原三溪 ─ その人、コレクターにしてアーティスト(【きよみのつぶやき】第19回(「原三溪の美術 伝説の大コレクション」】

ベテランアート記者・高野清見が、美術にまつわることをさまざまな切り口でつぶやくコラムです。

「原三溪の美術 伝説の大コレクション」

会期:2019713日(土)~ 91日(日)   横浜市 横浜美術館

 

 

連日の猛暑で頭がボーっとしていたとはいえ、前回のコラムから1か月以上も空いてしまったのは不徳の致すところ。会期も残り少なくなったが、横浜美術館の「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展をぜひご紹介したい。

 「三溪園」を作った人物

原三溪(はら・さんけい、本名・富太郎)と聞いて、横浜市にある国の名勝「三溪園」を思い浮かべるのは地元・神奈川県に住む方だろう。生糸貿易や製糸業で財を築いた原三溪(18681939年)が京都や鎌倉の寺にあった仏殿や三重塔を移築し、1906年(明治39年)に「遊覧御随意 三溪園」の看板を掲げて無料公開した日本庭園だ。

戦時中の横浜大空襲で大きな被害を受けたが、1953年(昭和28年)に原家から横浜市に譲渡・寄贈されるにあたって財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を経て再び公開された(現在は入園料金が必要)。

「 鈍翁、耳庵」と並び称された実業家・コレクター・茶人

原三溪は現在の岐阜市で庄屋の家に生まれ、上京して東京専門学校(現・早稲田大学)に学んだ。生糸業で成功した横浜の実業家、原善三郎の孫娘と結婚し、やがて原家の家業を継いで事業を拡大した。

実業家にとどまらず、美術コレクター、茶人としても名を知られ、三井財閥の大番頭だった益田鈍翁(どんのう、本名・孝)、「電力王」の松永耳庵(じあん、本名・安左エ門)と並び称される存在に。さらにパトロンとして下村観山、横山大観をはじめ、今村紫紅、小林古径、安田靫彦(ゆきひこ)、前田青邨(せいそん)といった画家たちを物心共に支援し、三溪園に招いて古美術鑑賞会を開いたり、作品を購入したりした。

顔ぶれを見ての通り、岡倉天心が1898年(明治31年)に創設した日本美術院を中心とする画家たちで、今日では近代日本画の本流に位置付けられている。三溪が没して9年後、1948年(昭和23年)に東京国立博物館が原家から三溪の近代日本画コレクションのうち約60件を一括購入。同館が所蔵する日本画の中核を成している。

国宝「孔雀明王像」 平安時代後期・12世紀 東京国立博物館 ※展示終了
1903年(明治36年)、元大蔵大臣の井上馨から当時としては破格の1万円で購入

5000点を超える美術品を収集

生誕150年・没後80年を記念した今回の展覧会は、三溪が収集した美術コレクションを、「コレクター」「茶人」「アーティスト」「パトロン」の4つの視点から紹介している。展示作品は国宝6点、重要文化財25点を含む美術品・茶道具約150件に及び、会期前半の目玉だった国宝「孔雀明王像」(平安時代後期・12世紀、東京国立博物館蔵 = 87日まで展示)や、後半に登場した国宝「寝覚物語絵巻」(平安時代後期・12世紀、大和文華館蔵=会期末まで展示)をはじめ逸品ぞろい。三溪本人が記した所蔵品目録も展示されているが、それによると生前に所有した美術品は5000点を超えるという。一大コレクションは没後に分散し、国内各地の美術館や博物館、個人に収蔵されている。

円山応挙「中寿老左右鴛鴦鴨」(右、北野美術館)、「虹図」(左、MIHO MUSEUM) 江戸時代中期
平安時代の古筆も数多く収集。藤原俊成「消息」 鎌倉時代・13世紀 京都国立博物館 重要文化財

『古寺巡礼』の和辻哲郎も支援

私が原三溪の名前を意識したのは約20年前。哲学者・和辻哲郎の長男(夏彦)の夫人、和辻雅子さんから義父にまつわる思い出をうかがっていた時、哲郎が原三溪の長男・善一郎と親しく、『古寺巡礼』に「Z君」として登場していることを教えられた。和辻雅子さんは2013年に亡くなったが、お会いした当時は宮内庁御用掛(ごようがかり)を務め、和辻家の代表として兵庫県姫路市が主催する「和辻哲郎文化賞」の授賞式に毎回出席していた。

展覧会場には、三溪が和辻哲郎に贈り、和辻がのちに鎌倉市の東慶寺に納めたと伝わる「弥陀立像」も展示している。善一郎は1937年(昭和12年)に45歳の若さで亡くなり、和辻は追善の茶会に招かれたという。才能ある芸術家、学者を温かく支援したことを物語るエピソードだろう。

原三溪が和辻哲郎に贈ったと伝わる「弥陀立像」(平安時代 東慶寺蔵)

「アーティスト・原三溪」に注目

展覧会は先に述べた通り「コレクター」「茶人」「アーティスト」「パトロン」の4つの側面を紹介している。その中で特に新鮮に映ったのは「アーティスト・原三溪」に注目した点だ。展覧会の冒頭に展示されているのは、三溪が好んで描き、親しい画家などに贈ったという白蓮の絵。会場の後半にも20点あまりの書画がまとめて展示されているが、玄人はだしと言うより、もはやプロの域に達した技量に目を見張らされる。

その筆はケレン味がなく、繊細にして伸びやか。「鈍翁の一日」と題して益田鈍翁の一日を取材して描いた絵巻にはユーモアも漂い、おのずと作者の人柄がしのばれる。 

原三溪の書画。右端は「弁天島 蒲郡所見」 1935年(昭和10年) 紙本墨画淡彩

 

展覧会を担当した柏木智雄副館長・主席学芸員は、712日に行われた記者内覧会で「三溪本人がアーティスト気質を持ち、自分の眼力で美術品を買い、自分の美術史観によってコレクションを分類しようとしていた」と指摘した。尾形光琳など琳派の画家の作品を相次いで購入し、近代における再評価を後押ししたのもその一例だという。

三溪が実業界で活躍した明治~昭和初期、巨額の富を得た実業家たちは旧大名家などから流出した古美術を競って収集した。たとえば「佐竹本三十六歌仙絵」(13世紀・鎌倉時代)が大正8年(1919年)に益田鈍翁邸で分割・売却された時、絵巻の断簡を高額で分け合った実業家の中にも三溪の名前がある。しかし「近代数寄者(すきしゃ)」と呼ばれた彼らの中で、三溪の際立った姿勢の違いは、単に鑑賞するだけではなく、過去の美術を読み直し、若い芸術家を支援することで、新しい美術史の形成にみずから関わった点にあるようだ。

 三溪は、関東大震災で大きな被害を受けた横浜の復興に私財を投じる代わり、美術品購入などを控えるようになって以降、書画を数多く制作するようになったという。晩年には『三溪画集』と題する作品集も自費出版している。柏木副館長は「アーティストであることが基本にあり、文人趣味を最後まで失わない人だった」とも述べた。

源実朝が描いた「日課観音」(左) 鎌倉時代・13世紀
長男の追善茶会の床に掛けられたという

「三溪を学ぶ、三溪に学ぶ」

横浜美術館の逢坂恵理子館長が記者内覧会で述べたところによると、同館は1989年の開館以来、原家と強いつながりを持ち、作品の寄贈も受けてきた。

2007年には当時の学芸員らによる働きかけで「原三溪市民研究会」が発足。現在は廣島亨会長をはじめ会員約40人が「三溪を学ぶ、三溪に学ぶ」を基本姿勢に、ゆかりの地の調査や、三溪の漢詩を解読する活動を続けている。

 今回の展覧会でも、同研究会は資料解読に一部協力した。また、館内のギャラリーで「もっと知ろう! 原三溪 ─原三溪市民研究会10年の足跡」と題したパネル展示も開き、これまでの活動の成果を紹介している(会期末まで。入場無料)。

さらに8月10日にはシンポジウム「原三溪の漢詩の世界」を開催。同研究会の漢詩部会メンバーが三溪への思いを語り、一人一人が担当している漢詩の解釈を発表した。メンバーとともに漢詩を読んできた鄧捷(とうしょう)・関東学院大学教授は「三溪は少年時代に漢詩塾で学び、深い素養を身に付けていた。実業家として世俗を生きながらも、精神は常に文人趣味の世界にあり、自己を律して公共のために尽くす清らかな生き方を通した」と、漢詩を通して浮かび上がる人間像を語った。

三溪は「美術品ハ共有性ノ物ナルヲ以テ、決シテ自他ノ別アルヲ許サズ」(『三溪帖』緒言)という言葉を残したという。

 美術を自分一人の楽しみとして独占せず、人々に還元しようとした姿勢は、三溪園を造って無料開放し、関東大震災の復興に私財を投じた行動に重なる。大きな贈り物を受けた横浜市民と三溪との深い絆は、これからも永く続くことだろう。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 高野清見)

三溪の漢詩を通じて人間像を語り合った「原三溪市民研究会」のシンポジウム= 8月10日、横浜美術館で

 

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