バーンズ展 前哨戦の断想 ~美術展のフツ ウな真実~ 【イチローズ・アート・バー】第29回  

「バーンズ展」日本展図録表紙   約2ヶ月半で100万人を超える人が訪れた。

 「イチローズ・アート・バー」は、東京、ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局・陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。

 セオリー

絶対ではないにしても、どのような仕事にもセオリーと呼べる行動原理がある、と言われたことがある。美術展の企画でも、情報の網を張り、キーパーソンと思しき人物には距離を詰めて耳をすませ、出来れば語り合い、時には流れや運をただ待つ、という基本則のようなものを、駆け出しの頃、学んだ。

 四半世紀前に開かれ、関係者の間では今でも時に話題にのぼる「バーンズ・コレクション展」(国立西洋美術館 1994年)も、作品の質の高さ、ヘビー級の登場人物、さらには訴訟など特別な要素、局面はあったが、基本的には「セオリー」に沿った積み重ねの上に成り立った展覧会だったように思われる。

バーンズ・コレクション

バーンズ・コレクションは、1994年に東京・国立西洋美術館で開かれた「バーンズ展」で日本に初お目見えした。今でこそ米フィラデルフィアの名画コレクションとして知られるが、30年前、バーンズ財団が禁を破って作品貸し出しに動き始めた頃は、一般の間ではほぼ無名だった。

無理もない。目薬の開発で富を成した創設者のアルバート・バーンズ(18721951年)がほとんど門を閉じていたのだ。知る人ぞ知る幻のコレクションだった。

その中身は、ルノワール181点、セザンヌ69点、マティス59点、ピカソ46点、アンリ・ルソー18点、モディリアーニ16点、ゴッホ7点、そしてスーラ6点をはじめバーンズが見出したといわれるスーティン、アフリカ彫刻やマスク、20世紀初頭のアメリカの絵画、エル・グレコ、シャルダン、ゴヤといった古典絵画など、絵画約800点、彫刻や家具、金具、装身具などの工芸品約2500点という陣容だ。

 集めた作品や骨董品を、バーンズは自らの考えに沿って財団のギャラリーで展示した。絵画や彫刻と、骨董金具(ドアノッカー、鍵、蝶番、かんぬき、クッキーカッターなど)や民芸家具などを組み合わせた展示は非常にユニークで、年代や地域性、ジャンルなど、いわゆる美術史的な区分によらず線、色彩、形など造形面の特徴によって展示をまとめていった。

こうして一つの壁にセザンヌやルノワールらの名画が、アジア、アフリカの作品や、家具、金具などと共に、概ね左右対称に並べられ、多いところでは5段前後に積み重ねられるように展示された。

排他的なまでの壁

長い間、バーンズ財団のコレクションを見るためには、財団に申し込まなくてはならなかった。バーンズ存命中はバーンズ自ら入館者を選別した。美術史家や美術館関係者はまず拒絶されたという。

また、作品の図版の活用にも制約が設けられた。バーンズ存命当時のカラー写真では色の再現が不十分で作品の正しい理解が得られないとして、カラーの複製を禁止したのだ。カラーの複製技術が高度に発達した1990年代に入ってもこの禁令はなお墨守されていた。

その結果、バーンズ・コレクションの作品を知るには、財団に足を運んで見る以外になくなってしまっていた。しかも、鑑賞人数に上限が定められ、時間の制約も厳しく、なにより財団がフィラデルフィア郊外の、わかりにくく不便な場所にあるため、訪れる人は限られた。

新理事長登場

バーンズの考えは、1951年にバーンズが没した後、忠実な後継者、ディ・マジア女史によって厳格に守られたが、1989年にディ・マジアは他界。元外交官が後を継いだがすぐに亡くなり、次に黒人弁護士のグラントン氏が新理事長に就任した。ここからバーンズ・コレクションの運命は急転する。

 作品の移動はバーンズの遺言によって法的に厳格に禁止されていたが、グラントン新理事長は「老朽化した施設の改修のため」裁判所に遺言の一時停止を認めさせ、1993年から95年にかけて米仏日加独の国際巡回展が実現。各地で反響を呼んだ。

 各会場の主催者は、改修工事費に充当するための多額の作品借用料を負担した。“本家″フランスの美術当局が、作品借用のために金銭を支払ったのはこの時が初めて、と報じられた。

 日本巡回への前哨戦

 日本での開催が正式に決まったのは93年。ワシントン・ナショナル・ギャラリーの館長カーター・ブラウン氏と読売新聞パリ駐在の南條彰宏氏(肩書はいずれも当時)の10年来の友情・信頼関係の上に実った企画だったが、南條氏はブラウン氏との出会い以前からバーンズ財団を何度も訪れ「その時」を待っていた。90年暮れに事業本部(現・事業局)駐在としてニューヨーク支局に赴任した私もまた、及ばずながら「網」を張り、アプローチを試みていた。

 9127日、NYタイムズ紙でグラントン新理事長が財団の運営資金捻出のために思い切った策を検討していることが伝えられていた。ニューヨークで暮らし始めたばかりの私は、語彙力不足に挫けそうになりながら、日々、同紙の美術関連ニュースを追っていた。

グラントン氏は企業を顧客に弁護士として辣腕をふるうと同時に、政治的野心も秘めた男だった。美術にはほとんど関心がないにもかかわらず、バーンズ・コレクションが並の名画コレクションではないことを知り、同財団の人事権を持つリンカーン大学の理事会に働きかけ、バーンズ財団の理事長のポストを手に入れた。就任して、財団の財政的な立て直しが喫緊の課題であることを知る。

グラントン氏はほどなく、作品売却により運営資金を補う方針を打ち出す。当時の美術館の常識では、作品の購入資金を得るための売却は稀(まれ)にあっても、基本的に所蔵品、特に主要作品を売ることは御法度だった。門外漢ならではの「怖いもの知らず」だったが、グラントンは旧習打破を恐れぬ人物だったから「常識」を承知した上での突破策だったかもしれない。

だが、周囲に諫(いさ)められ、断念。やがて「作品貸し出し」に目を向けた。国際巡回展で各会場から借用料を得た例があることを知ったのだろう。 

貸し出しはおろか、各作品、工芸品の展示位置までバーンズの決めたところから寸分たりとも動かしてはならない、というのがバーンズの遺言で財団の「憲法」だ。法的効力もある。その遺言の一時停止を裁判所に認めさせ、コレクション展を世界巡回させる、というシナリオをグラントン新体制は描くことになる。

初 動

NYタイムス紙の記事を見た私は、型通り、まず資料探しにかかった。東京とのやりとりも電話とファクスが主力の時代。ネット検索など思いもつかない頃のことだ。書店を回ってみたが、見当たらない。かといって、外部者に聞いてしまっては、バーンズ・コレクションを追っているこちらの動きが漏れてしまう。

 やむなく徒手空拳のまま、直接財団にアプローチすることに。だが、新聞記事の改革路線はグラントン一人の考えだったらしく、電話で「展覧会の可能性についてお話を」と言った途端に「ここは教育機関。そのようなことはありえないし、対応する担当者もいない」とにべもなく拒絶されてしまった。やむなく、一観覧者として財団に出向き、コレクションを見たのち、現場で直訴してみた。しかし取り次いだ監視員からは電話と同じ言葉を聞かされた。

せめて資料を、と見回すと、入り口の地味なラックにバーンズやディ・マジアの著書、財団の会報が素っ気なく置かれていた。バーンズはルノワール、セザンヌ、マティスについてそれぞれ400ページを超える著作を残している。美術史界では異端扱いだが、理系の人間らしく美の公式を独自の視点で築き上げていた。絵画、工芸品を左右対称に壁いっぱいに配置する財団独特の展示は、その「バーンズ理論」に基づいている。

ハードルの高さだけが印象に残った「初動」となった。

風が吹いた?

打つ手のないまま訪れた1991年の秋のある日、ワシントンDCの美術関係者から電話が入った。インディペンデント(個人)で展覧会の企画も行なっている女傑だ。「バーンズ・コレクション、興味あるか?」。唐突な話だったが、平静を装い「動くのか?」と問い返した。春に財団を訪問していたことが、一方的に押し込まれずにすむ支えになった。「誰と話しているのか」と質すと、「相手は理事長」という。

 この頃、グラントン氏は、やみくもにコレクション展の「セールス」をしていたらしい。振り返ってみれば、展覧会実現の前提となる「遺言の一時停止」は、後にワシントン・ナショナル・ギャラリーなどの援護射撃があってようやく実現したもので、この時点ではフライングのそしりを免れないが、財団の理事長の言葉とあれば周囲は当然反応する。

 交渉は中核人物と直接行うべし、と心がけていたが、チャンスを逃すわけにはいかなかった。彼女に希望を託すことにした。バーンズ財団理事長との面会手配を依頼してすぐに東京の文化事業部に一報をいれ、続いてパリの南條さんに電話した。

南條さんは1960年代以来、読売新聞の海外展組織の中核を担ってきた。元々はフランス文学が専門だが、欧米の美術界で幅広くかつディープな人的繋がりを築いていた。1987年に国立西洋美術館で開かれた「西洋の美術展 空間表現の流れ」は、世界中の名画名品を集め「記念碑的な展覧会」と呼ばれたが、この破格の展覧会は同館の前川誠郎館長(当時)と南條さんが世界中を飛び回って実現したものだった。 

フィラデルフィアの駅に並ぶタクシーの運転手でさえ、ほとんど名も場所も知らないバーンズ財団だったが、南條さんは二十数年来、何度も足を運んでいた。ルノワールのカタログ・レゾネの編者で高名な美術史家のフランソワ・ドールトさんと連れ立って行ったこともあったという。南條さんとバーンズの話をするのはその時の電話が初めてだったが、スラスラと作品の名前が出てきた。いつくるか分からないチャンスに備えていたのだろう。私は必死で春に訪れたギャラリーでの記憶をたぐった

「バーンズが動くかもしれない」と半ば前のめり状態で伝える私に、南條さんから「ちょうど今、ドールトさんがニューヨークに行っている。相談すべし」との助言が返ってきた。

何と良いタイミングか。神様が応援してくれているのかもしれない、と気持ちが浮(うわ)つきそうなのを自戒しながら、翌日、ドールト夫妻が泊まっているホテルに向かった。一階のカフェで会う。ドールト氏もバーンズ展を長く夢見ていた一人だったのだろう。すぐさま「自由にできるならば、4回のシリーズでやれ。ルノワール展、セザンヌ展、マティス展、そして20世紀の画家たち展だ」。がんばれよ、といわんばかりに笑顔で背中を押された。

空振りに終わった「いざ出陣」

理事長との面会は12月半ばに設定された。場所はフィラデルフィア。資料不足の中、財団の発行物以外でようやく『悪魔とバーンズ博士』というバーンズの伝記を見つけた。前書きに「財団非公認」が明記され、タイトルそのものも含みのある読みものだった。苦労してなんとか目を通したところでワシントンの仲介者から電話が入った。「本業の弁護士の業務で出張が入った」という。グラントンは後にキャンセルの常習犯であることがわかる。

これを機に、仲介者頼みは打ち切ることになった。

「前哨戦」の後の急展開

それから数ヶ月。92年春に事態は急転した。かねてバーンズ財団に助言を与え、国際巡回企画ではそのまとめ役となったワシントン・ナショナル・ギャラリーの館長カーター・ブラウン氏が、パリを訪問。1980年に東京、京都で開かれた「フラゴナール展」以来の「盟友」南條さんと会う。南條さんは以前からブラウン館長に「バーンズ・コレクション展は無理だろうか」という問いを投げかけていた。この時も同じ問いを発すると、思いがけない反応が返ってきた。「読売新聞が希望するなら後押しする」。

本丸中の本丸ブラウン館長のひと言で、バーンズ展の東京巡回が事実上決まった。

もっとも、財団との契約や東京展の枠組みがまとまるまでにはそれから約1年を要し、バーンズ信奉者が国際巡回展を阻止するために訴訟を起こすという“おまけ”までついた。

 注目を浴びた国際巡回

 超のつく名画展として、また例のない高額な借用料や巡回展反対訴訟をも話題としつつ、バーンズ・コレクションの国際巡回展はワシントン、パリに続いて東京で無事開催された。さらに巡回が始まってから追加開催が決まったテキサス州フォートワース、カナダ・トロントを経て、財団の「地元」のフィラデルフィアへ。最後は大西洋を渡ってドイツ・ミュンヘン、と世界各地で熱狂的に受け入れられた。東京では107万人が訪れ、「社会的現象になった」と言われ、ミュンヘンでは最後の3日間は24時間開館で殺到する観客に応えた。

この展覧会は「幻の作品」をただ見られるだけでなく、その真価を味わえる稀有な機会にもなった。バーンズ財団では吹き抜けの天井近くに飾られ、細部までは見えないスーラの大作「ポーズする女たち」も、巡回展ではギャラリーで目の高さで対面することができた。第1会場のワシントン・ナショナル・ギャラリーで、当時国立西洋美術館館長だった高階秀爾氏はこの作品の前で長い間、身動きひとつせずに作品に見入っていた。トロントでは柔らかな東からの自然光が間接的に入る部屋でセザンヌの作品が色彩の饗宴を見せ、観客は息をのんだ。それぞれの画家の最高傑作が特別な環境で鑑賞できたのだ。もっとも入場者が長蛇の列をなすと「止まらないで見てください」という「ツタンカーメン展」や「モナ・リザ展」並みの会場運営を強いられる場面も生じた。

東京展の期間中、電話で人気沸騰ぶりを聞きながらニューヨークで私が思ったのは、人々が名画を見分ける、不思議なほどの的確さだった。バーンズ・コレクションはまるで知られておらず、美術関係者だからこそ分かる価値、見どころも多い。それなのに一般の人々が続々と押し寄せた。東京の同僚が必死のプロモーションを行った成果であると同時に、ルノワールやセザンヌ、マティスらの名画が、複製の印刷物さえもが熱を発し、作品と人々の間に交感の回路が生まれたかのようだった。

 ブラウン氏の登場で枠組みが決まるまでは、先行きの分からないことばかりだったが、南條さんが四半世紀前からバーンズ財団に足を運び、それとは関係なくブラウン氏との交友を深めていたことなど、目の前の“成果”はさておいて「やるべきこと」を一歩一歩積み重ねたことが実った例だったのではないか、その上での多くの人々の熱狂的な注目だったのではないか、と振り返っている。セオリーのセオリーたる所以、とでも言えようか。展覧会にはこうした一見、無目的な探求と信頼関係の構築によって成り立つ側面があったように感じている。

(読売新聞東京本社事業局 専門委員 陶山伊知郎)

バーンズ展英語版カタログの表紙

2012年までフィラデルフィア郊外の町メリオンのバーンズ財団にあった名画群は、今はフィラデルフィア中心部に設けられた新たなギャラリーで公開されている。新ギャラリーでも「バーンズ理論」に沿った展示が寸分たかわず再現されている。

直前の記事

新着情報一覧へ戻る