“引き”の視線で見つめた「日本建築史」 【きよみのつぶやき】第24回(香川県立ミュージアム「日本建築の自画像」展)

ベテランアート記者・高野清見が、美術にまつわることをさまざまな切り口でつぶやくコラムです。

2019年9月21日(土)~12月15日(日)
「日本建築の自画像 探求者たちの もの語り」 香川県立ミュージアム(高松市)

増え続ける建築の展覧会

ここ20年で増えた展覧会の分野の一つは、まちがいなく建築展だろう。かつては日本建築学会や大学資料館、建築・デザインの企業系ギャラリーが、建築家や構造技術などをテーマに展覧会を開いていた。今日では美術館でも広く一般の観客を対象にした建築展を企画するようになっている。

その中でも森美術館(東京・六本木)は2004年に「アーキラボ:建築・都市・アートの新たな実験展 1950-2005」、2007年に「ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡」、2011年に「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」、2018年には「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」と国内外の建築をテーマに企画展を相次いで開き、建築や美術の領域を超える関心を集めてきた。

特に「建築の日本展」は野心的な試みで、世界的に高い評価を集める隈研吾さん、安藤忠雄さんなど現代の建築家たちが、意識するとしないとにかかわらず日本の古建築の組物や屋根、空間構成などの手法を「遺伝子」のように受け継いでいるとし、「伝統と現代の見えざる関係」を通史的に考察していた。そこでは2020東京五輪・オリンピックに向け、「日本という国の新たなアイデンティティの構築に貢献することができれば幸甚です」(南條史生館長の「ごあいさつ」)という、もう一つの意図も示されていた。会場には大きな復元模型がいくつも出現し、⼊館者数は146⽇の会期で53万8977人に達した(数字は六本⽊ヒルズ展望台「東京シティビュー」との共通チケットに基づく)。

 

香川県立ミュージアム(高松市)

“引き”で眺める「日本建築史」

それから2年後、高松市の香川県立ミュージアムで「日本建築の自画像 探求者たちの もの語り」展が開かれている。
当初は森美術館の「建築の日本展」と関連した内容にする考えもあったようだが、結局は異なる立場から「日本的なる建築とは何か」という問いに向き合う建築展となった。どちらも建築史家の藤森照信・東大名誉教授が監修を務め、企画協力としてお互いの美術館の名前を記しているが、展覧会の方向性は対照的。香川県立ミュージアムの会場に掲げられた「開催趣旨」にそれが明快に述べられていたので、後半部分を書き写したい。

《建築における「日本的なもの」とされるものは、実に多様である。少なくとも、西洋との関係で「日本的なもの」が強く意識され、そのあり方が問われ続けてきたこの約150年間には、様々なイメージが示され、実践されてきた。また、そのような自覚的な問いを経なくても、日々の暮らしの積み重ねの中で紡ぎ出された具体的で個性的な姿がある。これら全てを「日本建築」という言葉でくくろうとすればするほど、その内容は曖昧になる。
おそらく「日本的なるもの」に正解はないであろう。しかし、「日本的なるもの」は、必ずそう主張できるだけの根拠を過去にもっている、あるいはもとうとする。それらをできるだけ、一歩引いたスタンスで複線的に眺めるのが、この展覧会の趣旨である。》

注目したのは、「日々の暮らしの積み重ねの中で紡ぎ出された具体的で個性的な姿」にも十分な関心を払い、「日本的なるもの」をある方向に収斂(しゅうれん)させることより、むしろ「一歩引いたスタンスで複線的に眺める」姿勢に力点が置かれていることだ。

その言葉通り、会場には約600件の資料が集められ、「中央」「地方」の視点を行き来しながら、森美術館の展覧会よりさらに低い視線で古代遺跡や地方の風土、習俗に分け入っていく。

「第一の自画像:アイデンティティを求めて 生み出された歴史」と題する章では、辰野金吾(1854~1919年)や伊東忠太(1867~1954年)など日本の近代建築をリードした巨人たちを貴重な資料で紹介している。しかし、それと同じくらいの熱心さで、明治政府が推し進めた近代化によって全国に増えていった洋風建築が、前近代から続く大工集団によって建てられた事実を伝える。たとえば瀬戸内では「塩飽(しわく)大工」と呼ぶ集団が存在し、和風建築の技術を生かしながら洋風、擬洋風の校舎や郵便局、寺などを作り上げていった。

1878年(明治11年)、岡山県和気町に建てられた法泉寺の本堂。瀬戸内の塩飽大工の手によるもので、西洋風の列柱が採用された一方、柱の上部(柱頭)には和風建築の斗(ます)が使われている

 

その事情は、急速な欧化に反発して国粋主義的思潮が台頭した明治中期以降、和風建築が再評価された時も同じ。1893年(明治26年)のシカゴ万博で平等院鳳凰堂をモデルにした日本パビリオン「鳳凰殿(ほうおうでん)」が話題を集めた前後、国内でも似たスタイルが流行する。今回の展覧会に伴う調査で見つかった香川県博物館(1899年)の図面などが伝えるのは、やはり建設を支えていた地元大工たちの存在だ。

平等院鳳凰堂と似た左右対称の立面を持つ建築
㊧山内尋常小学校の模型と図面 1892年(明治25年)
㊨高松市の栗林公園に建てられた香川県博物館の写真と図面 1899年(明治32年)
香川県博物館の図面は新たに確認されたもの。裏面には施工した塩飽大工の名前が記されている

一筋縄ではいかない「日本的なるもの」

続く「第二の自画像:建築家たちの日本 伝統からの創造」では、前川國男、丹下健三などの建築家を通して戦前の「帝冠様式」から戦後のモダニズム建築、ポストモダン建築、さらに現代の建築に現れた日本的なデザインを紹介している。

伝統建築の柱と梁をコンクリートで表現した丹下の香川県庁舎(1958年)、コンクリート造の内側に木組や和風の家具を組み込んだ大江宏の香川県文化会館(1965年)、石井和紘が西本願寺(京都)の飛雲閣をはじめとする古建築のモチーフを取り入れたポスト・モダニズム建築の直島町役場(1982年)など、香川県内で実際に訪れることができる有名建築も多い。ここでは模型と写真、資料による展示が中心だが、大江宏が1940年(昭和15年)に小さいながらも初めて設計した「建築」だったという中宮寺(奈良県)の仏像用の厨子、和風のシャンデリアといった珍しい展示物にも出会うことができた。

大江宏のコーナー。左端が中宮寺の厨子、右上は香川県文化会館のためにデザインした和風のシャンデリア
丹下健三が設計した香川県庁舎(東館)。2019年12月に竣工予定の耐震改修工事が大詰めを迎えた10月下旬に撮影。手前は前庭に置かれていた地元産の巨石

 

この展覧会がユニークなのは、「日本的なるもの」とは何かという問いに対し、分かりやすい解答や仮説を用意しなかった点にある。むしろ展示物の多様さによって見る人の先入観を排し、日本建築の系譜をたどることが決して一筋縄ではいかないことを示唆しているようだ。

たとえば「天地根元宮造」(てんちこんげんみやづくり)という建築様式は、江戸時代に日本建築の原型として想定されたもの。伊勢神宮の屋根を地面に置いたような三角屋根で、戦前から古代遺跡の発掘調査で住居跡が出土するようになっても根強いイメージとして残り、1930~40年代に満州(現中国東北部)で開拓団の住居や、戦地における軍の「三角兵舎」として普及したという。さらに敗戦後は復興住宅として焼け跡に建てられ、プレハブ住宅の先駆けともなった。想像上の「日本的なるもの」が流布し、戦後まで受け継がれていった事実は、「正史」に対する傍流からのささやかな抵抗のように見えた。

天地根元宮造の想像図
㊤伊東忠太 『稿本 明治日本帝国美術略史』より 1901年(明治34年)
㊦関根貞 『日本の建築と芸術 上』より 1927年(昭和2年)

「伝統的な民家は今も生きている」

「第三の自画像:つむぎ出された日本 地域、風土、コミュニティ」と題する展示も、東京から瀬戸内、沖縄など、さまざまな土地や風土における建築や地域コミュニティーを紹介している。

その中でも、過去のものと見なされがちな伝統的民家を、今なお現役で生きている建築として扱っているのが目を引いた。四国や山口県では「四方蓋造(しほうぶたづくり)」と言って、草葺きの屋根に瓦葺きの庇(ひさし)を取り付けた独特の民家が建てられ、今でも草葺きの上にトタン板などを載せて使われている。展示解説では「日本の伝統的な民家は、東京など大都市を別にして、日本各地でいまだに現役である。『決して滅びゆくものの象徴』ではない」と力を込めて書かれている。

四方蓋造(しほうぶたづくり)の民家。今も瀬戸内の各地で目にすることができる

 

建築は、風土や使う人の事情に応じて柔軟に変化してきた。四国山地の高知県香美市にある集落では、台風で社殿が壊れ、氏子も1人まで減ってしまった神社を再建するに当たり、拝殿を参拝しやすい平地に移し、本殿はそのまま元の場所に建てる「分割造替」を行った。建築家の渡辺菊眞・高知工科大学准教授の提案により、鋼管や板で簡単に組み立てられる建物にしたという。伝統や権威に縛られない発想が、過疎地に新たな建築スタイルを生み出したと言えるだろう。

渡辺菊眞・高知工科大学准教授が設計した「金峯神社」の拝殿=香川県立ミュージアムのロビーで

 

今回の「日本建築の自画像」展を見て、2017年に森美術館で開かれた「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」展でおぼえた違和感を思い出した。「古代からの豊かな伝統を礎とした日本の現代建築」という構図はわかりやすい分、周辺諸国からの文化受容や、近代以降の西欧との複雑で屈折した関係、そして日本各地の地域性など、多元的であるはずの要素が見過ごされかねないと感じた。

もちろん、展示説明や図録に収録された論文にはそうした要素への目配りが見られたが、スタイリッシュな展示風景に接した観客は、日本文化の独自性(オリジナリティー)や正統性を強く印象づけられたことだろう。「あれは危険な展示だと思った」と感想を漏らす建築史家もいたが、私も「日本ってすごい」「日本人であることを誇りに思う」という感想で終わってしまう人がいないかと心配になった。

香川県立ミュージアムでは、2013年に丹下健三生誕100周年記念の「丹下健三 伝統と創造 瀬戸内から世界へ」展を開いている。少年期を愛媛県今治市で過ごした丹下が、瀬戸内で広島平和記念資料館(広島市)、香川県庁舎などを次々に設計した1950年代に注目し、地域の視点から丹下建築を見直した試みとして注目された。
また、2019年1~3月には、香川県職員として丹下健三やイサム・ノグチと仕事を共にした山本忠司を紹介する「建築家・山本忠司~風土に根ざし、地域を育む建築を求めて~」展を、京都工芸繊維大学の美術工芸資料館と連携して開催している。

実を言えば、香川県立ミュージアムの建築展は、「建築」ではなく「考古学」を専門とする学芸員が中心になって作られている。建築史家の松隈洋・京都工芸繊維大学教授は10月20日に開かれたシンポジウムで「建築の世界だけで見ている人が企画した展覧会と、外から見ている人が企画したものとの圧倒的な違い。考古学らしく、土の中から空を見ている人の視点であり、建築界に対する問いかけを含んだ展覧会になっている」と感想を述べた。

また、秋元雄史・東京芸術大学大学美術館館長も、前に館長を務めた金沢21世紀美術館でポンピドゥー・センター国立近代美術館(パリ)のフレデリック・ミゲルー副館長の企画による「ジャパン・アーキテクツ 1945-2010」展(2014~15年)を開いた経験などを踏まえ、「何が日本的な建築かと考えると、単純な造形史や様式史だけでは言えない」と通史的に見せる難しさを指摘。それに対して「この展覧会は定義されていることをもう一度引っ張り出して並列化したりしている。非常にこんがらがって見えてくるところが逆に面白い」と評した。

建築史はともすると、大都市の東京・大阪を中心にした視点や、有名建築家たちが残した作品に沿って語られがちだ。地方の公立美術館が、建築の専門家たちよりも一歩引いた視点から建築史を見つめてきたことは貴重であり、その活動はもっと注目されていいと私は思う。

(読売新聞東京本社編集局文化部 編集委員 高野清見)

10月20日に開かれたシンポジウム 「瀬戸内建築の魅力を語る」