作家・大岡玲 ×「ハプスブルク展」 【スペシャリスト 鑑賞の流儀】

「スペシャリスト 鑑賞の流儀」は、さまざまな分野の第一線で活躍するスペシャリストが話題の美術展を訪れ、一味違った切り口で美術の魅力を語ります。

作家の大岡玲さんに、国立西洋美術館(東京・上野公園)の日本・オーストリア友好150周年記念「ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史」を鑑賞していただきました。

大岡玲(おおおか・あきら)

 

作家。東京経済大学教授。1958年、東京生まれ。東京外国語大学修士課程修了。1990年、「表層生活」で第102回芥川賞。他の作品に「ブラック・マジック」「ヒ・ノ・マ・ル」「黄昏のストーム・シーディング」(第2回三島由紀夫賞)など。2019年1月に刊行された『開高健短篇選』(岩波文庫)の編者を務め、巻末の解説も担当した。父は詩人の故・大岡信さん。

「日本・オーストリア友好150周年記念
ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史」
2019年10月19日(土)~ 2020年1月26日(日) 国立西洋美術館(東京・上野公園)

 

ハプスブルク家は13世紀後半、現在のスイス北東部~西南ドイツからオーストリアに進出して勢力を広げ、15世紀以降は神聖ローマ皇帝の帝位も独占したヨーロッパ屈指の一族。16世紀にオーストリア、スペインの2系統に分かれ、多くの国々を支配下に収めた。ナポレオンの勢力拡大により、1806年にフランツ2世が帝位を辞退したことによる神聖ローマ帝国の解体後は、オーストリア帝国(1867年からはオーストリア=ハンガリー二重帝国)を統治。第1次大戦後の1918年に解体したが、それまでの間、ヨーロッパ各地の芸術作品を集めた屈指の美術コレクションを築き上げ、その中核は1891年に開館したウィーン美術史美術館の礎となった。今回の展覧会では同館の所蔵品を中心に、各時代・地域の特色を映した絵画、版画、工芸品、武具など100点を紹介。

いきなりピカピカの甲冑がお出迎え

展覧会の冒頭には、ハプスブルク家の領土を広げた「中興の祖」であり、美術コレクションの礎も築いた神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(1459~1519年)の肖像画が掲げられています。しかしそれに続く展示室で、いきなり甲冑(かっちゅう)が並んでいたのには少々驚きました。

右端はヴィルヘルム・フォン・ヴォルムス(父)が製作した「ヴュルテンベルク公ウルリッヒの実戦および槍試合用溝付き甲冑」 ニュルンベルク、1520-30年頃 鉄、皮革 ウィーン美術史美術館

 

精巧な甲冑に見入る大岡玲さん

 

マクシミリアン1世は熱心な甲冑コレクターで、ロレンツ・ヘルムシュミットという甲冑師を宮廷付きとして抱え、いくつも製作させていたそうです。装飾を凝らし、当時流行のファッションも取り入れた甲冑は、まさに芸術品です。武具としての機能性だけでなく、そうした「遊び」が感じられるところに華やかな宮廷生活が浮かび上がってくる気がします。

「ヴュルテンベルク公ウルリッヒ(1487~1550年)の実戦および槍(やり)試合用溝付き甲冑」は、衣服のひだを溝で表現した装飾や、極端に細いウエストから、柳腰の女性が着用した姿を想像させます。実際のところ、当時の男性ファッションで細いウエストがはやっていたそうですが、もしかするとこの甲冑を着た人物を宴席に登場させ、仮面付きの兜を脱いだら中から若い女性が現れた──などという趣向を楽しんだのかもしれませんね。

甲冑だけでなく、展示のところどころで「シャーベット用センターピース」や肖像入りの指輪のように、とんでもなく精巧な食器や工芸品が混じるのも王室のコレクションらしいと感じます。大実椰子(おおみやし)やほら貝の水差し、「角杯(グリフィンの鉤爪)」といった造形には、どこかおかしみさえ覚えます。動物の角を想像上の生き物であるグリフィン(上半身はワシ、下半身はライオン)の爪だと大まじめに信じていたわけですから。

左端は作者不詳「大実椰子の水差し」 南ドイツ(アウクスブルク?)、16世紀第4四半世紀 大実椰子の実、鍍金された銀の台 ウィーン美術史美術館
タペストリーはヨーロッパの王室や特権階級に人気のあった調度品。縦横約4mもの大きさがある
ラファエロ・サンツィオ(カルトン)、ヤーコプ・フーベルス(父)の工房(織成) 連作〈聖ペテロと聖パウロの生涯〉より ㊨《アテネにおける聖パウロの説教》 ㊧《アナニアの死》 ブリュッセル、1600年頃 羊毛、絹 ウィーン美術史美術館

芸術家のパトロン? それともコレクター?

ヨーロッパにおけるハプスブルク家の勢力は、13世紀頃から20世紀初頭まで約700年間にわたって続き、時代的にも地域的にも実に幅広い。展覧会で扱うのはかなり難しいと思っていただけに、どんな切り口でキュレーションしているのか興味がありました。
特に期待したのは、ハプスブルク家のパトロネージュ(芸術家への支援)のような姿勢がどのあたりに読み取れるのかという点です。
ハプスブルク家が勢力を拡大する前にヨーロッパでパトロン的な地位を占めていたのは、イタリアのメディチ家でした。フィレンツェが都市国家として勢力を拡大していく過程で、その文化圏に属する芸術家をバックアップし、作品をコレクションしていった。そこには君主と芸術家との間に、嗜好を同じくする同志としての一体感が濃厚に感じられます。コジモ1世をはじめ、メディチ家の隆盛を形作った君主たちは、芸術文化が国家の根幹に関わってくるものであることを非常に強く意識していました。

それに対してハプスブルク家の君主たちは、この展覧会を見る限りにおいて、どちらかと言えば「コレクター」であって「パトロン」ではなかったという印象を持ちました。
たとえばベラスケス(1635~44年頃)はスペイン・ハプスブルク家の宮廷画家でしたが、“王室お抱えの画家”というイメージが先に立ち、メディチ家のように君主と画家との同志的な一体感のような関係性はあまり感じられません。

そもそも古代ローマ帝国の復活を意味する「神聖ローマ帝国」という概念は、砂上の楼閣のように絵空事っぽいものでした。ルイ王朝やブルボン王朝がそれなりに統一的な歴史を刻んでいた感があるのに対し、ハプスブルク家は地方からふわっと出てきて、いつの間にかヨーロッパのほとんどの王家の根幹を占めてしまった。そうした統一感のなさが、美術コレクションの形成史にも投影されているように思いました。

フランス・ライクス「オーストリア大公フェルディナント・カールの肖像」
1648年頃 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館

 

コレクションの最終着地点は「美術館」

ハプスブルク家が勢力を伸ばした地域で収集された美術品は、やがて中央に回収されます。

たとえばティロルを拠点とするハプスブルク家の傍系に属し、メディチ家出身の妻とともに特に16~17世紀イタリアのフィレンツェ派の絵画を熱心に集めたというオーストリア大公フェルディナント・カールは、30代の若さで亡くなります。後を継いだ弟もやはり30代で亡くなると、ティロルは神聖ローマ皇帝レオポルド1世(1640~1705年)の直轄地となり、フェルディナント・カールの美術コレクションもウィーンに運ばれたそうです。

「東方三博士の礼拝」 1663年以前 油彩/銅板 ウィーン美術史美術館
フランドル地方で活躍したブリューゲル一族の一人、ヤン・ブリューゲル(父)の作品に基づく模写。オーストリア大公フェルディナント・カールの収集品とみられている

 

17世紀には、ハプスブルク家の一大コレクターであるオーストリア大公レオポルド・ヴィルヘルム(1614~62年)がネーデルラント総督としてブリュッセルに赴任中、1400点もの絵画を収集しました。イギリスのピューリタン革命(1640~60年)による混乱で王侯貴族のコレクションがブリュッセルなどで売りに出されると、それらも購入。任期を終えた時には大公のコレクションもウィーンに運ばれ、今日のウィーン美術史美術館の絵画館における中核を成しているそうです。

そして18世紀になると、コレクションを展示するギャラリーが設けられ、一般大衆への公開も始まります。神聖ローマ皇帝カール6世(1685~1740年)は各地からウィーンに帝室コレクションを集め、「帝室画廊」に展示しましたが、その時は装飾的な効果を重視し、絵のサイズや流派、製作年代に関係なく、左右対称に並べられたといいます。
「やはりそうだったのだろうな」と思いました。世のコレクターたちが自分の好みで集めたものを装飾的に展示しようと考えるのと似ているからです。この点からも、ハプスブルク家の君主たちの多くが美術史的、文化史的に一貫した視座を持って美術品を収集していたわけではないことが分かる気がします。

ハプスブルク家の長い歴史の中で築き上げられた巨大なコレクションも、18~19世紀に徐々に帝国の勢威が傾く中、今日のウィーン美術史美術館へと受け継がれていきます。最終的な着地点として美術館という場が構想され、それが近代における美術館の発生につながった点も興味深く思いました。

ヴェロネーゼ「ホロフェルネスの首を持つユディト」 1580年頃 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館

有名画家たちの意外な作品

今回の展覧会では、ハプスブルク家の歴史や世界史的な背景をいったん離れて見ると、有名な画家たちの意外な作品に出会えるという楽しみがあります。
スペイン王室の宮廷画家ベラスケスが晩年に描いた有名な「青いドレスの王女マルガリータ・テレサ」は、さすがに見ごたえがありました。その隣にはベラスケスの娘婿になった画家の手になるとみられている模写作品が並んでいますが、見比べてみると技量の差は明らかで、改めて本家のすごさを感じます。

ディエゴ・ベラスケス「青いドレスの王女マルガリータ・テレサ」
1659年 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館
「彼女も若くして亡くなってしまう王女でしたね」と大岡さん

 

王女マルガリータ・テレサの肖像画とともに、「スペイン国王フェリペ4世(1605-1665)の肖像」「スペイン王妃イサベル(1602-1644)の肖像」(いずれも1631/32年)も会場に並んでいますが、同じベラスケスが「宿屋のふたりの男と少女」のような風俗画も描いていたのには驚きました。国王や王女だけでなく、こんな風俗画をもっと描きたかったのかな? と想像させてくれます。

ディエゴ・ベラスケス「宿屋のふたりの男と少女」 1618/19年頃 油彩、カンヴァス ブダペスト国立西洋美術館

 

神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(1552~1612年)は、よく知られるように「クンストカマー(芸術の部屋)」と呼ばれる部屋をプラハの居城内に作り、絵画から生き物の標本まであらゆる品々を百科全書的に収集した稀代のコレクターでした。そのルドルフ2世が熱心に作品を集めた画家の一人がアルブレヒト・デューラー(1471~1528年)です。会場には国立西洋美術館が所蔵する「アダムとエヴァ」(1504年 エングレーヴィング)をはじめとする銅版画コレクションも展示されていますが、同じデューラーが描いた「ヨハネス・クレーベルガーの肖像」は、聖書を題材にした銅版画の印象とずいぶん異なります。

左:アルブレヒト・デューラー「ヨハネス・クレーベルガーの肖像」 1526年、油彩/板 ウィーン美術史美術館

 

また、イタリアのベネチア派を代表する画家の一人、ジョルジョーネが描いた「青年の肖像」もユニセックス(両性具有)的な雰囲気をたたえた不思議な絵です。人物の内面性を表現している点で、近代絵画に通じるものも感じます。

ジョルジョーネ「青年の肖像」 1508-10年頃 油彩/カンヴァス ブダペスト国立西洋美術館

 

「統一感のなさ」から透けて見えるもの

全体としてまとまりに欠けるようにも映るハプスブルク家のコレクションですが、むしろそれゆえに、それらの隙間からヨーロッパ史のありようがほの見えるところが面白いと感じました。

また、「女帝」と呼ばれた皇妃マリア・テレジア(1717~80年)などを別として、この展覧会で紹介されたハプスブルク家の君主や王族の少なからぬ人々が、比較的若くして死んでしまった事実に気づかされます。
フランス・ブルボン朝の国王ルイ16世(1754~93年)と結婚した王妃マリー・アントワネット(1755~93年)も、フランスの市民革命によって夫ともども処刑されてしまいました。そうした歴史の荒波の中で命を失った人々が遺したコレクションも、ハプスブルク家によって継承され、守られてきたことに感慨を覚えます。

ウィーン美術史美術館を創設したフランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916年)は、第1次大戦後に解体されたオーストリア=ハンガリー二重帝国の最後から2番目の皇帝でした。年老いた軍服姿の肖像画は、ハプスブルク王朝の終焉(しゅうえん)を象徴しているかのようでした。

ヴィクトール・シュタウファー「オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)の肖像」 1916年頃 油彩/カンヴァス ウィーン美術史美術館

 

実は「系図」が苦手です──

私が若かった頃は、皇妃マリア・テレジアやその娘マリー・アントワネットといった人たちの存在まず頭にありました。それからスペイン・ハプスブルクの存在を知り、徐々に遡っていって、実はヨーロッパの歴史というものが少なくともルネサンス以降、ずっとハプスブルク家とともに展開してきたことを理解しました。
ただ、私は個人的に系図が苦手なんです(笑)。特にハプスブルク家はオーストリア系、スペイン系などの間で盛んに近親婚が行われ、系図もさらに複雑だから、よく分からなくなってしまうんです。

(聞き手 読売新聞東京本社編集局文化部 編集委員 高野清見)

国立西洋美術館の前に立つ大岡玲さん。看板に使われているのは、女性画家ヴィジェ=ルブランが描いたフランス王妃マリー・アントワネットの肖像