並走の軌跡~キュレーター、ギャラリストたち 【イチローズ・アート・バー】第25回

宮城県美術館で開かれている「特集:小林正人」(2020年4月5日まで)は、同館が所蔵する小林正人さん(1957年生まれ)の作品「Unnamed #2」を核に、寄託中の初期作品と近作を合わせた計6点で構成される小企画展だ。画家の歩みを点描的に示すと共に、30年を超える作家とキュレーター、ギャラリストたちの「並走」の軌跡を思い起こさせる。

 初期作品

まず展示されているのが、東日本大震災後に寄託されて以来、展示したことのなかった東京芸術大学時代の作品2点だ。横たわる人物像を描いた「Painting 3」に対して、「Painting 1」はキリスト教の「ピエタ」(磔になった十字架から降ろされたキリストと悲嘆する聖母マリア)がモチーフのようだ。描いては消し、塗っては拭うという繰り返しの先に浮かび上がる、独特の存在感がある。近づくとひそやかな黄色の輪郭線が見える=写真下=。描く行為の繰り返しと変容の中に、一瞬、光が差し込んだかのような印象だ。

「Painting 1」(左)と「Painting 3」(右) いずれも1982年

 

「Painting 1」の部分図。中央から左側にかけて黄色い描線が見える

 

Oil with canvasへ

小林さんは30歳代末頃から、キャンバスを木枠に完全には固定せず緩やかに張られたキャンバスに描き始め、完成に向かう過程で少しずつ木枠に留めながら立ち上げるようになった。キャンバスを左手に持ち、右手の手袋に絵の具を付け、直接塗り付ける。筆も用いなくなっていた。キャンバスを半ば抱き込むようにして、絵の具を手で塗り付け、拭い、再び塗った。「描く」作業の延長線上に枠への固定があり、作品は周囲の空間を引きこむように完成へと向かう。

小林さんは、キャンバスと油絵具を一体として扱うことから自身の作品を、通常「油彩」を意味する「oil on canvas」の代わりに「oil with canvas」と呼ぶ。

「Unnamed #2」1996年 宮城県美術館蔵
「Unnamed #2」の細部  画布は波打っている

 

制作中の小林さん(「“Unnamed #56” 制作風景, 2016」:シュウゴアーツ提供)

小林さんへの着目、小林さんとの歩み

宮城県美術館は、カンディンスキー、クレーら20世紀抽象絵画の先駆者の作品や、松本竣介、長谷川利行ら日本の近代洋画の名品、彫刻家・佐藤忠良のまとまったコレクションなどを所蔵する一方、1981年の開館以来、現代美術にも目を向けてきた。

開館5周年企画として、若手学芸員だった和田浩一さん(同美術館前学芸部長、現研究員)は戦後生まれの作家による「立体と平面」を主題にした展覧会を企画し、同僚と担当。1986年に「現代日本の美術3:戦後生まれの作家たち」として開かれることになるこの企画のために、40人を超える作家をリストアップした。ほとんど無名だった小林正人の作品は、資料でしか見たことがなかったが目に留まっていた。85年から小林の作品を扱うようになっていた東京・銀座の佐谷画廊で小林さんの作品を見て、作家に会う。小林さんとの語らいの中で「ホンモノ」と直感したという。小林さんには作為も衒(てら)いも感じられなかった。

「現代日本の美術3:戦後生まれの作家たち」展には「絵画=空」(198586年)など2点が出品された。「絵画=空」は後に東京国立近代美術館が購入することになる。

 

東京国立近代美術館で小林の作品に最初に注目したのはキュレーターの本江邦夫さんだ。同美術館勤務の後、1998年から2018年まで多摩美術大学の教授を務め、その間、府中市美術館の館長やVOCA賞、シェル美術賞の審査員なども歴任するなど、現代美術批評界の重鎮的存在となる(昨年、急逝)。本江さんは1886年の早い時期に国立の小林さんのアトリエを訪れ、作品と対面。年、佐谷画廊で初めて開かれた小林さんの個展にテキストを寄せた。東京国立近代美術館では、本江さんの同僚だった市川政憲さんや田中淳さんも小林さんの作品に関心を寄せ、1989年に東京国立近代美術館で開催された「色彩とモノクローム」展に「絵画=空」をピックアップ。2年後の収蔵へと続いた。「絵画=空」は同館で折に触れて常設展示で公開されている。以前に観覧者アンケートを行った際、人気が高かったという。

「絵画=空」 1985-86年 東京国立近代美術館蔵 (6月14日まで、本館2階所蔵品ギャラリーで展示。ただし3月19日現在臨時休館中)

 

数年前に本江さんと会った際、美術館入りしてまもなく関わった大型企画「マチス展」(1981年)をはじめとする、本江さんの展覧会や批評における活動歴に話題が及んだ。自身の歩みをふり返ってひと息ついた後、「私はいわゆるconnoisseur、目利きだ」と自負心をにじませる言葉が本江さんの口から漏れた。例に出したのは、小林さんの「絵画=空」。本江さんにとってもとりわけ記憶に残る「発掘」だったのだろう。

この「絵画=空」の制作を小林と並走するように見守った、いわば産婆役を務めたのがシュウゴアーツ代表の佐谷周吾さんだ。会社勤務を経て父の和彦さんが経営する佐谷画廊でギャラリストとしての一歩を踏み出した周吾さんは、85年に銀座の鎌倉画廊を会場に開かれた小林さんの個展を見て才能を感じ取った。佐谷画廊に小林さんを招き、最初に開いた個展が「絵画=空」の展覧会だった。

  

作家の転機

1995年、30代後半になっていた小林さんに転機が訪れる。ベルギーのスターキュレーター、ヤン・フートが小林さんの作品に目を留め、自身が館長を務めるゲント現代美術館への購入と、小林のゲント招聘を決めたのだ。この後、約10年にわたって小林さんはヨーロッパで地歩を築くことになる。

この時のヤン・フートの来日は、ワタリウム美術館(東京・神宮前)の企画「水の波紋」のためだった。92年にドイツ・カッセルの国際展「ドクメンタ」のキュレーターを務めたヤン・フートが選んだ国内外の作家約40人の作品による、屋外に展開する新しいタイプの展覧会だった。世界中の作家がヤン・フートに認められようとアプローチしていたとも言われる。さまざまな作家のポート・フォリオを持参した佐谷さんに、ヤン・フートは小林さんの作品を見たいと希望し、実見して購入と招聘を即決した。

ゲントでの制作は、新たな境地へと小林さんを導く。ある作品を描き終わり、キャンバスを壁に展示しようとした時、ヤン・フートが叫んだという。「ステイ(そのままで)」。床から動かすな、と指示したのだ。「ほら、あれはすでに素晴らしい」とヤン・フートは言い、小林さんは「それがすとんと腑に落ちたんだ。そこで初めて、俺の作品が理にかなった気がした」と受け入れた。

キャンバスを床に置いたまま、という例のない展示が生まれた。宮城県美術館の「Unnamed #2」は、このゲント時代に誕生した床置き作品の最初期例のひとつだ。

  

2000年、宮城県美術館「小林正人展」

86年の「現代日本の美術3」展を企画・担当して以来、小林さんの活動を見守ってきた和田さんは、本格的な個展の企画を温めていた。2000年に満を持して「小林正人展」を開催。初期からゲントでの作品まで20点による小林さんの軌跡、全貌を示す展覧会となった。

 ゲントから送られてきた作品のひとつに「Unnamed #9(展覧会当時は「Unnamed #8」として紹介。その後、名称変更)があった。展示プランを具体化する段になって、小林さんが「藁はないか」と急に言い出した。藁を床に敷いて、その上に作品を置きたい、というのだ。小林さんは「麦だ。稲はだめだ。麦の藁の黄色がいいんだ」と言葉を継いだ。初夏も過ぎつつあり、既に麦の収穫はほとんど終わっている。和田さんは小林さんの希望をひとまず引き取って対策を練った。同僚の後藤文子さん(現慶応大学教授・美術史)と麦の藁を探すが、どこも藁は残っていないという。策が尽きたかと思われた頃、東京での打ち合わせを終えて仙台に帰る新幹線でまだ収穫をしていない麦畑が目に入った。急いで場所を突き止め、農家に事情を説明して、望み通りの藁が手に入った。藁を確保したことを伝えても、小林さんは「ああ、あったか」とだけ。「作家はそれでいい」と和田さんは受け止める。「苦労の内ではない」というキュレーターの懐の深さを感じさせる。

小林さんが藁にこだわったのは、小林さんの生い立ちに起因するところがあるかもしれない。祖父がプロテスタント教会の牧師で、自身もキリスト教系の幼稚園に通うなど、キリストの世界に接していた。初期の作品にピエタらしき図像が現れ、ゲントでは馬小屋で制作・展示をしてもいる。馬小屋はキリスト生誕の舞台だ。そして宮城の展覧会では、美術館のギャラリーに馬小屋をほうふつとさせる藁を置き、その上に作品を置いた。演出を意識させなかったのは、その発想がつくりものではないからだろう。

宮城県美術館の展覧会(2000年)で、「Unnamed #9」は床に藁を敷いて展示された

 

「仕上げというものをしたことがない」

宮城県美術館の展覧会が開かれた2000年には、東京・江東区の食糧ビル3階にあった佐賀町エキジビット・スペースでも小林さんの作品が展示されていた。佐谷さんが立ち上げたばかりの「シュウゴアーツ」の企画で、この食糧ビルには、少し前まで佐谷さんの活動拠点となっていた「佐谷周吾美術室」が入っていた。

私にとっては初めて見る小林さんの作品だった。床に置かれ、周囲の空間と連続し、時間をも内包しているように見えた。頭の中で描いたイメージを手で実現しているというより、思考と感性と手作業が混然一体となって制作が行われたように感じ、「作品の完成はどのように決まるのか」と初対面の小林さんに尋ねてみた。

「作業を続けていて、ある時、手を加えるところがないことに気づく。見直してもやはりない。それで自分自身『作品が出来た』ことを知る」という言葉が返ってきた。はっとするような、それでいてすぐに腑に落ちる説明だった。

和田さんが展覧会に合わせて開いた「オープンディスカッション 小林正人の絵画」(2000715日 宮城県美術館講堂)でも、同様の質問が会場から出され、小林さんは「仕上げというものはしたことがない」と答えた。

  

連鎖する展覧会

「小林正人展」のポスターを遠く岡山で見ていたキュレーターがいた。小林さんの作品は見たこともなく、名前も知らなかったが「ポスターに魅せられてしまって、もっと知りたい一心で」資料を集め始めた。

キュレーターは高梁市成羽美術館の渡辺浩美さん(現・吉備川上ふれあい漫画美術館)。昭和20年代に設立された成羽美術館は、岡山市から車で約1時間半の山中にあり、大原コレクションの形成にも関わった高梁市成羽町出身の洋画家・児島虎次郎の作品と、三畳紀の植物化石など自然科学系の標本で知られる。渡辺さんは、児島虎次郎が小林さんと同じベルギーのゲントに滞在していたことを縁に、同館の現代美術シリーズで小林さんの展覧会を開く「妄想」を膨らませたという。

2006年に帰国した小林さんが、偶然にも渡辺さんの知人と結婚し、福山市鞆の浦にアトリエ兼新居を構えた。このタイミングで渡辺さんは「成羽美術館で個展を」と小林さんに「直訴」した。

2009年に実現した成羽美術館の「小林正人展―この星の絵の具」は、小林さんの各時期の代表的な作品と星をテーマにした当時の近作、さらに小林さんが試み始めたばかりの2点組の絵画作品を公開する展覧会となった。安藤忠雄さんの設計で1994年に新装された成羽美術館の吹き抜けの柱の高いところに、この頃の典型作のひとつ「星のモデル #2」は展示された。

「Light Painting #7」(2007年:左の壁面の下段)と呼び合うかのように展示された「星のモデル #2」(2008年:右手の柱の上部)   8メートル以上の場所に掲げた「星のモデル #2」は、窓掃除業者のタワー(昇降機)のタワーを転用して設置したという

  

当時、担当していた恐竜展を終えたばかりの私は、「使用済み」となった恐竜の骨格標本を岡山市の研究機関に収める話し合いを同市内で行い、その足で成羽美術館を訪れた。空間を自在に使った展示は新鮮だった。展覧会を企画した渡辺さんは不在で、面識を得ることもできなかったが、その熱意は自然に伝わってきた。

「星のモデル #4」(2009年:左)と「白ペンキの天使」 (1984年:右)   「小林正人展―この星の絵の具」(高梁市成羽美術館 2009年)より

 歩み続ける作家

現在、宮城県美術館で開かれている「特集:小林正人」には2011年の作品が3点、展示されている。2000年前後は抽象的な色面が支配的だった画面に、女性の姿が浮かび上がってきている。

「この星の女」(左)など2011年の作品  「特集:小林正人」(宮城県美術館 2020年)より

 さらに最近は裸婦や馬を描き始めた。抽象的で瞑想を誘うかに見える「Unnamed #2」などの印象が強く、「画家の肖像」(2019年=写真下)のように実物大かとも思われる馬の全身像を突き付けられると、どのように受け止めればいいのか、正直なところ、ややうろたえる。かつて佐谷さんも「絵画=空」を初めて見た時、それまで見ていた表現とのあまりの違いに、すぐにはどのように受け止めればよいか分からなかったという。

作家は常に先へ先へと疾走し、見守るキュレーター、ギャラリストは客観的に、あるいは相対的にとらえようと、少し時間をかけて消化していくのだろう。

「画家の肖像」 2019年 (写真=シュウゴアーツ提供)

 「リトマス紙」

小林さんの印象は最初に会ったときと変わらない、と和田さんはいう。天然の「ホンモノ」感はそのままで、和田さんにとって小林さんとの対話は「作品にとって本質的ではないことに自分が少しでもとらわれているとそれが分かる」自省の得難い機会だという。「たとえて言えばリトマス紙のような存在」と形容した。

ゴールを自覚することなく制作を続ける作家と同様、見守るキュレーターやギャラリストたちも時に自らに厳しい目を向けながら、未知の地平へと走り続けているのだろう。創造に対峙する緊張感が伝わってくるような気がした。

(読売新聞東京本社事業局 専門委員 陶山伊知郎)

 

「この星の女」(2011年)を前に語り合う母と子 (2020年2月22日、宮城県美術館「特集:小林正人」の会場で)

コレクション展示 特集:小林正人

2020年1月22日(水)~4月5日(日) 宮城県美術館

 

宮城県美術館のミュージアムショップの店頭には、小林さんの「自伝的小説」という「この星の絵の具」(ART DIVER刊 https://artdiver.tokyo/product/konohoshi1/)が置かれていた

   「イチローズ・アート・バー」は、東京、ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局・陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。