京都を舞台にした知られざる交友 【きよみのつぶやき】第17回(「太田喜二郎と藤井厚二 — 日本の光を追い求めた画家と建築家—」展)

ベテランアート記者・高野清見が、美術にまつわることをさまざまな切り口でつぶやくコラムです。

太田喜二郎と藤井厚二—日本の光を追い求めた画家と建築家—」展
2019年4月27日(土) ~  6月23日(日) 京都文化博物館(京都市中京区)
2019年7月13日(土) ~  9月 8日(日)     目黒区美術館(東京・目黒)

藤井厚二の没後、太田喜二郎が描いた藤井の肖像画(1938年)=左上=京都文化博物館で

 

「聴竹居」の建築家・藤井厚二

建築家の藤井厚二(こうじ、1888~1938年)と、洋画家の太田喜二郎(きじろう、1883~1951年)。京都を主な舞台に異なる分野で活動した2人の交友と、それぞれに試みた「日本」と「西洋」の融合に焦点を当てた展覧会が開かれている。
美術と建築の両方に興味のある人なら見逃せない組み合わせだが、2人とも一般的にそれほど有名とは言えない。そこでプロフィールとともに展覧会をご紹介したい。

まずは藤井厚二。名前を聞いて反応する人は、「聴竹居」(ちょうちくきょ)という昭和初期の住宅を設計した人物として記憶しているかもしれない。
広島県の福山に生まれ、東京帝大(現東大)で建築を学んだ藤井は、神戸に本店があった竹中工務店に6年間勤務し、大阪朝日新聞社ビルなどを担当。欧米視察を経て1920年(大正9年)、関西建築界を牽引した武田五一が京都帝大(京大)に工学部を創設するにあたって講師に招かれ、1926年から教授を務めた。

藤井は日本の気候風土や生活様式に適した近代的住宅を追求し、理論書を発表する一方、京都府大山崎町に購入した土地に実験住宅として次々に自邸を建てた。現在は第5回住宅「聴竹居」だけが残り、国の重要文化財に指定されている。「工学的理念に基づいたモダニズム住宅の先駆的存在として住宅史上、建築学上重要」というのがその理由だ。

藤井厚二「聴竹居(雪景色)」1928年 重要文化財 写真:古川泰造 写真提供:竹中工務店

 

私は2015年春、有料の見学ツアーで「聴竹居」を訪れた。和風建築に機能的で洗練されたデザインが溶け込み、とても居心地の良い住宅だった。
一番の特色は日本の気候に合わせた通気や採光で、夏の暑さ対策として地中に埋めた導気口(クールチューブ)から冷気を取り入れるなどの工夫が見られる。また、近代建築の巨匠ル・コルビジュエが提唱した水平連続窓を思わせるガラス窓からは、緑豊かな庭と、京都と大阪を結ぶ要衝の地・大山崎の景観が広がっていた。
自然環境との調和に配慮した藤井の設計思想は、時代を先取りしたものとして近年とみに注目されている。

藤井厚二「聴竹居 縁側」1928年 重要文化財 写真:古川泰造 写真提供:竹中工務店

 

「聴竹居」の保存には、藤井の古巣である竹中工務店の後輩たちが大きな役割を果たしている。

阪神大震災で半壊した武田五一設計の「芝川邸」(当時は西宮市。現在は「芝川又右衛門邸」として愛知県の博物館明治村に移設)の保存を通して藤井と「聴竹居」を知った設計部の松隈章さんは、同僚たちと建物の実測調査を行い、同社東京本店(江東区新砂)の「ギャラリーA4(エークワッド)」の企画展などで紹介した。また2008年には松隈さんが自ら「聴竹居」の借家人となり、「聴竹居倶楽部」を設立して維持管理と公開を続けてきた。
2013年6年に先の天皇、皇后両陛下が見学され、松隈さんがご案内役を務める姿が新聞・テレビで報じられた。「聴竹居」が広く知られることになり、それも追い風となって2016年に竹中工務店が建物を取得。翌年には国重文に指定された。

「聴竹居」の再発見と保存、文化財指定への流れは、多くの貴重な近代建築が失われていく中、稀有な成功例として注目された。そのくわしい経緯については松隈章さんの著書『聴竹居 発見と再生の22年』(ぴあ)をぜひお読みいただきたい。

ベルギー帰りの画家・太田喜二郎

藤井厚二が設計した住宅の中に、5歳年長の洋画家・太田喜二郎の邸宅がある。太田は京都に生まれ、東京美術学校(現東京芸大)で黒田清輝、藤島武二に洋画を学ぶと、1908年(明治41年)からベルギーに5年間留学。ベルギーの印象派を代表する画家エミール・クラウスに師事し、クラウス独特の点描技法を学んだ。
クラウスは日本で開かれるベルギー近代絵画の展覧会に欠かせない画家で、農家の庭先や牛を点描で描いた作品がおなじみ。太田の親友で大原美術館の礎となる西洋絵画コレクションの収集に協力した画家、児島虎次郎(1881~1929年)の師でもある。

左:太田喜三郎「自画像」(1919~51年)
右:「花摘図」(1911~12年頃) 星野画廊 いずれも油彩・キャンバス

 

太田はクラウスから、逆光の中にいる人物を点描で表現する手法を教えられ、光の効果を探求する。「サン・ピエール寺」の連作では、異なる季節や時間によって変わる対象の色彩や輝きの変化をとらえようとした。クラウスも影響を受けたフランス印象派の画家、クロード・モネの「ルーアン大聖堂」「積みわら」の連作を思わせる作品だ。

ベルギー留学時代、太田が下宿の窓から描いた「サン・ピエール寺」の連作

 

太田は1913年(大正2年)に留学を終えて帰国すると、故郷の京都に住んだ。当初は留学時代の成果を次々に発表して注目され、その後は点描で農村風景を描くが、やがて点描をやめ、絵の具を平坦に塗る描き方に変わる。中央画壇で作品を発表する一方、関西洋画界の中心的存在になっていった。

太田が留学中に点描技法で描いた「木蔭の少女」(1909年)=下=と、点描をやめた後の作品「夏の昼」(1919年 京都市美術館)

 

2人の出会いと交友

建築家の藤井、画家の太田が出会ったのは、2人が同じ京都帝大工学部の講師となった1920年頃とみられている。すぐに親しくなったとみえ、太田は1924年に京都市内に完成した自宅の設計を藤井に依頼した。

藤井厚二「太田喜二郎邸新画室(アトリエ)」1924年竣工 1931年増改築 写真:古川泰造 写真提供:竹中工務店

 

その後も家族ぐるみの交友が続き、両方の夫妻が出席した茶会の模様を太田が描いた絵巻や、夫婦が寄せ書きして焼いた茶碗、手紙などが親密ぶりを伝える。藤井は1938年、49歳の若さで亡くなるが、太田は病院へ何度も見舞いに行き、没後は藤井の肖像画を描いた。

太田喜二郎「寿月庵茶会絵巻」 1935年 右から太田と藤井、左手前から太田夫人と藤井夫人

 

展覧会では2人の共通点を、「絵画と建築という異なる分野に身を置きながらも、ともに海外に学び、近代の日本において、日本の文化と西洋の文化の融合を模索した」と指摘。茶や作陶など「日本趣味」も挙げている。

もう一つ、画家と建築家が共有するものといえば「光」への強い関心だ。
屋外制作などで光の効果を重視した「外光派」の黒田清輝に学び、さらにベルギーで光の表現を追求した太田喜二郎は、クラウス仕込みの点描技法をやめた後も一貫して光の表現に鋭い感覚を示した。藤井厚二は紙の障子が日本の気候に適している上、光を拡散して日本家屋の空間を美しく見せていると考え、実験で光拡散の度合いを数値化するなど、光の扱い方に細心の注意を払って設計を行った。

 

交友から見えてくる「近代の京都」

今回の展覧会は、京都文化博物館と目黒区美術館による共同企画だが、そのきっかけは偶然だったという。2016年に目黒区美術館の学芸員が展覧会への出品依頼で京都市内の太田喜二郎邸を訪れ、玄関やアトリエ、居間などに差し込む光が微妙に異なることに気づき、設計者の名前を尋ねて藤井厚二だと知った。同美術館は近年、建築関係にも調査研究を広げており、京都文化博物館も太田をめぐる交流関係の調査と展覧会を行っていたことから、両館による共同研究と展覧会企画に発展した。

京都文化博物館の担当学芸員である植田彩芳子さんによると、太田の交流関係には分かっていないことも多いが、関西や京都ならではのネットワークがあったようだ。そもそも1917年に京都で初個展を開いた時の発起人や、その折に知遇を得た人物には、京都帝大で教えていた東洋学者の内藤湖南、「広辞苑」編者となる新村出など、意外な名前が見える。その後も太田は考古学者、在野の文人などと交流を深め、中央画壇とは一味違った人脈と文化的背景に身を置きながら活動を続けた。
太田は1951年に67歳で死去するが、美術学校でも長く教え、京都の洋画界に与えた影響も今まで考えられていた以上に大きかったらしい。

藤井厚二と太田喜二郎、2人の交友を出発点として、近代から現代に向かう京都をめぐる文化状況に新たな光が当たるのが楽しみだ。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 高野清見)

●「聴竹居」の基本情報や見学会の案内は「一般社団法人聴竹居倶楽部」の公式サイトで。

●展覧会の公式図録『太田喜二郎と藤井厚二 日本の光を追い求めた画家と建築家』が京都の青幻舎から刊行された=写真=。「聴竹居」「太田喜二郎邸」のほか、京都市内に残る藤井が設計した他の住宅写真も収める。

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