遠ざかる足音の向こうに 画家・北脇昇【イチローズ・アート・バー】第26回

北脇昇(1901-51年)は昭和初期から戦後にかけて京都を拠点に活躍した洋画家。シュルレアリスム(超現実主義)的な作品で知られる。遺族からの寄贈により多くの重要作品を所蔵する東京国立近代美術館が、特集展示「北脇昇 一粒の種に宇宙を視る」で北脇の再評価を問うている(2020年6月14日まで。ただし4月1日現在、臨時休館中)。
ほぼ独学だった北脇の科学から哲学にわたる考察にも目を向け、シュルレアリスムにとどまらない作品世界に迫る企画だ。前衛画家として活躍した昭和10年代の作品を中心に約40点で構成され、この異能の画家の真価をあらためて問いかけている。北脇の作品のまとまった展示は、1997年に同館が開いた回顧展以来23年ぶりという。

謎の代表作
「クォ・ヴァディス」(ラテン語で「どこへ?」の意)は北脇が結核で他界する前に発表した最後の作品であり、代表作のひとつでもある。
左手には赤旗を掲げる労働者と思しき一群。右手には黒い雲に覆われ、激しい雨に見舞われているらしい街。男の足元にはかたつむりの殻、木製の道標とそれに寄り添うような赤い花。描かれているのはこれだけのように見える。
様々な解釈がされてきた。
男は北脇本人で、赤旗の列に向かおうとしているとする説が第一。実際、北脇は戦後、共産党系の文化団体に参加して美術の民主化運動に関わっていた。また、題名の由来となったポーランドの作家シェンキェヴィッチの小説「クオ・ヴァディス」(「主よ、いずこへ行き給う」)がキリスト教の苦難と栄光の物語であることから、男は敢えて黒雲の方に苦難を求めて向かおうとしているという説や、男は戦後の美術が置かれた状況を示しているという説も。
東京国立近代美術館美術課長でこの特集展示を担当した大谷省吾さんは、カタツムリの影が、男や道標の影とは向きも長さも異なることに着目し、かたつむりと男の間に時間の推移を見出した。戦争中、かたつむりの中に逃避していた男が、戦後、殻から出てきて新たに歩み始めようとしている、という解釈だ。
謎の画家
作品の難解さ同様、北脇の人物の歩みもまた謎めいている。名古屋生まれだが、小学生の時に住友財閥の重鎮だった京都の叔父の家に預けられ、そこで人生を送ることになる。上流階級のエリート候補だったはずだが、旧制中学を中退し、以後はもっぱら独学で、自然科学から哲学に至る教養を培った。
17歳で、関西美術院創設者のひとり鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)の画塾に入門し、洋画の手ほどきを受けたが、20歳で徴兵され、画業は一旦断ち切られる。約10年のブランクの後、今度は二科会の画家、津田青楓(せいふう)の洋画塾に入り、2年ほどで二科展入選を果たしてしまう。確かな画法をいつ、どのように習得したのか。長年にわたって北脇を研究している大谷さんにも分からないという。
二科会では古賀春江、東郷青児のシュルレアリスム風の作品が注目を集めていたが、北脇が描いたのは街の情景や裸婦で、シュルレアリスムに目を向けた形跡はない。二科会初入選の作品「マート」(1932年)のモチーフは街の市場で、佐伯祐三風のニュアンス豊かな壁が印象的な作品だ。
翌1933年、師の津田青楓が左翼思想への共鳴を問われて検挙され、洋画塾も閉鎖されると、北脇は須田国太郎に師事する。暗い色の重厚な作品を描く画家だ。いずれにしても、シュルレアリスムとは無縁だった。
一変する画風
ところが、1937年、30歳代半ばを過ぎた時期に画風は激変する。シュルレアリスム風の作品が量産された。未知の画風だったはずだが、「空の訣別」など、堂々たるシュルレアリスム的作品を描いている。唐突に「転向」した動機も、いきなり完成度の高い作品を描いたように見える経緯もわかっていない。

シュルレアリスムは、第一次世界大戦の惨禍を経て、近代的合理主義に懐疑の目を向けたフランスの詩人アンドレ・ブルトンらの提唱で起こった思想・芸術上の運動だ。日本は近代化の途上にあり、戦災も被らなかったため、多くの日本人は、意外性のある組み合わせによる新しい造形のスタイルとして、どちらかというと表面的に受け止めた。無意識状態を通じて現実の根源に迫るという本来のシュルレアリスムが、詩人で美術評論家の瀧口修造らの翻訳・著述や展覧会を通して理解され始めたのは1930年代半ば以降のこと。北脇がシュルレアリスムに目覚めた時期と一致する。それまで日本で目にした「シュルレアリスム」に反応しなかった北脇が、俄然この芸術運動に関心を示したのは、本来の考えに近いホンモノの神髄を知ったから、と思わせる。
芸術的表現からコンセプトの図解へ
だが、北脇が求めたものはシュルレアリスムそのものではない、と大谷さんは考える。見えないところに現実の根源を解明するヒントがある、と捉えたところはシュルレアリスムに通ずるが、北脇は社会現象や自然現象へのアプローチに数学、光学、生物学、さらには中国の易経まで視野に収めていたからだ。
ほどなく作品に変化が現れた。絵筆で意味ありげに描かれていた背景が、ある時からローラーで塗られた平坦な面に代わる。造形的な表現から、北脇の思考の表現、図説へと向かったように見える。矢印やプラスマイナスの記号などが、独自の意味体系の中で配置され、北脇の独特で複雑な思索が、作品に反映された。









戦争の影
1941年春、瀧口修造と画家・福沢一郎はシュルレアリスムを危険視する官憲に検挙され、拘置は半年以上に及んだ。美術団体がこぞって時局迎合路線に転じる中で、北脇の作品に易経など東洋的な要素が目立ってくる。易経は自然現象を陰陽の組み合わせで捉える古代中国の科学的体系のひとつ。信条そのままの行動だったのか、東洋思想への傾斜のポーズだったのかは定かでないが、東西の論理の比較、統合によって「現実」の根源を解き明かそうとしていた様子がうかがわれる。


戦後
戦争が終わり、北脇はシュルレアリスム風の作品で再出発する。研究会、日本美術の活動に奔走する一方、美術の民主化運動にも関わった。




再び「クォ・ヴァディス」
北脇は1951年に病没する。冒頭で取り上げた「クォ・ヴァディス」はその2年前の作品。描き終えた後、発足したばかりの日本美術家連盟の関西支部の運営に携わったり、前衛美術の展覧会(モダンアート展)に出品したりしたが、戦後に発症し一度は全快したとされた肋膜炎が再発し、検査の結果、肺結核と診断された。北脇は入院し、そのまま他界。「クォ・ヴァディス」は最後の油彩作品となった。
さまざまな解釈があり、定説がないことは既に述べたが、ひとつ言えそうなのは、敗戦を経て自らを問い直していた北脇にとって、過去と、まだ十年単位であったはずの未来との結節点に位置する作品だったらしいことだ。
北脇はシュルレアリスムに開眼した後、数学、易経などを包括する論理的世界へと向かい、どちらかというと自己にとっての意味や価値を問い続けた。大谷さんは、敗戦とそれに続く民主化のうねりは画家の目をようやく他者とのかかわりに向けさせたのではないか、と考える。「クオ・ヴァディス」に描かれた木製の道標は、以前の北脇なら記号で処理していただろう。画家が、作品を見るわれわれの方に一歩、近づいた感触がある。
確かに、この作品が様々な解釈を招くのも、見る側の中で関心が自然に湧いてくるからだろう。自己のための図解から、他者との対話を喚起する描写へ。新たな未来が築かれるはずだった。北脇が結核に倒れなかったら、次作には北脇に近づく手がかりがさらに描かれていたに違いない。
だが、それは夢想に過ぎまい。私たちは謎を残して去った画家の背中をただ見送るばかりだ。
北脇の作品は、今もなお、何かを秘め、見る者に問いかけてくる。答えを示す代わりに、思考の高ぶりを孕んで、ただ挑発し続けるかのようでもある。「今の作家たちに北脇の作品と向き合ってみてもらいたい。作家の中に何かが起こるのではないかと思う」。企画者の大谷さんの期待だ。
欧米の美術館では、白人男性を中心に編まれた従来の美術史の見直しが始まっているという。アメリカきっての名門・イエール大学の美術史講座も、最近プログラムの改編に着手。「グローバルな(世界の)装飾芸術」などを組み込んで話題になった。仮に日本の近代美術を世界の文脈で見直すための材料を提案せよ、と問われたなら、画壇の巨匠よりも北脇のような画家を推してみたいものだ。謎を残して歩み去る「クォ・ヴァディス」の男の無言のつぶやきは、欧米の研究者にどのような言説を紡がせるだろうか。異文化の視点ならではの思わぬ解が待っているかもしれない。
(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)
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コレクションによる小企画
2020年2月11日(火)~6月14日(日) 東京国立近代美術館・ギャラリー4(東京・竹橋)
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「イチローズ・アート・バー」は、東京、ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局・陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。