巨匠の真価 【イチローズ・アート・バー】 第19回 「円山応挙から近代京都画壇へ」展

東京・ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局・陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。

 

写実により新たな絵画世界を切り拓いた江戸中期の京都の画家、円山応挙(まるやま・おうきょ 173395年)は、円山派の始祖として知られる。一方、与謝蕪村(よさ・ぶそん)に師事した後に応挙に学んだ呉春(17521811)からは、文人画の味わいを持つ四条派が生まれた。この京都で花開いた円山・四条派の系譜を江戸時代から昭和時代まで一望する展覧会「円山応挙から近代京都画壇へ」が、東京・上野の東京芸術大学大学美術館で開かれている。前期は91日まで。後期は93日から29日までで、大幅な展示替えがある。東京展の後、京都に巡回する。

山跡鶴嶺「円山応挙像」(9月1日まで展示:右)と大乗寺「孔雀の間」の再現展示(一部:左)
円山応挙「保津川図」(9月29日まで展示中)

 

台頭する円山派

享保の改革を行った将軍吉宗(在位171645年)や、積極的な経済政策で知られる老中、田沼意次(171988年)が登場した18世紀の日本は、美術界も活気を帯び、細密な描写などで知られる「奇想の画家」伊藤若冲、日本の文人画を確立した与謝蕪村、池大雅(いけの・たいが)、そして鈴木春信、喜多川歌麿ら浮世絵師たちが、美術史上に残る傑作を生みだした。

そのきら星のような絵師に交じって、応挙は写実の魅力で圧倒的な人気を博した。丹波(今の京都府亀岡市)の農業を営む家の出身ながら、公家、武家から庶民に至るまで幅広く支持され、弟子は長沢芦雪(ろせつ)ら個性豊かな実力派を含めて1000人を超えたともいう。晩年、応挙を筆頭に門人13人の手で兵庫県香美町(かみちょう)の大乗寺に総計165面の障壁画を残す。前後して、天明の大火(1788年)で焼けた京都御所の再建にあたり、一門で常御殿(つねのごてん)の障壁画(幕末に焼失)を手掛けた。この御所造営に参加した絵師は、御用絵師集団・狩野派系列の鶴沢派から8人、やまと絵系の宮中絵師・土佐派から11人だったのに対して、応挙一門は9人。伝統勢力と互角の存在だったことがうかがえる。

 

重要文化財「松に孔雀図」(全16面のうち4面) 円山応挙、寛政7年(1795)、兵庫・大乗寺蔵、東京展のみ・通期展示

 

 応挙と多様な後継者                                                     

応挙はまじめで穏やかな人柄だったらしく「愛すべき人物」と評されたが、制作には妥協のない厳しさを見せていたようだ。応挙と親交のあった蕪村が17歳年下の応挙を取り上げた句がある。

筆灌(そそ)ぐ 応挙が鉢に 氷哉

厳寒の中、毅然とした佇(たたず)まいで寡黙に筆を進める絵師の姿が目に浮かんでくる。

 現在(東京展前期)展示されている応挙の作品には、大乗寺の障壁画「松に孔雀図」(重要文化財)のほか、筍、猿など動植物を描きとめた「写生図巻」などがあり、東京展後期には、東京芸術大学大学美術館の古田亮さんが「ぜひ注目してほしい」と語る応挙の絶筆「保津川図」(重要文化財)や、応挙のトレードマークのひとつと言える子犬を描いた作品も加わる。

 

重要文化財「保津川図」(右隻) 円山応挙、寛政7年(1795)、株式会社 千總蔵、東京展:後期展示、京都展:後期展示

 

 

「狗子図」 円山応挙、安永7年(1778)、敦賀市立博物館蔵、東京展:後期展示、京都展:前期展示

 

円山・四条派の絵師たちは、写実を尊重する限り独自の表現も許されたという。本展では、応挙の直弟子の芦雪から近代京都画壇の巨匠・竹内栖鳳(せいほう)まで、引き継がれた写実の精神と個性的な世界を見ることが出来る。

 

「牡丹孔雀図」長沢芦雪 江戸時代中期 公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館 東京展:前期展示、京都展:前期展示  応挙は「牡丹孔雀図」で牡丹と孔雀だけを描いたが、芦雪は雀や牡丹以外の花も描きこんだ。賑やかで孔雀も何かもの言いたげに見える。

 

「春暖」 竹内栖鳳、昭和5年(1930)、愛知県美術館蔵(木村定三コレクション)、東京展:前期展示、京都展:後期展示

 

  

真作vsコピー?

ところで応挙は模作、贋作が多いことでも知られる。人気の高さが大きな理由だが、作品が写実的ゆえに、模倣しやすかったのかもしれない。応挙の落款(サイン)はほぼ例外なく几帳面そうな楷書で、これがまた模倣しやすかったようだ。

「江口君図(えぐちのきみず)」は、多くはない応挙の美人画の中でもとりわけ優品として知られる作品だ。観阿弥原作、世阿弥改作と伝えられる謡曲「江口」のラストシーン。遊女が自らの境涯を嘆きながらも、世の無常を悟って菩薩と化して西の空(西方浄土)へと消えていく場面だ。白象の背に身を置く遊女は、貴婦人のような雰囲気を醸し出す。応挙らしい清潔な美しさが画面にあふれる。

重要美術品「江口君図」 円山応挙、寛政6年(1794)、静嘉堂文庫美術館蔵、東京展のみ・前期展示

 

この人気の美人画も模作の的となったらしい。そのひとつと思われる作品が島根県の医師の家に伝わっている。2年前に実見する機会があった。下にあげるのはその写真である。

 

医師の家に応挙の「江口君図」として伝わる作品。2017年に松江市の医師宅で撮影。

 

確かに似ている。着物の柄、帯などは素人目には真筆とほとんど区別できないほど精緻に描かれている。だが、顔のふくよかさ、傾きには異なる趣があり、象の顔は、よく見ると明らかな違いがあった。応挙の「江口君図」の象は、滑らかで穏やかな線でまとめられ、眼もやさしいのに対し、模作と思われる方の象は、顔の輪郭としわの彫りこむような線、意思を秘めたような視線、ギザギザを重ねたような耳の描写などが、何やら挑発的にも見える。線質にも違いが感じられる。

 

 

こうした「改変」は受けのよさを狙った脚色だったり、絵師の技量を反映したものだったりするのだろう。面白さだけでいえば、模作に軍配を上げる人もいるかもしれない。誰が描いたのか。また、なぜあえて原作と異なる象を描いたのか。

医師の手元には、明治の日本画家で円山派の継承者「川端玉章(ぎょくしょう)」による「流祖円山応挙先生真蹟」という箱書きがあり、先代が買い求めた時の「保証書」もあった。だが「保証書」は作文かもしれず、箱書きも玉章の真筆という確証はない。結局、写しだろうという以上のことは分からなかった。

 応挙の作品は、存命中から多くの模作が出回っていたらしい。コピーの専門家がいたようだ。ひょっとすると応挙の弟子が交じっていたかもしれない。そうであれば、描写の精度の高さもうなづける。

想像をお許しいただければ、この「江口君図」も、技を極めたコピー絵師が描き、象は自身の表現欲にかられてデフォルメしたのでは、と考えたくなる。写真などない時代である。原作と多少異なっていてもクレームはつかないと考えて「遊んだ」のか。丁寧な楷書で「応挙」と最後の筆を入れつつ、自らの造形に、ひとり悦にいっていたかもしれない。

模作であっても楽しみ、味わえるのは、元となる応挙作品の完成度が高いからだろう。他の絵師の真筆より、模作でも「応挙」を求めた人が少なからずいたのは理解できる。

ネットで「応挙、贋作」で検索をしてみた。贋物の「ランキング」なるものが目に入った。トップは、江戸後期の絵師・谷文晁。応挙は2位だった。出回っている贋作の多さを反映した順位だろう。また、人気のテレビ番組「なんでも鑑定団」(テレビ東京)でも数年前、「応挙?」とされる作品が出されたという。所有者の期待した値段が700万円だったのに対し、鑑定者の判定は「贋作で4万円」だった。

21世紀に至っても、人々の眼を吸い寄せ、驚嘆させ、ほほ笑ませる。時に真贋の謎解きを迫る“罪づくり”なのも、巨匠ゆえだろう。

応挙は今ごろ、泉下で筆を洗いながら、「それは私の作品」「そっちは写し」などと我々のとまどいぶりを、苦笑を交えて眺めているかもしれない。

 

円山応挙から近代京都画壇へ

201983日(土)~929日(日)  東京芸術大学大学美術館(東京・上野公園)(前期 83日~91日、後期 93日~929日)

 2019112日(土)~1215日(日) 京都国立近代美術館(京都 ・岡崎公園)(前期 112日~1124日、後期 1126日~1215日)

  

展覧会プレイバック

天才と奇才の師弟 応挙と芦雪

200610月7日~12月3日 奈良県立美術館

応挙の高弟として頭角を現した長澤芦雪(17541799年)は、応挙譲りの写実の上に奔放な画風を展開し、独自の世界をつくりあげました。二人の「師弟対決」ともいえる展覧会。近世絵画の、生き生きした一面を感じさせてくれた企画でした。

「応挙と芦雪」展の図録表紙。応挙「雲龍図」(部分:左)と芦雪「虎図」(部分:右)

 (読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)

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