サルバドール・ダリと東田直樹の時間【スペイン人の目、驚きの日本】第10回

スペインに生まれ、同国内のサラマンカ大学で美術史を専攻し、美術史研究者、芸術家として日本で活動するカロリーナ・セカさん。日本人が気づかない視点で、日本の美術、文学、建築などで感じたことを語るコラム「スペイン人の目、驚きの日本」をお届けしています。
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時間を感じる
3年前の今頃、私は自分のアトリエでサルバドール・ダリの『記憶の固執』に描かれた柔らかい時計を研究していました。
日が傾きかけた頃、すでに研究の大方の準備が整っていたので、私はリラックスして『記憶の固執』を熟視していました。絵に集中しすぎていたのか、不思議なことに私の周りが夢の中のようにスローモーションで展開するように感じました。
目の前で時計がゆっくりと柔らかく溶け出していても、砂浜に落ちることはありません。

私が無限の世界に浸っていた時、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン・・・!突然隣の家から何者かが執拗に飛び跳ねている音がして、現実に引き戻されました。
夕方になるときまって、私のアトリエで繰り返されるこの生活の喧騒、この反復表現をするドラミングは、自閉症だと私が推定している隣人のルーチンの一つなのです。打撃音は彼がすでに家に帰ったことを告げると同時に東田直樹さんのことを思い出させてくれました。
鏡の国の東田直樹さん
東田さんは1992年の夏、千葉県君津市に生まれました。彼の家系には作家や芸術家はいませんでしたが、母親は幼い息子にただならぬ特別な文学の才能を見出しました。
彼が言うには「僕が初めて出版したのは12歳の時ですが、その頃は、自分が作家になれるとは思っていませんでした。本を出版したあと、僕の本を読んでくださった方から感想をいただくようになり、もしかしたら僕の書く文章が人の役に立つのかもしれないと考えるようになりました。高校を卒業し、僕ができることは何だろうと考えた時、作家として生きていくことを決心しました。」と。
12歳の初出版から27歳の今日まで30冊以上の異なるジャンルの本を出版しており、13歳の時に出版された『自閉症の僕が跳びはねる理由』は世界中の書店で販売され、国際的な高い評価を得ております。

東田さんは他者とのコミュニケーションを取るために特別なシステムを必要としていますが、作家としては自由奔放で、創作に当たって何らも決まりごとや制約に縛られていません。
彼は幼いころに自閉症と診断され、何年にもわたって多くの人々の支援によって自分を表現する方法を手に入れました。QWERTY配列キーボードに描かれた紙面の文字を指さして、単語やフレーズを組み立てながら口頭表現ができるようになったそうです。東田さんの作品は既成概念を打ち砕き、とても自由に感じることができる世界に誘ってくれます。言葉に知恵が満ち溢れています。

記憶力
隣人の飛び跳ねる音を聞いてから『自閉症の僕が跳びはねる理由』を購入しました。
私にとってこの作品は非常に重要です。
世界を新しい見方で見る目を持てたからです。私は各ページを一字一句も漏らさないように注意深く読み、東田さんの感性と知恵の表現に心底感動しました。
本の真ん中に立った時、いままでと全く異なる視点で時間について考えることができて、ダリの柔らかい時計と繋がったのです。それまで表面上でしか見えなかった『記憶の固執』を深く理解することができたのには本当にビックリしました。
思いもよらない瞬間!これまでたくさんの疑問が解けなかった芸術の傑作のひとつをスッキリと理解できたので、シャンパンを開けて祝いました。
時間の概念に関する文章に魅了されました。時間は中断することなく続くものだからこそ混乱や不安を引き起こすのだと。「数分」は非常に柔軟であり無限に伸びるかも知れないし、逆に次の「数時間」は1秒のように一瞬で終わる可能性もあるのだと説きます。
「場面としての時間しか記憶に残らない僕たちには、1秒も24時間も、あまり違いはありません」と。 素晴らしくないですか!? 彼のフレーズに夢中になりました。

目からウロコが落ちたのは、時間の感覚が人によって異なるという点です。集中力の欠如、記憶の問題や不眠症など自閉症の人が日常生活で苦しんでいる一般的な問題から説明できたのです。
自閉症の人が持つ「時間の感覚」と密接に関連している記憶の問題は、私がダリの柔らかい時計の謎解きをする上で一つのキーになりました。
そして『記憶の固執』、ダリによって選ばれたこのタイトルがもう一つのキーでした。アートによって時間が固定され、時間の記憶が表現されています。つまり絵画の内側と外側の時間は永久に普遍的な進化をして生き続けているのです。
当時サルバドール・ダリは20代の若者で、スペイン・カダケスの美しい海岸での暮らしを満喫していました。
ある時、ダリは風味豊かなカマンベールチーズがゆっくりと溶ける様から、時空の不安やメランコリックな感覚に苛まれて、この柔らかい時計の作品が生まれました。
ノーベル化学賞受賞科学者のイリヤ・プリゴジン(Ilya Prigogine)がアインシュタインに触発されて『記憶の固執』を描いたのかと訊ねた手紙にダリが返信して、彼自身の時間理論はアインシュタインのものよりももっと一般的であり、形而上学的だと説明しています。
人間と時間。 天才と無形。
時間を感じることのできることが、私たち人間が生活し、社会的な存在になるのを助け、記憶を持ち、寝ている時には記憶を整理するのを可能にしています。
天才的な芸術家たちは常に無形の象徴を探求してきました。ダリは時間を描くことができました。そして東田さんの思考のお陰で、私は『記憶の固執』の謎を解き明かすことができました。
私にとって人生は、少なくとも時間の進捗状況を意味しています。
■ 新刊本のご紹介
『絆創膏日記』
ダリが『記憶の固執』を描いた時と同じ年齢の数週間前に、東田さんは最新作を発表しました。
『絆創膏日記』(角川書店)今年3月28日に発売されました。
「2017年11月15日~2019年1月23日まで(25歳~26歳頃)に、僕が思ったことや考えたことを執筆したエッセイです。その日感じたことだけではなく、昔の思い出などにもふれています。僕は、日常生活の中にこそ、人が聞きたい言葉が眠っているのではないかと思っています」とのことです。
ぜひお読み下さい。
今回の取材に当たっては
東田美紀さん、
株式会社イングリッシュ・エージェンシー ジャパンの松下 友美さんに
大変お世話になりました。
ありがとうございました。