ジャーナリスト・江川紹子× 永遠のソール・ライター展 「かくす」「ぼかす」・・秘すれば花、の美学【スペシャリスト 鑑賞の流儀】

「雨や雪を写し込んだカラーの写真が、とにかくステキです」と語る江川さん。お気に入りの作品「帽子」と一緒に(主催者了解の上、撮影の時のみマスクを外しています)

「スペシャリスト 鑑賞の流儀」では、さまざまな分野の第一線で活躍するスペシャリストが話題の美術展を訪れ、一味違った切り口で美術の魅力を語ります。今回はジャーナリストの江川紹子さんに、Bunkamura ザ・ミュージアム(東京・渋谷)のアンコール開催「永遠のソール・ライター」展を鑑賞してもらいました。

アンコール開催

「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター

 2020年7月22日(水)―9月28日(月)=9月8日(火)のみ休館

江川紹子(えがわ・しょうこ)

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、災害、カルト、メディアなど幅広い取材領域で活躍する。今年4月からは神奈川大学国際日本学部で、カルト問題やメディア論を教えている。ツイッターのフォロワー29万人を数える屈指のインフルエンサーでもある。

芸術分野にも関心が高く、特にクラシックは専門誌に連載を持っていたほど。多忙な取材の合間を縫って、展覧会にもよく足を運ぶ。最近では「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」のひまわり、に感銘したという。

《薄紅色の傘》 1950年代、発色現像方式印画 ⒸSaul Leiter Foundation

ソール・ライター展は春先に一回見ました。ただ、閉館時間ギリギリに駆け込んだのでゆっくり鑑賞できず、コロナのために早く閉幕してしまったので、残念だなあ、と思っていました。アンコールが実現したのはラッキーでした。

【ソール・ライター展は今年1月9日に開幕。3月9日までの予定だったが、新型コロナウイルスの影響で2月28日から中断し、そのまま閉幕。ところがニューヨークにある作品の所蔵元のソール・ライター財団でも影響が大きく、返却作品の受け入れが困難になった。同財団にとって「日本での回顧展開催」が大きな目標だったことから、快諾を得られ、急きょアンコール展が実現した】

仕事柄、写真はとても身近で、自分でもよく撮ります。彼の作品をみてまず考えるのは、「どこまで狙って撮ったのか」ということ。絵柄を決めて、狙い撃ちしたのか、それとも手あたり次第シャッターを切って、「あ、いいの撮れた」で残したのか。当時の彼の撮影風景は想像するしかありませんが、展示されている大量のベタ焼きなどを見ても、とにかくシャッターを切るぞ、という意気込みは感じます。デジカメの今と違い、現像してみないと分からない時代ですから。

会場には、写真フィルムを印画紙に密着してそのままプリントした「コンタクトシート」(ベタ焼き)が大量に展示されている。「生涯で何回シャッターを切ったのでしょうね」
《靴》 1952年頃、ゼラチン・シルバー・プリント ⒸSaul Leiter Foundation

「靴」は、バスの車体の先にのぞく靴が絶妙で、見えないところを想像させるのがうまい。果たしてこれは狙ったのか、撮ったらたまたま映っていたのか。創作過程も知りたくなるのが彼の作品です。

【ソール・ライターは1923年、ピッツバーグ生まれ。父はユダヤ教のラビ(宗教指導者)で、本人もラビを養成する大学に進んだが、早くからアートに関心があり、50年代以降、ニューヨークを舞台に主にファッション誌で活躍する。80年代に商業写真からは身を引き、2013年に死去するまで、ニューヨークの風景や街ゆく人々を撮り続けた。「カラー写真のパイオニア」とも言われる】

《そばかす》 1958年頃、ゼラチン・シルバー・プリント ⒸSaul Leiter Foundation

この女の子の表情も素晴らしいです。しかもピントがバッチリそばかすに合っている。これもずっと狙っていたのか。それとも?

【際立った特徴、と江川さんが注目するのは、多くの作品に共通する「匿名性」だ。「蝶々を吊す」はその典型例という】

《蝶々を吊す》 1960年代、発色現像方式印画 ⒸSaul Leiter Foundation

画面に出てくる人の顔が見事に全部隠れています。この瞬間が来るまで粘り強く待ち続けたのか、それとも立て続けにシャッターを押して誰の顔も見えない1枚を選んだのか。いずれにしても、顔がはっきり見えないことによって、人物や時間や場所、といった具体性が失われて、抽象的でより豊かな独自の世界が浮かび上がってきます。それが彼の狙いだったのはないでしょうか。

ソール・ライターは、ニューヨークにこだわっていたように思われるかもしれませんが、出来上がった作品世界はどこでもないような空間で、むしろニューヨークさを意図的に消している、とさえ感じます。そうした「誰でもない」「どこでもない」という作品の匿名性、普遍性に、私たちは惹かれるのかもしれません。

【固定観念に縛られないことも、ソール・ライターの魅力】

《花》 1952年頃 、ゼラチン・シルバー・プリントⒸSaul Leiter Foundation

つい見逃してしまいそうな何気ない作品の「花」も、気になる一点です。あえて男の人の花売りにフォーカスする視点がユニークです。

《緑のドレス》 1957年頃、発色現像方式印画 ⒸSaul Leiter Foundation

「緑のドレス」も不思議な味わいです。ドレス姿の女の人なのに、まるでクレームをつけているような姿勢。固定観念にとらわれず、決まりきった構図やありがちなストーリーに陥りません。

《結婚式》 1948年頃、ゼラチン・シルバー・プリント ⒸSaul Leiter Foundation

この「結婚式」も意表をついています。新郎新婦は「どこ撮ってんだ?」と怒ったかも。

どの作品も、「どんなもんだい」という挑発的な感じがしないところが好きです。ひたすら撮るのを面白がっているようで、偉そうじゃない。

《無題》 撮影年不詳、発色現像方式印画 ⒸSaul Leiter Foundation

全体に縦位置の構図が目立つのも特徴ですね。縦の写真は見る側に空間の奥行や高さを意識させます。そういう計算もあったのかもしれません。

【絵画もふくめて200点を超える作品が展示されている中、ソール・ライターの魅力はカラー写真にこそある、と江川さん。芸術写真はモノクロでなければ、と思われた時代に、彼は早くからカラー写真の可能性に気づいていた】

モノクロも悪くないですが、なんといってもカラー写真がすばらしい。ソール・ライターは雨や雪が本当に好きだったようで、完成度の高い作品もそうした気象条件の元で撮られたものが多いです。詩情あふれる印象派の絵画や浮世絵の世界のようです。私はルノワールを連想しました。また、たとえば「赤い傘」や「足跡」は、傘を持っている人が和服姿でも不思議のない絵柄。雪が汚れていたり、いたずら書きがあったり、焦点をぼかしたりしているのも効果的です。

《赤い傘》 1958年頃、発色現像方式印画 ⒸSaul Leiter Foundation
《足跡》 1950年頃、発色現像方式印画 ⒸSaul Leiter Foundation

ソール・ライターは日本で人気があります。印象派の絵のように、画面からにじむ湿度や潤い、情感が日本人の好みに合うのでしょう。この当時のカラー写真はフィルムの感度や焼き付けの過程もあるのか、はっきり映り過ぎないのもすごくいいです。今のデジタルカメラで同じ場面を撮ったら、情報量が多すぎてかえって興ざめのような気がします。

《無題》 1970年、発色現像方式印画 ⒸSaul Leiter Foundation
《帽子》 1960年頃、発色現像方式印画 ⒸSaul Leiter Foundation

ぼかしたり、隠したり、汚したりして、見るものの想像力を刺激する。「秘すれば花」という言葉そのままです。ピッツバーグのラビの家に生まれたソール・ライターがいかにしてこういう作風を身に付けていったのか。不思議です。想像するに、彼が長く身を置いたファッションの世界は、作り込んだ美しさを求める世界ですね。そうした環境に飽き足らず、もっとリアルで、雑然とした、汚いところもある日常の中に隠れる「美」を追い求めたくなったのかな。

【アートの神秘、を知る】

不思議といえば、彼の作品は「アートの神秘」を分かりやすく示していると感じます。

演劇や音楽、絵画などと違って、写真は誰でも撮れるものだし、今は世界中の人たちが常にカメラを持ち、いつでも発信できる時代。しかも彼の作品には、「自分もこれなら撮れそう」と思わせる取っつきやすさがあります。しかし、実際に撮ってみるとマネするのはとても難しく、「らしく」にさえなりません。私も試してみましたけど、全然ダメでした(笑)

でも、やってみると、アートとは何か、という気づきになるのではないでしょうか。日常の当たり前の風景の中にも、「美」は潜んでいるのです。でも、そのことを表現できるのはほんの一握りの才能の持ち主だけです。そうした人の作品を見て、私たちは見逃してきた「美」やその神秘に気づくことができるんですよね。だから、才能ある芸術家は社会の宝だと思うんです。

「写真」という誰しもが親しみを感じるアートの領域で、ソール・ライターが実現した高みを知ることには大きな意味があります。アーティストへの支援や社会的役割が論じられている今だからこそ、多くの人にみてもらいたい展覧会です。

■アンコール開催「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソールライター」

■2020年7月22日(水)~9月28日(月)

■Bunkamura ザ・ミュージアム

■開館時間 10:00~18:00(入館は17:30まで)

■問い合わせ 03-5777-8600(ハローダイヤル)

■本展では、新型コロナウイルス感染症対策のため、8月8日(土)以降の土日祝日に限り、オンラインによる入場日時予約が必要。予約方法や最新の情報は公式ホームページへ。

(聞き手・読売新聞東京本社事業局専門委員 岡部匡志)