国立プラド美術館の修復師・和田美奈子【スペイン人の目、驚きの日本】第8回

和田美奈子さん スペイン国立プラド美術館の紙修復師 アトリエにて © 和田美奈子

スペインに生まれ、同国内のサラマンカ大学で美術史を専攻し、美術史研究者、芸術家として日本で活動するカロリーナ・セカさん。日本人が気づかない視点で、日本の美術、文学、建築などで感じたことを語るコラム「スペイン人の目、驚きの日本」をお届けしています。

 

 

謎に満ちた世界 

先日私はUFOが考えられないスピードで飛ぶ様子を放送していたテレビ番組に釘付けになっていました。宇宙人の物語に夢中になっていた20年前の不思議な夜のことを懐かしく思い出しました。 

スペイン サラマンカ大学の美術史の新学期が始まる直前にパーティーに参加した時のことです。

夏の終わりの夜明けに友人たちと帰路につき、サラマンカ大聖堂の近くのとても美しい場所を歩いていました。私たち以外には誰もいませんでした。

 

サラマンカ大聖堂  写真提供 Ester Manzano © SIB Catedral de Salamanca

 

「見て!この街の摩訶不思議なミステリーを」 とサラマンカ出身の友だちが有名なラモス門(Puerta de Ramos)を指さしました。その指先には石に刻まれた小さな彫像がありました。

私は目を疑いました。石門には確かに宇宙飛行士の姿が刻まれていたのです。どうなっているのかしら?この大聖堂は1513年着工、1773完成のはずです。数百年も前にサラマンカに宇宙飛行士が存在した、もしかしてエイリアンがやって来たのだろうか?他の惑星やUFOからの訪問者の衝撃のイメージ画像や物語を想像しながら、昔の家へ帰りました。

 

サラマンカ大聖堂の宇宙飛行士   写真提供 Ester Manzano © SIB Catedral de Salamanca

 

この宇宙飛行士のは大学の授業が始まった時に解けました。

文化財保存学の教授の説明では、大聖堂のドアには宇宙飛行士や他にも人物らしきも彫られており、90年代の復元工事で石工たちが20世紀の象徴としての宇宙飛行士を自らのアイコン代わりに制作したようです。

スペインでは通常これらのアイコンを残した人物を特定するのが容易ではなく、また賛成する専門家も反対する専門家もいることから多くの議論や論争を引き起こしております。さらに修復師や学芸員の倫理観がここ数十年で大きく変化したことも学びました。特にイタリアとスペインでは保存すべき芸術作品の量が多過ぎて、すべての芸術遺産を最良の状態に保つことは非常に困難になっております。

ヨーロッパでは修復師や学芸員の地位や職業の評価が非常に高く、多くの美術館は絵画、紙、彫刻などの専門家が在籍する独自の専門部門を持っています。しかし文化遺産を保護し、補修する方法については常に論争があって、これらの議論は国民的な関心事として頻繁にマスメディアにも取りあげられています。

教授は「過去の芸術作品の所有者はすべて未来の人間であり、現在の人々はそれらを愛し、世話をし、楽しむ必要がある」と説いていました。

 

修復師の個性

私が尊敬の念を抱いている人がいます。和田美奈子さんです。

 

スペイン国立プラド美術館 Puerta de Velázquez ©Museo Nacional del Prado

 

201年の歴史があるスペイン国立プラド美術館で働いている国家公務員の紙修復師では唯一のアジア出身者です。

和田さんの日常は午前8時にプラド美術館に出勤し、仕事部屋に向かいながらベラスケスの『ラス・メニーナス』を1人きりで凝視します。最近はフランドル絵画やイタリアのルネサンス絵画を眺めるのも気に入っていて、見るたびに新しい発見があるそうです。また極めて完璧な画家であり、精緻な漫画家としてアルブレヒト・デューラーが好きです。

しかし和田さんにとって、スペインで25年間暮らすことになるとは全く想像もできなかったことで、人生激変しました。

 

彼女は東京で生まれました。描画や硬筆が好きで、特に模写をするのが得意な少女だったそうです。

東京・四谷にある上智大学イスパニア語学科を卒業しました。スペイン人の教授と相対してスペインの文化を極め、美術史も好きでよく勉強しました。

卒業後は日本の鉄道会社に入社してマドリードに駐在し、本当にスペインを旅するのを楽しんでいたそうです。

しかしながら楽しかった最初の数年が経つにつれて、自分の生きる道のりが自らの意思と異なっていることに気づき、人生を変更する勇敢かつ賢明な決断をしました。

 

最初に和田さんがやったことは自分の目標の明確化。

絵を描いたり、美術の作品を模写したり、紙の前で極度に集中していた子どもの頃を思い出しました。和田さんは芸術と美術館での仕事に興味を持っていましたが、研究者や学芸員になりたいとは思いませんでした。むしろ手を動かす仕事、独自の特殊技能を有した職人・修復師になりたいと強く願ったのです。

彼女は鉄道会社を退社し、修復師になるためにマドリードの文化財保存修復学校に入学しました。

卒業後、和田さんはソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía)で職務経験を積みました。そこで現代アーティストたちが作品にどのような修復を望んでいるか要望を直接聞いて仕事をすることができたそうです。

アーティストに対峙して修復師がより上手く描いたり、創造力を発揮したりすべきではないと、和田さんは言います。修復師はアーティストに忠実でなければなりませんし、作品にはアーティストの創造性と独自性だけを残さなければならないのです。

アーティストと修復師の役割には大きな違いがあり、修復師が最も期待されていることは倫理に基づく模写であり、創作ではありません。

その後ソフィア王妃芸術センターでの契約を終えた時国立プラド美術館の修復チームで働くための国家公務員試験のチャンスが訪れて、彼女は見事に合格し採用されました。

和田さんスペイン語を完璧に使いこなす語学力と専門的な研究もマスターした才能ある女性であることと、10年ぶりに国立プラド美術館の修復スタッフの募集があったという機会にも恵まれて、しえた奇跡だと思います。

  

修復師の仕事

和田美奈子さん スペイン国立プラド美術館の紙修復師 アトリエにて © 和田美奈子

 

国立プラド美術館の修復師たちの仕事の質は本当に優れております。修復の仕事はかなり勇気がないとできないものであり、世界中で素晴らしい日本人修復師が活躍していると和田さんが説明してくれました。

 

美術館のコンセプトと保存・修復の考え方はヨーロッパで生まれました。

20世紀の1970年代までは修復の概念が十分に確立していませんでした。

以前行われていたような「あたかもアーティストの筆致」であるかのような模写による復元は、70年代からの倫理的な論争を経て、現在では禁止されています。復元された領域とオリジナルの領域との違いがわからなくなる前に、今日最も重視されているのが予防保全だと和田さんが説明してくれました。

和田さんが言うには、プラドの紙作品において最も良い状態で保存されているアーティストの作品は161718世紀のものだそうです。なぜならばその時代の作品は素材が良く品質が高かったため、劣化が少なく、対照的に保存状態が最悪の作品は現代美術作品と19世紀の作品で、素材の質が損なわれているために修復するのがとても難しいそうです。

材料の選択に気を遣ったり、修復師にアドバイスを求めたりする現代アーティストはほとんどいないのだと心配していました。

たとえば紙は自然素材で構成されていれば長期にわたって良好な状態に保つことが可能ですが、しかし現代では通常、品質が悪化する危険性が高い工業プロセスで作られた紙を購入して使っていることが多く、そのため木材パルプ紙の寿命は非常に短く、30年に満たなくても紙の品質が失われて黄変し、作品が脆くなってしまうのだそうです。

17世紀と18世紀のスペインとイタリアの素描が現代のものよりも遥かに良い状態で保存されていることは興味深い事実です。

再び私は和田さんに現代アートを扱っているソフィア王妃芸術センターで働いていた頃について尋ねました。「すでに亡くなったアーティスト作品の修復と生きている人の作品に違いはありましたか?」と。「私たちは常に亡くなったアーティストの方が好きです」と彼女の反応の誠実さに思わず笑ってしまいました。

ソフィア王妃芸術センターでは作品の一部をビデオ撮影し、作品に対してどのような修復を望んでいるかをアーティストに尋ねており、この情報データは美術館の図書館に保存しているそうです。

 

 

修復を通じてアーティストに会う

スペイン国立プラド美術館 Sala 12, Las Meninas, Velázquez ©Museo Nacional del Prado

 

和田さんのような専門家などごく限られた人を除いては、ほとんどの人は芸術の巨匠たちのオリジナルの素描や版画を直接観ることができません。

国立プラド美術館の素晴らしい傑作は、疑いもなく巨匠ゴヤの紙の作品、素描や版画です。世界にはゴヤの素描が約1000あり、プラドにはその半分の約500点の作品が保管されております。

この数年、ゴヤの全素描作品を掲載した5巻からなるカタログ編纂のプロジェクトに和田さんも協力しています。

いくつかの作品は寄付・寄贈によるものであり、その中には保存状態が良くないものもあります。

理想的なカタログを出版するためには、すべての作品を修復する必要があります。和田さんは他の作家の作品と並行してゴヤの作品を数多くひっきりなしに修復しています。

和田さんは素描も重視しています。「多くの場合、アーティストはこれが作品になるとは思わないが、時々それらはアーティストのアイデアの単なる注釈であったり、アーティストのパーソナリティがよく見られたりするものです。たとえばゴヤは作品の中に描くことは無いが、練習やスケッチに時には漫画も描いています」と。

 数多くのゴヤ作品に取り組んだので、彼女はゴヤの筆致をマスターし、そこにゴヤの性格を垣間見ます。和田さんは、ゴヤが作品を描きかけのまま放置したり、すぐに飽きて捨てちゃう、気紛れで激情的な性格を持っていると感じています。

 ベラスケスについても尋ねると、彼女は「国立プラド美術館はベラスケスの素描を持っていません。ベラスケスは規格外の天才だったので、下絵を描くこと無しに直接絵を描き始めた関係で、スケッチなどもほとんど残っていないそうです」と答えてくれました。

 私にとってベラスケスは常に無限の謎です。

 

和田さんはスペインに上陸してから25年経過した今、体感的には10年くらいにしか感じなかったそうです。驚異的な集中力と倫理観で、これからも国立プラド美術館の紙のドクターとして活躍されると信じております。

 


スペイン国立プラド美術館

Calle de Ruiz de Alarcón, 23, 28014 マドリード、スペイン

 

サラマンカ大聖堂 広報部 Manzanoさんに写真を提供いただきました。

直前の記事

現代アートのフロンティア ~ダムタイプとキュレーターたち~ 【イチローズ・アート・バー】第24回

東京・ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局・陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。  国際的に評価された表現者集団 美術、映像、建築、デザイン、音楽、演劇、ダンスなど多分野にわたる制作者の集団、ダムタイ

続きを読む
新着情報一覧へ戻る