恐るべき女性・ドメニカが遺したコレクション【パリ発!展覧会プロデューサー・今津京子のアート・サイド・ストーリー】第8回

「オルセー美術館展」(2014年)、「モネ展」(2015年)、「プラド美術館展」(2018年)などこれまでに日本国内で数十の大型展覧会を手がけたパリ在住の展覧会プロデューサー、今津京子氏によるコラムです。
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『ドメニカ —美術界の悪魔のような女』 ――これはあるドキュメンタリーフィルムにつけられたタイトルだ。何とも物騒な題名だが、実際、彼女をめぐる数々の疑惑とスキャンダルは、1950年代の終わり頃、頻繁にフランスの週刊誌に取り上げられていたという。今回は、横浜美術館で開催中の「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展にまつわる、ややスキャンダラスな一人の女性の物語だ。
ジュリエット・ラカーズ(1889-1977)はフランス南部の田舎町で生まれた。1919年にパリに出て、モンパルナスのナイトクラブでクローク係をしている時に、最初の夫となる新進の画商と知り合う。その名前はポール・ギヨーム。「ドメニカ」とはポール・ギヨームがつけた通称だ。

1928-29年頃、油彩・カンヴァス、92.0×73.0cm
Photo 🄫RMN-Grand Palais (musée de l’Orangerie) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF
ポール・ギヨーム(1891-1934)は自動車工として働いていたが、タイヤの原料となるゴムの積荷と一緒に運ばれてきたアフリカ彫刻に関心を持ち、やがて画廊を始める。当時の最先端の作家や画家たち、アポリネール、ピカソやモディリアーニがちょうどアフリカ彫刻に関心を持ち始め、ギヨームは彼らと親交を深める。さらにアメリカのアルバート・バーンズ博士のような大コレクターを顧客にする。1920年にドメニカと結婚した当初は2部屋の、階段もないアパルトマンに住んでいたのに、それからの数年間で何回かの引越しを繰り返し、1930年には超高級住宅街フォッシュ通りの約650㎡のアパルトマンへ。多くの作品を飾り、数人の使用人を抱える生活をおくるようになった。上流階級の人々や有名人を集めてパーティーを派手に開いたりもしている。約10年という短期間にこれだけの発展を遂げるとは、まさに時代の寵児という表現が当てはまる。

1919年、油彩・カンヴァス、81.0 x 64.0cm
Photo ©RMN-Grand Palais (musée de l’Orangerie) / Franck Raux / distributed by AMF
ポール・ギヨームはしかしながら、42歳の若さで他界する。原因は急性虫垂炎による腹膜炎だが、ドメニカが病院に連れて行った時には手遅れだったと言われている。これが、彼女をめぐる第一の疑惑だ。この時、彼女にはすでに愛人がいた。後に第二の夫となるジャン・ヴァルテルという有名な建築家なのだが、当時、ギヨーム夫妻はこのヴァルテルが建てた立派なアパルトマンに住んでいて、この三人の関係は良好だったという。そしてギヨームが亡くなった直後、彼女はしばらく世間から姿を消して、「子供を産んだ」と言って赤ん坊とともに戻ってきた。ポール・ギヨームが残した膨大なコレクションが国家に寄付されることを恐れ、確実に自分のものにするために血の繋がった相続人を必要と思ったらしい。彼女はお腹にクッションを入れて妊娠を偽装し、その間に、上流階級を相手にした子供の斡旋所で子供を「買った」のだった。子供の名前をジャン=ピエールという。
二番目の夫、ジャン・ヴァルテルはモロッコで鉛の発掘事業を起こし、大成功を収めた。ドメニカは最初の夫が残したコレクションの中から、自分の趣味に合わないピカソなどキュビスムの作品を売り、ルノワール、セザンヌの作品を買って、少しずつコレクションの形を変えていった。1950年代、ドメニカにはまた愛人がいた。医者でラクール博士という。1957年6月、ジャン・ヴァルテルは田舎のレストランで昼食を終え外に出たところで、自動車事故に遭う。この時、周囲が救急車を呼んで病院に運ぶことを勧めたのに、ドメニカはラクール博士と自分たちの車で連れて行くと主張する。病院に着いた時点でヴァルテルは亡くなっていた。これが第二の疑惑だ。その後、モロッコでの事業はドメニカの実の兄弟が指揮をとった。
ところで、養子となったジャン=ピエールはどうなったのだろう。ポール・ギヨームの全財産を相続したドメニカよりも、彼が親身に感じたのは第二の夫、ジャン・ヴァルテルだった。一緒に旅行し、またあらゆる意味で教育し、面倒を見てくれたのは彼だったと語っている。1958年のある日、ジャン=ピエールは駅で見知らぬ男に声をかけられた。「私はレイヨン少佐という者だが、実は、ラクール博士(ドメニカの愛人)に、君を消すように依頼された」と告白されたという。このあと二転三転してラクール博士は殺人未遂の容疑で逮捕され、またドメニカの兄弟が別の陰謀を企むなど(コールガールを使ってハニートラップを仕掛け、ジャン=ピエールが女性斡旋業をしていると彼女に訴えさせた)、ドラマのような展開で58年から59年にかけて世間を賑わせる。疑惑が疑惑を呼び、首謀者は誰なのか(もちろん、誰もがドメニカを疑う)、過去の疑惑も取り上げられてスキャンダルに発展するのだ。結局、ドメニカにはジャン=ピエールとの養子縁組を解消したいというのが根本にあったようで、くだんのドキュメンタリーには、壮年になったジャン=ピエールが出ていて、淡々と、しかし生々しく経緯を語っている。
独裁的、権威的、地位と財産にこだわり、しかしながら一流の男性(それも愛人との三角関係を認める寛容な男性)を次々と虜にする魅力があったというドメニカ。アンドレ・マルロー文化大臣と交渉し、彼女の死後、コレクションがオランジュリー美術館に収蔵されることが決定する。この決定と前後して収監されていたラクール博士も兄弟も釈放され、担当検察官は出世したので、何らかの取引があったのではとの噂もあったが証拠は残っていない。
1966年、その決定を記念してオランジュリー美術館で特別展が開催された。その時、学芸員として展覧会に携わったジュヌヴィエーヴ・ラカンブル氏(その後オルセー美術館学芸員、モロー美術館館長などを歴任し、現フランス文化財名誉主席学芸員)は、「私のような若い学芸員を使用人のように考えていたと思う」と、ドメニカを「恐るべき女性(ファム・テリーブル)」だったと表現する。世間は数年前のスキャンダルを覚えていたのか、カタログが飛ぶように売れたそうだ。
ドメニカはコレクションに「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨームコレクション」と、二人の夫の名を冠した。ポール・ギヨームが収集したコレクションが基礎となっていることは間違いないが、ヴァルテルはコレクションの形成に関わっていない。しかし、彼女自身の人生が、このコレクションに映し出されていると感じていたからこそのこだわりだったのではないだろうか。全部で約150点あまりの小さな作品群だが、ルノワールやルソー、セザンヌなど明るい色調の具象作品が多く、その趣味は「悪魔のような」という形容詞からは程遠い。
現在、そのコレクションのおおよそ半分に当たる69点が横浜美術館で展示されている。会場入口にはポール・ギヨームと並んで、アンドレ・ドランの描いたドメニカの肖像画が展示されている。ポール・ギヨームの絶頂期、40歳の頃の彼女の姿だが、幸福感というよりは無表情でどこかクールな眼差しだ。画家ドランは、彼女の中に潜む本性と、その後迎えるドラマチックな人生を予見していたのかのようだ。
(展覧会プロデューサー 今津京子)
主要参考資料 :
“Domenica ou la Diabolique de l’art “(documentaire), Yvon Gérault et Jérémie Cuvillier, 2010
オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち
会期:開催中~2020年1月13日(月・祝)まで
会場:横浜美術館