バーンズ展 ‐2 さらば ベック教授 【イチローズ・アート・バー】第30回 

「バーンズ展」日本展図録表紙   約2ヶ月半で100万人を超える人が訪れた。

「イチローズ・アート・バー」は、東京、ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局・陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。

 

1992年秋のある日、読売新聞のNY支局にコロンビア大学のジェームズ・ベック教授(美術史)から電話が入った。美術展に関する話という。支局には国連担当、経済担当の記者、外報出身の編集委員はいるが、文化専門の記者はいない。受付の中村さんから「美術系の話なので、とりあえず」と、事業本部(現・事業局)NY駐在だった私に電話が回されてきた。

 ベック教授は当時進められていたシスチナ礼拝堂の修復反対の急先鋒。何ごとかと思って受話器をとると、「バーンズ・コレクションの国際巡回計画についてひと言意見があり、日本のメディアにそれを伝えたい」という。

【バーンズ・コレクションの名品展は1993年から95年にかけて欧米日を巡回した。日本では、94年の14月に東京・国立西洋美術館で開かれ、100万人を超える入場者を記録した】

教授は読売新聞がバーンズ展の日本側主催者であることを知らず、私をジャーナリストと思って、話し始めた。「barnes」ばかりでなく「sistine chapel」という単語が交じることからシスチナ礼拝堂の修復問題にも話が及んでいることが窺われたが、私の語学力ではとらえきれないスピードと内容だった。話が少し途切れたところで、私が、こうした時の常套句を返す。 ゆっくり、時間をかけて。

 ワタシ、アメリカ、キタバカリ。ニューヨーク、エイゴ、ムツカシイ。キクノハ トクニ ワカリマセン。アナタノ イウコト ムツカシイ。

 「会いたい」という教授のアプローチに対して最初に思い浮かんだのは、「遠ざけよ」と言うサインだった。君子ではないが、「危きに寄らず」だ。会わなければ何も責任を負うこともない。だが、バーンズ財団と美術館のエリートたちの「横暴」を訴えているらしいベック教授は、私が面会を断ったら日本の他の新聞社に行くかもしれない。いや、この熱のこもった話ぶりでは行くだろう。ライバル紙が興味本位でこの問題を書き立てたらどうなるだろうか。

 ―会うべきか、会わざるべきか―

会ってあたりどころが悪ければ、自分がまともに逆風を受けることになる。東京の本社から非難もされるだろう。だが、実情あるいは敵情を知らないことには、思わぬ不意打ちを招く恐れが残る。ベック教授の思いを一旦受け止めることで、その前のめりの気持ちを落ち着かせることが出来るかもしれない。巡回展推進派の理屈はだいたい承知しているつもりだが、意見を求められても「ワカリマセン」で答えることになる。。

 ―会うか、会わないか―

虎穴に入らずんば虎子を得ず、とも言う。2回目の「ムツカシイ」を言うころには、気持ちは定まっていた。「イツ、アイマショウカ?」

  この年の春に、日本でのバーンズ展の開催とその枠組みは決まったものの、周辺部分で権利問題が生じて、財団との契約は結べずにいた。わずかな動きでも認識にズレが生じないよう、私はフィラデルフィア/バーンズ財団通いを続けていた。週を置かずにフィラデルフィアを訪れることもあった。ベック教授からすれば敵将の本陣に出入りする「敵方の一味」ということになるが、教授はそれを知らない。

 支局に来る、と言う教授を制して「先生の研究室、あるいは大学のあたりで」と要請した。相手の環境や会場選択は時に重要な判断材料になる。コロンビア大学のあるのはマンハッタンの116丁目付近一帯。大学から少し離れただけで麻薬の売人がうろついている、と言われた地域だ。

 約束の午後、指定されたカフェは、学生街の気楽な店だった。こういう時に高級な場所を選ぶのは打算や下心があることが多い。ベック教授とは話の本筋だけで対峙すればよさそうだ。着古したジャケット姿で、気さくな感じの先生だった。1ドルちょっとのコーヒーをオーダーしてさっそく本論に入った。店は学生が多い。無遠慮な話し声が響く。

  バーンズ財団の名画を公開する国際巡回展の計画は、自らを教育機関と位置づけていたバーンズ財団の元生徒たちから猛反対を受けていた。創設者バーンズは、美術館人などいわゆる美術エリートとは一線を画し、コレクションを労働者など「スレていない」人にだけ公開する方針を定めた。財団は事前許可がなければ入れなくなり、城壁に囲われた砦のようになってしまった。1951年のバーンズ没後もこの方針が厳格に守られ、そのために高名な研究者が自動車運転手に変装してようやく潜り込んだというエピソードも伝えられる。

  1989年にバーンズの忠実な後継者ディ・マジア女史が他界し、その後、意欲あるいは野心に満ちた弁護士グラントン氏が理事長になったことで、コレクションの運命が180度変わった。

グラントン氏は大美術館のバックアップを得て「老朽化した施設では美術品の安全は保てない。改修には資金が必要で、作品貸し出しによる借用料獲得が必要だ」という論理を、構築した。これによって、裁判所からバーンズの遺言の一時停止、巡回展について許可を引き出す。

財団の元教え子たちからすれば、小理屈を弄して創設者の遺志を歪める暴挙、ということになる。改修工事が必要としても、部分調整で十分。作品をバーンズが決めた位置から外すだけでもけしからぬことなのに、まとめて館外に貸し出すなどもってのほか、と批判は憤りに変わっていた。理論武装と箔付けのためだろう。名門コロンビア大学で美術史を教え、「美術保護」の活動家としても知られたベック教授に応援を求め、教授は快諾した。

バーンズ・コレクションの名品展はその価値を知るものにとっては長年の夢だった。出来るものなら何が何でもやりたい。本能的といってもよい反射神経で展覧会関係者は一直線に走り出していた。ベック教授はそれに対して異論を唱え、再考を求める。反対のための反対かと疑ったが、そうではなかった。「作品のため」とは何か、「鑑賞するとは何か」を説いて来た。

ベック教授の共著「Art Restoration(美術品修復)」(W・W・Norton社刊 1994年)

  「バーンズ・コレクションの価値は、代表作クラスの作品が集められていることだけではない。画家のアトリエからバーンズの手元に直接運ばれたから、画家が描いたままの状態で絵が残されているのだ。巡回をするとなれば補強のために裏打ち(lining)をするであろう。裏打ちは画面に圧力をかけることになる。描かれた時の絵の具の盛り上がりを、今になって潰してしまうとは何ということだ」。絵画は二次元の芸術だが、厳密に言えば画面に凹凸のある立体作品だ。裏打ちは画家が意図したその微妙な表情を消し去る行為となる。せっかく残された宝を資金集めの巡回展のために失ってよいのか。そう訴えるのだ。

裏打ちは一般的な補強方法だから、ベック教授のこだわりは例外的と言えるかもしれない。だが、いずれにしてもその主張には、「作品を守る」ことを掲げながら実際には「巡回展ありき」で猛進したとも言われたグラントン理事長への批判が込められていた。

同時に「名作を混雑の中で見ることが真の鑑賞になると思うか」とも問いかけてくる。「だいたい何十点もの名作を12時間で鑑賞できるわけがない」。教授からすれば11点時間をかけて味わわなければ意味がない、ということになる。単なるクレームではなさそうだ。美術に対する信条が感じられる。

 一方、展覧会の組織者側には、世界の人々にこの門外不出の至宝に触れる機会を提供する、という大義名分があった。マティス幻の名作「生きる喜び」の色を実見し、さらに、スーラの代表作「ポーズする女たち」を間近に見ることが可能になるのだ。スーラはそれまで、財団の吹き抜けの二階部分にかけられ、照明も不十分なまま遠目に見る以外なかった。

ルノワール、セザンヌ、ゴッホなどその他の名作も収めた初のカラー画集も展覧会に合わせて刊行される。それまでとは比べ物にならないほど多くの人がこの至宝に直接間接に触れられるのだ。「ひと目見られる」だけでも測り知れない意味をもつことがあるのも、間違いない事実だった。

さらに私が考えていたのは、画家たちの思いだった。ルノワールもセザンヌもマティスも、貸し出しもカラーの複製も認めないバーンズの方針を永久に歓迎するわけはない。巡回することによって、バーンズ財団の名画に触れる機会が持てない人々の中から新しい芸術が生まれるかもしれない。画家たちがそれを喜ばないことはあるまい。バーンズがコレクションの扉を閉ざしてから長い時間が流れていた。もう作品を「解放」しても良いのではないか。巡回展の大義名分が揺らぐことはないだろう。無言のまま自分に対して、ひとつうなずいた。

 ベック教授には功名心や売名的な意図があるという見方も根強かった。シスチナ礼拝堂の修復もバーンズ問題も、世界の注目を浴びるから関わったと言われた。しかし、学生の話し声に混じって引けを取らない快活な言葉に、「活動家」に時として見られる暗いエゴは感じられない。強いて言えばその正義感は私的な美意識に裏打ちされたもののようにも思われた。

 この巡回差し止め訴訟は価値観の違いが争点で、法的にはバーンズ財団が敗れる恐れも、問題が捻れて拡大する可能性もないように思われた。コーヒーカップを口にやりながら、立場も意見も異なるが「敵ではない」と感じていた。隠し持っていた刀の柄から手が離れた感覚があった。火種は弾けることなく、1ドルのコーヒーに沈むように消えた。

ベック教授はひと通り話し切って、少し落ち着いた様子だ。私はもっぱら聞き役に回ったが、別れ際に「確かに名画1点を鑑賞するのも、一生をかけてさえ、足りないかもしれませんね」と応えた。媚びたわけではない。一枚の絵に、人は何度でも出会う。見る度に発見があり、新たな感情がわく。

 教授と別れ、小さく息を吐いた。誰も知らない肩の荷を、ひとつ降ろした気がした。治安に不安のある地域だ。タクシーをさがして小走りに交差点に向かった。

 翌週、儀礼的な礼の手紙を送るとすぐに返事が来た。厚いレターヘッドにタイプで文字を打ち込んだ手紙だ。「イタリアに行く。帰ったらまた会おう」

私はそれ以上連絡をしなかった。教授からの音信もそれきり途絶えた。ベック教授は2007年に逝去。私がバーンズ巡回展に関わっていたことを知って天上で怒っているだろうか。いずれ天上なり泉下のカフェでもう一度会ってみたい。今度は私も「ワカリマセン」を封印してひとしきり語りたくなるに違いない。

(読売新聞東京本社事業局 専門委員 陶山伊知郎)

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