戦いと芸術の都 ウィーン【イチローズ・アート・バー】第17回 「ウィーン・モダン」展から

東京・ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局・陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。

ウィーンの歴史の証言者ともいえる所蔵品があまたある、ウィーン・ミュージアムのコレクションから約400点を展示する「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」」(8月5日まで東京・六本木の国立新美術館。8月27日~12月8日、大阪・中之島の国立国際美術館)は、名画名品を紹介するとともに、この芸術の都の歴史へも関心を誘う。ウィーンの歩みとともに、展示される作品をみていきたい。

 

ウィーンは、18世紀から19世紀にかけて、モーツァルト、ベートーベンら大作曲家を輩出し、1900年前後にはウィーン世紀末美術の華を咲かせるなど、ヨーロッパ芸術の中心地のひとつだった。しかし、モーツァルトやベートーベンが見たウィーンと、クリムトやシーレが描き、暮らしたウィーンはまるで異なる街だったということは、意外と知られていない。

中世以来、ウィーンは外敵の侵入を防ぐ要塞のような城壁都市だった。

「ローテントッゥルム門側から見たウィーン旧市街」1750年以前 市街を囲む城壁と掘が見える

 

 その城壁が壊されたのは1857年。その後、城壁跡につくられた大通りにさまざまな建築様式の建物が並んだ。クリムトやシーレが活躍したのは、この新しいウィーンだった。

ヨーロッパの砦

歴史をひも解くと、ウィーンと城壁は切っても切り離せないことが分かる。16世紀に版図を広げつつあったオスマン帝国のスレイマン1世に包囲された時、何とか持ちこたえられたのも、17世紀末の再包囲で、ヨーロッパの砦として街を守り切れたのも、城壁があればこそだった。その城壁に見切りをつけたのが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。1857年のクリスマスに、城壁の取り壊しを決める。躊躇はなかったのか。

時代遅れ

軍は反対した。街の防衛を考えれば当然だろう。だが、城壁は19世紀にはいると近代化の足かせになっていた。交通、流通の障害となり、そもそも戦闘が都市の攻防ではなく、都市から離れた広大な土地での会戦で勝敗が決せられる時代になった。他国ではすでに城壁の取り壊しが進んでいた。

街を囲む城壁跡に、のちに「リンク通り」と呼ばれることになる環状の道路をつくり、非常時にはすぐに兵を配備・展開できるようにして、軍の理解も得られた。では、哀惜の念はなかったのだろうか? 実は、城壁が壊される約10年前の1848年に、3月革命で大学生、労働者らが蜂起した際、皇帝は一旦ウィーンを逃れ、態勢を整えてウィーンを攻め、革命を鎮圧するという、ちぐはぐな苦い経験をしていた。このエピソードからは、城壁に未練はなかったことがうかがえるだろう。

 

「ミヒャエラーブラッツのバリケード、1848年5月26-27日深夜」1848年  3月革命で大学生、労働者は、一時、ウィーン市街を占拠した

 

壁がとりこわされた後、物流は活発となり、建設ラッシュは30年以上に及んだ。ウィーンは一変した。

 

「国会議事堂、ウィーン市庁舎、ウィーン大学、ブルク劇場が建設された頃のフランツェンスリンク」1882年頃  この一帯は「法と芸術の四辺形」とも呼ばれた。

 

人気画家、クリムト

リンク通りには、国会議事堂、市庁舎、大学、劇場、美術館、教会などが並び、近代都市ウィーンの顔となった。

ウィーン世紀末美術を代表する画家、グスタフ・クリムトは20歳代の野心あふれる青年で、リンク通りに移る前の旧ブルク劇場(188810月に最終公演)の記録画の制作を任され、名をあげた。この時に描いた「旧ブルク劇場の観客席」は、後に登場人物の一覧表とともに出版された。

 

グスタフ・クリムト「旧ブルク劇場の観客席」1888年 政財界、学界、美術界の有力者ら100人以上の集団肖像画。マリア・テレジアによって建設された旧ブルク劇場は取り壊しを控えていた。

 

国会議事堂前に移転した新しいブルク劇場の装飾も手がけた。描いたのはいわゆるアカデミー風の写実的な作品だった。ブルク劇場の天井画「シェークスピアの劇場」には、シェークスピアの時代の服装で描かれた観客の中に、クリムト自身の姿も描きこまれている。セレブリティー(名士)としての自己主張のようにも見える。クリムトは体制側の人気画家だった。

 

反体制「ウィーン分離派」

そのクリムトが1897年に「ウィーン分離派」と呼ばれるグループをつくり、保守的な既成の美術団体と決別する。「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」と訴えた。翌98年に開かれたウィーン分離派の第1回展のポスターには、古代ギリシャ神話の芸術と知恵を象徴する女神アテナが、盾とやりで武装して立っている。対保守派の旗頭(はたがしら)として描かれた。以前に手掛けた美術史美術館の階段吹き抜けのアテナ像は、女性らしさがあふれる写実的な作品だったが、ここでは平面的で思い切った空白が新しい表現を感じさせる。

 

グスタフ・クリムト「第1回ウィーン分離派展ポスター(検閲後)」1898年

  

同じ98年に描かれた油彩「パラス・アテナ」のアテナは、きらびやかな黄金のよろいをまとい、夢幻の世界の妖女の趣をたたえている。「劇場の風俗画家は女の心理的画家となった」とも言われた。

 

グスタフ・クリムト「パラス・アテナ」1898年

 

 決意の背景~ウィーン自由主義の敗北

クリムトの「転向」は、芸術的な志の表れに違いない。保守的な美術界に飽き足らず、革新の決意をしたのだろう。だが一方で、約30年続いた「自由主義」政権がこの頃行き詰まっていた時代背景も無視できない。

産業の重工業化は、旧来の職人層、小市民層を圧迫していた。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がユダヤ系に寛大だったため、金融資本家、工場主から行商人まで多くのユダヤ人がウィーンに集まり、経済を牛耳るようになる。こうした中、「ユダヤ人と自由主義の破壊的影響からキリスト教民衆を守る」と訴える政治家カール・ルエーガーが大衆の支持を集めた。皇帝はその大衆扇動的な手法を警戒したが、ルエーガーは97年にウィーン市長の座を手に入れた。

 

アドルフ・マイアーホーファー「ウィーン市長 カール・ルエーガー」1902年 ルエーガーは1897年から1910年までウィーン市長を務めた。

 

ルエーガーは、後にヒトラーが「師」と呼んだ保守的な扇動的政治家である。表現の革新を目指し、後にユダヤ人の芸術家やパトロンと親交を深めるクリムトにとっては、ルエーガーは相いれない存在だったのではないだろうか。ルエーガー市長が誕生した97年にクリムトがウィーン分離派の旗揚げをした背景には、クリムトを取り巻く、政治・社会的な環境変化への危機感もあったように思われる。

  

対立、逆風

クリムトは、94年に文化省から委嘱されたウィーン大学講堂の天井画3作品を、分離派の旗揚げをはさんで、約10年がかりで仕上げる。宙づりになった男女の肉体が虚空を漂っていくかのような型破りな作品で、自由主義の保守派からも、反ユダヤ主義者からも批判された。逆風が吹き、美術アカデミーの教授に推薦されたものの、文化省は承認を拒否し、結局、教授就任の話は流れた。クリムトはこの後、公的な仕事を離れて上流階級の画家、装飾家となり、婦人の肖像画を数多く手がける。富裕なユダヤ人が多かった。

 

交差する影 シーレとヒトラー

この頃、二人の画学生がウィーンに現れた。ともに美術アカデミーを受験し、一人は合格しながら指導教官と衝突して中退。一歳年上のもう一人は二度受験していずれも不合格。二度目は「作品提出も不要」とされるほど門前払いに近かったという。「貧困と悲惨の時」を過ごし、恨みを抱いてウィーンを去った。

前者はクリムトをしのぐほど斬新な画風を築いたエゴン・シーレ、後者はアドルフ・ヒトラーである。ヒトラーは後にナチス・ドイツを率いて、オーストリアを併合。前衛芸術を否定し、作品を集めさせ、他国に売るか、焼き捨てた。

エゴン・シーレ「自画像」 1911年 シーレの描く痩せさらばえた人物像は、一度見たら忘れられない。

 

永遠のウィーン

政治、経済、文化にわたる戦いの場でもあったリンク通りだが、ウィーンは21世紀に至った今も、優雅な芸術の都であり続ける。1842年創立のウィーン・フィルハーモニーは世界中の音楽ファンの注目を集め、ハプスブルク家のコレクションに由来する美術史美術館は、ブリューゲルやヴェラスケスの名画を擁する美術ファンの巡礼地のひとつだ。闘い、葛藤の歴史を秘めつつ、ウィーンは輝き続けている。

  

*作品はすべてウィーン・ミュージアム蔵。写真は「パラス・アテナ」以外は ©Wien Museum/Foto Pater Kainz

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展覧会プレイバック

「クリムトとエゴン・シーレ展」(1985年)

1985年、クリムトの代表作のひとつ「ダナエ」が日本で公開されました。個人コレクター秘蔵の作品でしたが、主催者によるウィーン市ほかへの働きかけが功を奏して「クリムトとエゴン・シーレ展」に出品されたのです。東京展の会場は渋谷の東急本店6階の催物会場。買い物のついでにクリムトの名作が見られるという、(作品の厳重な管理が求められる)現在ではほとんど考えられない、おおらかで贅沢な展覧会でした。

「クリムトとエゴン・シーレ展」のカタログ表紙にあしらわれた「ダナエ」

  

(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)

 

「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」

2019424日(水)~85日(月) 国立新美術館(東京・六本木)

2019827日(火)~128日(日) 国立国際美術館(大阪・中之島)

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