エッセイスト・岸本葉子 vs 「特別展 出雲と大和」 【スペシャリスト 鑑賞の流儀】

【スペシャリスト 鑑賞の流儀】は、さまざまな分野の第一線で活躍するスペシャリストが話題の美術展を訪れ、一味違った切り口で美術の魅力を語ります。
今回はエッセイストの岸本葉子さんに、東京国立博物館(東京・上野公園)で開催中の「特別展 出雲と大和」を鑑賞していただきました。
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岸本葉子(きしもと・ようこ)
エッセイスト。1961年、鎌倉市生まれ。東京大学教養学部卒業。暮らしや旅を題材にエッセイを数多く発表。俳句にも親しんでいる。著書に『NHK俳句 岸本葉子の「俳句の学び方」』(NHK出版)、『二人の親を見送って』(中公文庫)、『ひとり老後、賢く楽しむ』(文響社)、『「捨てなきゃ」と言いながら買っている』(双葉社)、『人生の夕凪 古民家再生ツアー』(双葉文庫)、 『50代の暮らしって、こんなふう。』(だいわ文庫)、『50代からの疲れをためない小さな習慣』(佼成出版)などがある。2月には『50代、足していいもの、引いていいもの』(中央公論新社)が刊行される。
公式サイト http://kishimotoyoko.jp/magazinetv
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日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」
2020年1月15日(水)~2020年2月26日(水)* 東京国立博物館(東京・上野公園) *2月27日からの臨時休館に伴い、3月8日まで開催の予定を2月26日に繰り上げ閉幕
我が国最古の正史『日本書紀』では、出雲大社(島根県)に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた神々や祭祀の世界を司り、天皇は大和の地(奈良県)において「顕」、現実世界、政治の世界を司るとされている。
『日本書紀』成立1300年を機に、「霊」の島根県と「顕」の奈良県に由来する国宝20件以上、重要文化財70件以上を含む文物を集め、古代日本の成立過程とその特質に迫る。会期中一部作品・場面の展示替えがある。
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覆された「幻の二大文化圏」説
昭和世代には、日本史で「弥生時代は北九州の銅剣・銅矛文化と近畿地方の銅鐸(どうたく)文化が二大文化圏を形成していた」と学んだ方が少なくないと思います。
ところが1985年(昭和60年)、まさに「教科書を書きかえる」大発見がありました。島根・斐川町(現出雲市)の荒神谷(こうじんだに)遺跡で、銅鐸と銅剣、銅矛(どうほこ)がセットで出土したのです。それまでの「青銅器二大文化圏」の定説を覆し、出雲が九州とも近畿とも交流をもつ要衝であり、神話の中だけの存在ではないことを明らかにしました。



その後、1996年(平成8年)には荒神谷遺跡からほど近い加茂岩倉(現雲南市)の農道工事現場からも銅鐸39点の銅鐸がまとまって見つかりました。

集中と分散の力学
出雲の銅鐸には近畿~四国の銅鐸と同じ鋳型からつくられたものが少なくないと言います。たとえば2015年(平成27年)に淡路島で見つかった銅鐸は荒神谷遺跡の銅鐸のひとつと同じ鋳型から作られたことが判明しました。荒神谷遺跡の銅鐸には、他にも京都、徳島と同型のものがあるそうです。また、加茂岩倉遺跡の銅鐸の内4個は、和歌山県の銅鐸と同じ鋳型から作られていました。
製造能力のある先進地域でまとめて作られ、王権に従う各地へ送られたのでしょうか。集中と分配の力学が潜んでいるように感じます。
考古学には、美術とは異なった、推理の楽しみがあるようですね。
目の楽しみ
古代から江戸時代までの考古遺物、美術品などを集めた中で、最も古いのがこの人面付土器です。

製造時の姿を再現した銅鐸の模造品は輝く色に驚きました。青銅器は元々黄金色、あるいは白銀色に輝いているのですが、時間がたつと酸化して緑青が生成され、緑色に変色してしまいます。会場にずらりと並ぶ青銅器を、本来の色を想像しながら見ると、古代の人々の驚きや畏れなどがより分かる気がします。

大和王権と国際交流
出雲の出土品をたっぷり見た後に、大和の展示物が並びます。大和の勢力は、古墳時代を通じて勢力を伸ばし、やがて王権が誕生します。大和地方は国際文化受容・交流の中心になりました。
鏡
天理市にある前方後円墳・黒塚古墳では、1997-98年の発掘調査で33面の三角縁神獣鏡が出土しました。『魏志』倭人伝にある魏の皇帝が卑弥呼に対して下賜した「銅鏡百枚」ではないか、と大きな注目を集めました。実際に卑弥呼に贈られたかどうかは定かではありません。「舶載」つまり輸入されたものと考えられていますが、国内産とする説もあり、いまも謎を秘めた鏡です。全33点が出品されています。日の光を反射したり、王の姿を映し出したりする鏡は神秘的で、権威の象徴と思われたことでしょう。

ハニワ
奈良県桜井市にある前方後円墳メスリ山古墳の「円筒埴輪」は高さ約2.4メートルと日本最大のハニワなのだそうです。兵馬俑のようなスケール感を感じました。一方、厚さは1.6から1.8センチとかなり薄く、高度な技術が伝わっていたことがうかがわれます。ハニワというと腕人形のようなかわいいイメージが強かったのですが、大きさも表現も多様で、先進的技術が反映されたものだったのです。既成概念が覆されました。

刀
「七支刀(しちしとう)」は、埋められることもなく、石上神宮で継承されてきたとのこと。これほど古い伝世品は非常に珍しいそうです。

文字が彫られています。「百済の王が倭へ同盟関係を示すために」という意味に解釈されています。「日本書紀」に記された「七枝刀(ななつさやのたち)」であろうとする説も有力です。南下する高句麗に圧迫されて緊迫する朝鮮半島の情勢や、日本に援軍を求める百済の王の心情もうかがえる、東アジア史の貴重な史料なのですね。
馬具
島根で荒神谷遺跡の発掘が行われた1985年は、もうひとつ考古学上の大発見がありました。奈良・斑鳩の円墳・藤ノ木古墳から巨大な横穴式石室と豪華な馬具が発見されたのです。「金銅製鞍(くら)金具後輪(しずわ)」には、象や鬼神などが浮き彫り・透かし彫りで表されたり、ガラスや金細工の装飾が施されたりするなど、6世紀のアジア各地の多彩な意匠が反映されています。それまで中国大陸との関係の「空白期」だったこの時代にも文化交流があったことを伝える貴重な発見でした。

鉄の盾

「鉄盾」については、「日本書紀」に書かれた「高麗国(高句麗)から献じられた鉄盾」という舶載説と国産説があるそうです。
仏教伝来
大和地方は「顕」すなわち日本の政治の中心として勢力を確立し国際交流を進めます。仏教も大和の中央政権が普及を推し進めました。
「仏と政(まつりごと)」と名付けられたコーナーに進むと、考古学的な遺物から仏像へ、会場の様相が突然がらりと変わります。一瞬戸惑うかもしれません。仏教が入ってくることによって、精神的にも政治的にも時代の象徴となる公的な建造物が、古墳から寺に変わりました。

仏教文化は、初期には朝鮮経由で伝えられましたが、やがて中国から直接入ってきます。これを頭に入れておくと、この時期の仏像の見え方も変わってくるかもしれませんね。
7世紀には仏僧・玄奘(三蔵法師)がインドを訪れ、仏典や仏像を唐に持ち帰りました。その結果、中国で一種のインドブームが起こり、仏像にもその影響が現れます。

「浮彫伝薬師三尊像」に見られる、坐った姿の如来像の露わになった張りのある肩、細く絞られた腰、体に張り付くような薄い衣は、当時の唐におけるインドブームを反映したもの。この様式は遣唐使によって日本にも伝えられ、飛鳥時代には、類似した仏像が多く造られたそうです。


仏教はやがて、鎮護国家や現世利益という役割を負うようになります。守護神としての四天王像、衆生に現世での果報をもたらすとされる十一面観音菩薩像などが多く作られるようになりました。

古代以降の出雲
大和勢力が中央政権となると、「霊」の国、出雲は山陰の地方勢力という位置づけになりますが、文化的、精神的な存在感には特別なものがあったようです。魔除けなどの力を持つとされる勾玉は、出雲に製作の特権が与えられたそうです。
出雲大社の社殿と文化は、遷宮・造営を重ねながら、連綿と引き継がれ、鎌倉時代以降、武家政権が続く世になっても、時の権力者らがさまざまな奉納物を献納しています。

民間企業が作成した古代出雲大社復元図(推定図)をもとに、松江工業高校の生徒さんが製作したという10分の1模型は、圧倒的な迫力です。高さは48メートルと想定されています。現在の本殿は高さ約24メートルといいますから、その倍。当時の人々にとっては異次元の建造物だったことでしょう。
傍らに鎌倉時代の高層本殿の柱基部の実物が展示されています。大木を3本縄で縛って1本の柱としたものです。中央に位置する「心御柱(しんのみはしら)」と「宇津柱(うづばしら)」が発掘された時の約7メートルという間隔で展示され、そのスケールが実感として伝わってきます。

本殿の謎
出雲大社がいつ創建されたか、実は定説はないそうです。「日本書紀」では、大和への「国譲り」の条件として壮大な社殿が造営されたと記されていますが、その伝承を直接跡づけるものは見つかっていません。ある時期に、さして大きくはなかった社殿を立派なものに修造したのかもしれません。その時期については、巨大建築の技術がもたらされ、中央集権的な律令国家の建設が進む7世紀中ごろとする説があるそうです。遅くとも8世紀初めに「出雲国風土記」が編纂された時期には、巨大な社殿が現在地にあったことは確かとのこと。
いずれにしても、「霊」をつかさどる出雲が特別な存在だったから実現した高層本殿だったと言えるでしょう。
豊かな奉納物
また、鎧、調度品など、後の時代の奉納物の豊かさも印象的です。

2月11日からは鎌倉時代の手箱、「国宝 秋野鹿蒔絵手箱」が登場するそうです。黒漆塗に研出蒔絵(とぎだしまきえ)で秋の景物を表した名品とのこと。楽しみですね。


時代の流れに沿って出雲と大和の歩みを振り返ったのですが、展示会場では出雲大社の復元模型や、鎌倉時代以降の奉納品、史料が、勾玉など古代の遺物とともに最初に展示されています。「日本書紀」で「幽」すなわち精神的な世界をつかさどるとされた出雲の、物語の壮大さ、素朴な崇高さをストレートに感じさせてくれる、効果的な導入でした。
続いて出雲、大和の古墳時代の文化に触れます。動物ハニワも見逃せません。

その後、がらりと雰囲気が変わって仏教渡来後の展示へと進みました。仏像は一体一体についひきこまれますね。完成度の高い奈良の仏像に対して、出雲の仏像には素朴な魅力を感じました。

仏像にすっかり見とれてしまいましたが、ふと「出雲の神様はどこへ行ったの?」と疑問が。そう思っていたら、最後に「牛頭天王坐像(ごずてんのうざぞう)」が目に入りました。神話で親しんでいる「暴れん坊」のスサノオを思わせる顔です。薬師如来の化身ともいう牛頭天王がスサノオの姿をして現れた、ということでしょうか。神仏習合、つまり仏や菩薩が神道の神の姿をして現れたとする考え方が日本に根付いていたのですね。出雲の神さまに最後に会えたような気がして、ほっとしました。

視覚的に楽しめるだけでなく、出雲と大和の関係や、律令国家形成、日本と中国・朝鮮とのつながりなど、歴史や地理を意識して見ると深みが増す、奥行きのある展覧会でした。


(聞き手 読売新聞事業局専門委員 陶山伊知郎)
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日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」
2020年1月15日(水)~3月8日(日) 東京国立博物館(東京・上野公園)