夕暮れのバルテュス 【イチローズ・アート・バー】 第31回

「イチローズ・アート・バー」は、東京、ニューヨークで展覧会企画に携わった前・読売新聞事業局専門委員の陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。
初めて会うバルテュスは、聞いていた通りの長身で細身の紳士だった。「20世紀美術の巨匠」と呼ばれ、英仏独伊語を話し、東西の古典に通暁している教養人。「ニホンゴ、ムカシ覚えたのですが。でも、もうワスレマシタ」と遠くを見る。目を細める姿がクールだ。煙草を手からはなさない。
1989年秋、都心のホテル。美術展の仕事を始めてまだ1年ちょっとの私は、緊張に加えて節子夫人に通訳をお願いしていることへの気後れもあり、言葉がなかなか出てこなかった。
数日前。デスクの長田(おさだ)博臣さん(当時文化事業部次長)から「ちょっと」と手招きされた。「バルテュス夫人の節子さんがホテルで個展を開く。バルチュス本人も一緒らしいぞ。行くか?」
はい、と答えたものの、先行きは皆目見当のつかない話だった。ポーランド貴族の血を引くパリ生まれのバルテュスは、孤高の画家としても知られていた。インタビューをほとんど受け付けない。写真を撮らせることも拒み続けていた。作品世界がすべて。実生活者としての言葉や姿はその理解の妨げになる、という決然としたポリシーだった。
室内の少女や猫、路地の情景などを描いた作品は、古典的な伝統を基盤にもちつつ、描かれる人々から表情や血肉の生の感触を拭い去ってしまったような、非現実的な静寂の世界。「独自の夢幻的世界」と評されていた。
*バルテュスの人と作品についてはバルテュス財団のサイト参照
当時、日本の美術館でバルテュスの作品がまとまって紹介された例は、1984年に京都で開かれた個展があるばかり。その際、展示はバルテュスの意向に添うことが条件とされ、現場を訪れた画家の求めに応じて、美術館は急遽、壁の色を塗り替えた。開催の成否をかけた館長の決断だった、と聞いた。
難しい人物ととらえるか、作家の良心を見るべきか。いずれにしても妥協のない厳格さは際立っている。バルテュス展の開催は担当者に相当の消耗を強いること必定。どれほどの覚悟をすればよいのか、新米の私には想像も及ばなかった。
節子夫人の個展の会場は、ホテルの地下に設けられていた。会場の受付係に紹介されて節子夫人にあいさつ。「長田さんから聞いていますよ」とソフトに迎えてくれた。夫人の作品は花などを描いた室内画が多い。静謐な画風はどことなく夫君である巨匠の世界に通ずる。
バルテュスへの紹介を乞うと、夫人は快く会場の角にいた画家を見つけ出して引き合わせてくれた。名刺を交換する。青緑色の名刺には「Balthasar Klossowski de Rola」(バルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ)と名前だけが筆記体で書かれていた。血筋の高貴さが漂ってくるように感じられた。緊張で言葉が詰まりかけた自分を励まし、長田さんと話し合った「お願い」をバルテュス本人に向かってひとことで伝える。「展覧会、東京で出来ないでしょうか」。京都で開かれた個展は、東京には巡回していなかった。
仏語も英語もおぼつかない私は、勢い、通訳役の節子夫人と話す形になる。門前払い覚悟の訴えだったが、「自然光の入る空間であること」を条件に都内の美術館の視察に応じてもらえることになった。東京が地元の節子夫人が「お膝元」での開催をひそかに期待していたのかもしれない。
夫人は「時間などは電話で」と言い残して、バルテュスと共に他の客の方へ向かった。ほんの2,3分の出会いだった。
社に戻って長田さんに報告。「わずかでも自然光の入るところ」として「トビ」(東京都美術館)、「セイビ」(国立西洋美術館)、「テイエンビ」(東京都庭園美術館、東京駅の東京ステーションギャラリーをリストアップ。部長に示すと「ステーションギャラリーは遠慮しておけ」との言葉が返ってきた。躊躇するところがあったらしい。組織である以上、従うほかはない。
1962年、ローマのアカデミー・ド・フランス(ヴィラ・メディチ)館長を務めていたバルテュスは、小説家で時の仏文化大臣、アンドレ・マルローの求めに応じて来日している。翌63年にパリで開催される日本の古美術展の調査のためだった。当時気鋭の研究者だった高階秀爾・大原美術館館長や芳賀徹・東京大名誉教授(故人)らが通訳を務めたという。この滞日に、上智大フランス語科の学生だった20歳の節子さんも通訳・アテンド役として関わった。やがてモデルを務めるようになり、67年に結婚。バルテュス59歳、節子さん25歳の年だった。
バルテュス夫妻はその後、スイス山中の村、ロシニエールにある木造4階建ての館“グラン・シャレー“を気に入って買いとり、移り住んだ。部屋数は五十以上。そこにバルテュス夫妻一家、日本人の板前さん一家、それに猫という暮らしだったという。夫妻はこの館から東京に来ていたのだった。
秋晴れの朝、10時。社のハイヤーで指定された世田谷の邸宅へ。夫妻を乗せて「自然光の入る美術館」を目指す。
まず、東京都美術館。1階と2階の展示室の端に極細の垂直窓があった。普通は作品保護のために自然光遮断を求められるものだが、この巨匠にかかると「光が足りない」ということになるらしい。
次は国立西洋美術館。企画展の会場に使われていた新館の2階は、当時は天窓から間接的に自然光を入れていた。だが求めるイメージとは隔たりがあったのか、画家は無言のままだった。
昼食は硬軟織り交ぜた話題で盛り上がった。「昨日見た瀬津雅陶堂の展示はすばらしかった」と確認しあうように二人で話す。日本橋の老舗画廊。仏像を陳列していたらしい。その空間づくり、照明が絶妙だったと褒めた。
一方、自身の個展を開いたパリのポンピドーセンターは現代的な建物が「醜悪」と斬って捨てる。ニューヨークでは、カタログのエッセイに納得がいかず個展の開会式をボイコットしたとも。
話はスイスでの暮らしにも及んだ。二人の間の娘、ハルミさんのことになると、バルテュスも相好を崩す。「髪をオレンジ色に染めた」「(家にいさせようとしたのに)窓から遊びに出かけた」などと言いながら顔は笑っている。節子夫人は「日本語でいえばオテンバね」と言葉を接いだ。
午後に訪問予定だった東京都庭園美術館は、元朝香宮邸という気品ある建物、空間。画家好みのはずだ。学芸課長は清水敏男さん(現学習院女子大教授)。パリのルーブル美術館大学の修士課程で美術史を学んだ「本場」を知るキュレーターだ。「パリとアルジェリア仕込み」と評する人もいたように、澱みなく勢いがあるフランス語を操った。清水さんが美術館の説明を始めると、バルテュスは眼を大きく開き、そこに鋭い光が宿った。静かだが刺すような視線。これがバルテュスだ、と思わずにはいられなかった。節子夫人の通訳を前提としたそれまでの会話では、穏やかな姿ばかりだった。「本気」にさせることが出来ていなかった、と言葉の壁を思い知った
庭園美術館は邸宅仕様だから、通常窓をふさいでいる仮設壁をとれば光が差し込む。期待して見守っていたが、バルテュスはやがて首を振った。「引きが足りない、というんだ」。清水さんはサバサバと語った。この巨匠は、駄目といったら駄目だろう、と私も観念した。
日が暮れかけた帰り道。車は東京駅前を通過した。訪問予定から外した東京駅内の東京ステーションギャラリーについてひと言だけ説明すると、節子夫人の訳を聞いたバルテュスの息にはっきりと変化が感じられた。あのレンガ造りの建物は、まさに好むところだったようだ。清水さんとの会話で見せた鋭いまなざしに通じる何かを、助手席の私は背後に感じた。節子夫人から「中を見ることはできませんか」と問われたが、私は「予定にないので」とかわすことしか出来なかった。
夫妻は翌日、二人で東京駅にギャラリーを見に行った。そして「あのギャラリーならOK」と電話で伝えてきた。だが私は、部長を翻意させることはできず、展覧会の話は幻となった。
1991年春、ニューヨーク駐在として渡米していた私は、出張先のロサンゼルス・ゲッティ美術館で偶然、水戸芸術館の美術監督となっていた清水さんと再会。そこに当時、東京ステーションギャラリーの企画委員を務めていた中山三善さん(現スヌーピーミュージアム館長)が偶然いて、初対面の私は清水さんから紹介された。
雑談の中で私がその午後に、近郊の町パサデナの美術館を訪れることを告げると、中山さんは同行を希望。そしてパサデナからの帰路、タクシーの中で、バルテュスが東京ステーションギャラリーを気に入っていたことを私が伝えると、中山さんは「うちでやっていいですか?」と身を乗り出してきた。こちらは残念ながら断念した身。いいも悪いもなかった。
1993年の晩秋、東京の美術館では初となるバルテュス展が東京ステーションギャラリーで幕を開けた。

バルテュスはその後、インタビューに応じる機会が増えた。テレビ番組の取材にも応じ、「孤高」のイメージは徐々に薄れた。そして「20世紀美術の巨匠」の称号に殉じるかのように2001年に他界。
近年はバルテュスの“実像”へのアプローチが進み、画家の思春期の女性への関心がことさらに取り上げられることもある。この冬(2020年12月)、パリのオークションでバルテュスの作品がまとまって出品されるが、予告記事のひとつは、所蔵者がモデルも務めたバルテュスの義理の姪で、二人の間に特別な関係があったことに焦点を当てていた。
作家へのアプローチは多様であって構わないが、バルテュスの場合、自然光や作品の構図へのあの張りつめたようなこだわり、美意識こそが大事ではないか、という気もする。
冷え込み始めたこの季節に東京駅を通りかかると、車の助手席で背後に感じたバルテュスの鋭い気配を思い出す。バルテュス展を自分で手掛けられなかった無念さは、その後のエネルギーとなったが、それでもふと、忘れ物をした気分に襲われる。遠い回想の中で、バルテュスは硬質な視線を彼方に向けたまま、沈む陽に向かって歩み去って行くかのようだ。
(前読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)