「仏都会津」への道 【イチローズ・アート・バー】第18回 「興福寺と会津」展から

東京・ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局・陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。
東日本の真ん中で
福島県の猪苗代湖は、国内で4番目に広い湖沼。その北西に広がる会津盆地は、関東・東北を合わせた地図で見ると、そのへそとなる位置にある。そして湯川村の古刹(こさつ)・勝常寺(しょうじょうじ)は、この会津盆地のほぼ中央に位置する。
勝常寺には、平安時代初期の仏像が10体以上安置されている。多くは一本の木から彫り出された一木造りの仏たちで、その姿は、木魂(こだま)が宿ったかのような独特の味わいがある。会津ほど平安前期までさかのぼる仏像がまとまってある地域は、東北・関東を通じてあまりない。「仏都会津」と呼ばれる所以である。
その会津で、奈良・興福寺の寺宝と会津地方に伝わる仏教美術が一堂に並ぶ「福島復興祈念展 興福寺と会津 徳一がつないだ西と東」が会津若松市・福島県立博物館で8月18日まで開かれている。
平安初期に奈良・興福寺から会津地方を訪れ、本格的な仏教文化をもたらしたとされる僧・徳一(とくいつ)と、平重衡(しげひら)による焼き討ち(1180年)を受けた興福寺の復興などに焦点を当てた企画で、奈良・興福寺の寺宝や会津地方に伝わる仏教美術を、国宝3件、重要文化財11件を含む34件(会期中展示替えあり)で紹介している。興福寺が所蔵する国宝を福島県で公開するのは初めて。仏教の教えや歴史的背景についても問いを投げかけ、古代の東北へと思いを誘う展覧会だ。
興福寺の寺宝と会津の仏たち
会津盆地北東部の山沿いに位置する磐梯町は、徳一が磐梯山のすそ野に慧日寺(えにちじ)を開創した縁で、近年、興福寺と交流があった。東日本大震災の後、被災した福島に祈りを届けたいという興福寺側の思いがスタート点となり、展覧会の企画が生まれ、昨年、磐梯町の五十嵐源市・前町長と赤坂憲雄・福島県立博物館館長が、興福寺に多川俊映貫首を訪ね、実現の運びとなった。その後、貫首の考えに沿って出陳される仏像・仏画が選ばれ、主役には「地蔵菩薩立像(りゅうぞう)」(重要文化財)が据えられた。

多川貫首は、主催の福島民友新聞の特集記事で、「(地蔵菩薩は)私たちの苦しみや悲しみを代わりに受け止めるという誓いを立てた菩薩さまだ。『復興祈念』という意味からすれば、この菩薩さまが一番脚光を浴びるべき」と語っている。

そしてもう一つの目玉は、邪鬼を踏みつけ、我々や仏法を守る「四天王立像(りゅうぞう)」。四隅を守る四天王のうち、興福寺からは国宝の「広目天」「多聞天」が、徳一が開いたと伝わる勝常寺からは重要文化財の「増長天」「持国天」が「お出ましになって」いる。興福寺からは、鎌倉復興期につくられた高僧の像「法宗六祖坐像」2体(いずれも国宝)なども出陳されている。


福島側からは、勝常寺の「増長天」「持国天」のほかに「十一面観音菩薩立像」(明光寺)や徳一の坐像(勝常寺)、ほとんど公開されたことがないという「吉祥天立像」(重要文化財、個人蔵)なども展示されている。同博物館に寄託されている会津地方の仏像、仏画なども彩を添えている。


興福寺の寺宝と地元の仏像などを合わせて見られるとあって注目を集め、福島県内外から多くの来場者を迎えている。
興福寺と会津の縁
興福寺と会津の縁は、徳一が9世紀初頭に慧日寺を開いて以来と古い。だが、その徳一の足取りは明らかではない。いつ、なぜ、どのような経路で会津に来たのかは、断片的な情報しかないという。それを反映してか、辞書、事典類や記事における徳一説明にはばらつきがある。
徳一が興福寺と東大寺で仏法を学び、東国に下って布教を行い、会津、筑波山(茨城県)などで寺院を創建すると共に、時の仏教界の権威、最澄と論争をしたことは間違いなさそうだ。だが、生い立ちはあいまいで、東国に向かった事情についても、単に「東国に移り」とする記述のほか、「修行の地を求め東国へ」とあったり、逆に「流された」となっていたりする。徳一による開創が確実視されている筑波山の中禅寺と会津の慧日寺の創建順も、会津を先とする説もあれば、筑波山にいた時に磐梯山の噴火(806年)を見て会津に向かったとする説もあり、定かではない。
冒頭にあげた勝常寺と徳一の結びつきも伝承のみで、実は、確実な証拠はない。しかし、磐梯山麓の慧日寺が修行のために創られたのに対して、会津盆地の中央にある勝常寺は布教のために徳一によって創建されたのだろう、という説が有力だ。勝常寺の諸尊は奈良の技法をうかがわせ、都の高度な技法を会津に伝えられるのは徳一以外にいないだろう、という推論である。
「派遣」論争
徳一は、最澄や空海と対等に議論するほどの大物だから、弟子たちを引き連れ、会津にきたとみられる。ただ、配下に仏師がいたとしても、勝常寺に残された薬師三尊像、四天王立像、天部立像など、護国のための仏像群一式が彼らだけで造れるものだろうか。地元に一定の技術を持つ仏師がいたのではないか。あるいは、中央政府の政策の一環として、十分な人材や物資を与えられて東北に「派遣」されたのではないか。
地元福島・三春町の住職で、小説家の玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんをゲストに招き、7月19日に同博物館で行われた「館長講座特別編 徳一」でも、この「派遣問題」が話題になった。赤坂館長、担当学芸員の塚本麻衣子さんを交えた議論で、徳一の発意が根本にあったはず、とする考えや、これだけの取り組みは組織的な支えがなければ難しい、とする見方が示され、徳一の行動が先行しつつ、中央政府も承認あるいは支援をしていたのだろう、という見解に落ち着いた。

最澄との論争
もう一つ話題となったのは、最澄との論争だ。はっきりしないことが多い徳一の人生で、史実として確実で、徳一を世に知らしめたのが、日本の仏教史上最も激烈だったとされるこの論争だったと言われる。
「すべての人が成仏できる」と説く最澄に対し、「果たしてそうか」と問いただしたのが徳一だった。同種の論争はインド、中国でもあった。徳一と最澄は互いに著述によって批判の応酬を繰り広げ、論争は6~7年に及んだという。徳一の一徹さがうかがわれるエピソードだ。
玄侑さんはこの論争について、経典の解説を交えながら、「最澄はいわば中央官庁の次官級のエリート。徳一の方が世の中の現実を直視していたと思う。最澄が本気で反論したというのは、徳一に痛いところを突かれたからではないか」と分析した。

会津の謎
謎が多い徳一の生涯だが、それにしても、徳一が新天地として都から遥か遠くの、いわば辺地とも言える会津を選び、その会津を拠点に京都の超エリートと論争を繰り広げたことには驚かされる。徳一が会津入りする前に、既にこの地方には仏教受容の素地が出来ていたのではないか、と考えたくもなるが、残念ながら史料が事実上皆無で、研究者はここで沈黙を強いられる。
先に述べたように、会津は東日本の中心点とも呼べる場所に位置する。古墳時代以来、近畿地方にあった中央政権が、東北地方の拠点、中継地として会津を重視した可能性はある。だが、関東、東北では他にほとんど見られないほど集中的に平安初期の仏像が残されている、という特別な事情の説明としては、十分とは言えない。
研究者ではない「特権」として、自由に想像を巡らせてみよう。3世紀から6世紀にかけて、地球は寒冷期に入っていた。世界規模で北方の遊牧民族が南下し、中央アジア以西ではゲルマン民族の大移動がヨーロッパの地図を塗り替え、中国では魏晋南北朝時代(後漢末期から隋が成立する頃まで)の動乱を引き起こした。影響は朝鮮半島にも及び、高句麗が南下し、百済などを圧迫する。いずれも大きな混乱期を迎えていた。
大陸、朝鮮半島での諸国、諸勢力の興亡は、多くの難民を生んだ。日本に逃れてきた者も少なからずいただろう。日本海を渡って、たとえば新潟地方周辺に到着、漂着したグループもいたはずである。その中に越後山脈を越えて会津に至り、大陸文化を直接伝えた一団がいたのではないか、と想像してみたくなる。
中国・華北地方や朝鮮半島の冬を知る彼らにとって、東北の寒さは問題ではあるまい。居住地としての会津の発見が、この地に大陸文化をもたらし、後に訪れた徳一の目に留まった、という筋書きは、空想的ではあるが、可能性はゼロでもないだろう。実際、6世紀半ばに(福島県・群馬県に源流を持ち新潟県を流れる)阿賀野川沿いに進んで会津に至った中国(南北朝時代の梁)の僧が、同地を気に入り、庵を結び、布教の拠点としたという伝承もあるという。
福島県立博物館の常設展示には、県下で発見された古墳時代の埴輪や鏡、奈良・平安時代の文物も陳列され、徳一が登場する以前の文化を伝えてくれる。この常設展と合わせ、「興福寺と会津」展は、会津に高度な仏教文化が芽生え、花咲くに至った歴史のロマンを感じさせる、興味尽きない展示となっている。

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7月6日~8月18日 福島県立博物館(会津若松市)
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展覧会プレイバック
「日本国宝展」
2000年3月25日~5月7日 東京国立博物館
2000年の春に文化財保護法50年記念として開かれた「日本国宝展」では、絵画、彫刻、書跡、工芸、考古などにわたって200件を超える国宝が公開されました。どれもが国宝という中で、1996年に国宝に指定された勝常寺の「薬師如来坐像及び両脇侍立像」は「新国宝」として紹介され、圧倒的な存在感もあって、ひときわ注目を集めていました。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)