は、最初は10年続けばよいと思っていたらしい。現代美術を通じた交流が狙いで、美術館の発案当初はビルの中に設ける考えだったという。旧原邸ありきではなかったから、ここ(旧原邸)でなくてもよく、群馬でも同じ歩みを続けることができる確信があるのだろう。美術館の人々と話していても、閉館という日暮れ的な空気は感じられない。

今回の展示では、入り口に「館内の撮影はご遠慮ください」「美術館での時間を記録ではなく、皆様の記憶に留めていただければと考えています」というメッセージが小さく掲示されている。固定的なイメージの記録ではなく、見る人それぞれの感受性とその個々の記憶こそが大事なのだ、というひそやかな宣言のようにも思われた。

来春には、旧原邸での歩みをトレースするように群馬・原美術館ARCの時代が始まる。橋渡しとして、新たな光を感じさせるフィナーレになった。

(前読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)

「光―呼吸 時をすくう5人」2021111日まで。事前予約制だがすでに全日程売り切れ。キャンセルが出た場合は、予約サイトhttps://www.e-tix.jp/hara/のカレンダーに反映される。