医学博士・俳人 馬場駿吉 ×「アイチアートクロニクル 1919-2019」【スペシャリスト 鑑賞の流儀】

「スペシャリスト 鑑賞の流儀」は、さまざまな分野の第一線で活躍するスペシャリストが話題の美術展を訪れ、一味違った切り口で美術の魅力を語ります。

 

耳鼻咽喉科の大学教授として、教育、研究、診療にたずさわる一方、美術、舞台芸術を評論してきた名古屋在住の馬場駿吉さんに、「愛知県美術館リニューアル・オープン記念 全館コレクション企画 アイチアートクロニクル展 19192019」をご覧いただきました。

 

馬場駿吉(ばば・しゅんきち)

1932年名古屋生まれ。元名古屋ボストン美術館館長。医学博士、俳人、現代美術評論家、芸術批評誌「REAR」編集同人。名古屋市立大学名誉教授(耳鼻咽喉科学)、愛知県立芸術大学客員教授。著書に『時の晶相:196070年代の芸術家たちとの私的交友』、句集『耳海岸』、美術論集『意味の彼方ー荒川修作に寄り添って』など。他に医学関係書多数。

 

愛知県美術館リニューアル・オープン記念

全館コレクション企画

アイチアートクロニクル  19192019

201942日〜623日  愛知県美術館(名古屋・栄)

 愛知県の近現代美術の歩みを振り返る記念展。県内で創作活動を行った作家に焦点を絞り、愛知県美術館のコレクションのほか名古屋市美術館、豊田市美術館、愛知県陶磁美術館、ギャラリー、個人蔵の作品を加えた約220点を「クロニクル」(記録、年代記)として一堂に展示している。  

 美術への開眼

俳句は中学生の頃から詠んでいましたが、美術を本格的に見るようになったのは医師になってからです。1960年代初頭、名古屋市立大医学部の助手(現在の助教)を務めていた頃、偶然、愛知県美術館の前身、愛知県文化会館1階のギャラリー に行き、そこで駒井哲郎さん(192076年)の銅版画に出会い、引きつけられました。

 小さな画面に濃密で詩的な世界が封じ込められていました。それは、俳句にも共通して求められるものです。私の美術への開眼はこの時だったといってよいでしょう。既に現代芸術の湧き上がるような、熱っぽい時代が始まっていましたが、私は知己を得たシュルレアリスト・瀧口修造さん(190379年)や、作家の加納光於(みつお)さん(1933年~)、荒川修作さん(19362010年)らとの交わりの中でその流れを見守ることになります。

開館した頃の愛知県文化会館の写真を覗き込む馬場さん

 

 シュルレアリスムと名古屋

瀧口修造さんとの出会いも後押しし、シュルレアリスム(超現実主義)への関心が深まりました。

日本へのシュルレアリスムの紹介者としては、1920年代以降、瀧口さんや画家・福沢一郎さんらが知られますが、名古屋でも30年代には詩人・山中散生(ちるう)さん(190577年)がパリのシュルレアリストたちと直接書簡のやり取りをして、パリの動向に触れていました。名古屋には東京経由ではない情報があったのです。

画家・下郷羊雄(しもざと・よしお)さん(190781年)も早くからシュルレアリスムに関心を示していましたが、山中さんとの出会いを経て、名古屋のシュルレアリスムの中心人物のひとりとなります。

下郷羊雄「作品」(1938年)を、愛知県美術館の担当学芸員・副田(そえだ)一穂さんと見る馬場さん

  

下郷さんは、絵画と写真でシュルレアリスムの世界を探求しました。1938年にフランスで刊行された「シュルレアリスム簡約辞典」には、下郷さんの「怪奇鳥亜属」という1937年の作品が掲載されています。

下郷さんは名古屋市南区鳴海の旧家の出身です。下郷家は江戸時代に醸造業で産を成した素封家で、一種の文化サークルの核になっていたようです。

下郷家には、俳聖・松尾芭蕉が郷里の伊賀(現在の三重県)と江戸との行き来の度に立ち寄ったといいます。ちなみに芭蕉は、1684年(貞享元年)11月頃の名古屋滞在で、通俗を脱した風雅の世界、いわゆる蕉風を確立した連句『冬の日』を残しましたが、これを詠んだ座がもたれたのは、愛知県美術館からほど近い名古屋テレビ塔の北東脚のあたりで、現在「蕉風発祥の地」の碑があります。池大雅、与謝蕪村が描いた江戸時代の文人画(南画)の傑作「十便十宜図」(国宝・川端康成記念会蔵)は、下郷家の依頼で描かれたものです。

 尾沢(おざわ)辰夫も30年代に名古屋で活躍し、シュルレアリスムに目を向けたひとり。戦災などで作品はほとんど残っていません。美術館が把握しているのは2点にとどまるそうです。その内の1点である「鴨」は古代エジプトの女性がモチーフ。目の描き方が少し変わっていますね。担当学芸員の副田さんは「衣服に施された矩形の模様など、クリムトを思わせるところがある」と指摘されましたが、確かにそのようにも見えます。意外な発見でした。

尾沢辰夫「鴨」 1938年

 

名古屋にシュルレアリスムの情報が(東京経由ではなく)直接入っていたのは知識としては知っていましたが、こうして並んだ作品を見て、全体像がつかめた気がします。

 

ギャラリスト(画廊経営者)の重み

画家や彫刻家たちを社会に送り出すのも画廊の重要な役割です。愛知にも1960年頃から現代美術を扱う画廊が生まれました。その中で名古屋の桜画廊はとりわけ存在感がありました。この展覧会でも「桜画廊とその周辺」という独立した章が設けられています。

 同画廊経営者の藤田八栄子さん(191093年)は、戦後に画材店からスタートして、60年前後にギャラリストとしての活動を本格化させました。愛知で現代美術を専門とした画廊の先駆けです。若い作家には出世払いで画材を提供することもあったようです。

東京の著名なギャラリストからも信頼され、アンフォルメル、反芸術、もの派など新たな芸術運動を担った内外の著名な作家の作品も紹介しました。「見る人に媚びた作品は扱わない」「今日生きている証として、最先端を追求したい」と言い、亡くなる直前まで、作家と並走したギャラリストでした。

晩年に周囲が高齢を気遣って閉廊を進言すると「死ぬまでやる。やめさせるならこのビルから飛び降りて死んでやる」と画廊活動にかける強い熱意を露わにしたと言いますが、女傑というより、サバサバした感じの女性でしたよ。 

「桜画廊とその周辺」の章の解説パネルを読む馬場さん。手前は藤田さんの助言役も務めた久野真の「石膏による作品 P.L3×6-U」(1957年)

 

 61年に私が現代美術に目を向けるきっかけとなった「駒井哲郎作品展」を企画したのは「サカエ画廊」でした。

展覧会を見てすぐに作品が欲しくなり、相談したところ、購入代金の月賦払いを認めてくれました。作家だけでなく、美術愛好家、コレクターの卵も育てようという思いだったのでしょう。画廊主は目の利く方でしたが、60年代前半を中心に活動しただけで閉廊してしまい、残念でした。

 

句画集

桜画廊から育った森眞吾さんには思い出があります。森さんは、その後、ギャルリーユマニテ、続いて白土舎(はくとしゃ)という画廊を拠点に活動していましたが、ある時「シリーズで作品を作るので、俳句をお願いできませんか」というコラボレーションの提案があり、喜んで引き受けました。その中に、花に似たイメージがあたかも風に虐げられたかのような図像の作品があり、それに誘発されて「風神の足蹴にしたる牡丹かな」という句が生まれました。これはその後、詩人の大岡信さんが朝日新聞に連載していた「折々のうた」で取り上げられました(2001429日掲載)。この森さんとのコラボレーションは『幻視の博物誌』(森眞吾との句画集)として出版されました。美術作品を題材に句を詠むことは時々あるのですが、一般的に抽象的な作品の方がやりやすいですね。具象ですと描かれたものに引っ張られて説明的になることを避けねばなりませんので。

森眞吾「きいろの角」1964年

 

芸術系大学と予備校

愛知県では60年代半ばから芸術系大学が立て続けに3校、開校しました。愛知県立芸術大学(開校66年)、名古屋造形芸術短期大学(同67年、現名古屋造形大学)、名古屋芸術大学(同70年)です。大学の教育者として集まった美術家たちが、愛知で活動を始めました。さらに名古屋に本部を置く大手予備校の河合塾が、70年に芸大コース 油絵科・デザイン科を発足させ、ついで芸大進学特別コース(のちの河合塾美術研究所)を開設し、80年にはギャラリーNAFという画廊を併設しました。美術家でエッセイストでもある谷川晃一さんらが企画した河合塾の講演会には、横尾忠則さん、東野芳明さんなど気鋭の美術家、批評家が講師として呼ばれました。

 79年、活動拠点のニューヨークから一時帰国中だった荒川修作さんが、河合塾に場を求めて若者に芸術論を語ったことがあります。私は寸暇を得て聞きに行きました。居合わせた新聞記者からその日の話について寄稿するよう依頼され、2000字ほどの原稿を書きました。初めての荒川修作論でした。するとそれを読んだ荒川さんが「会いたい」と私の自宅まで来たのです。その後の長い付き合いの始まりとなりました。河合塾が結んでくれた縁と言えるかもしれません。

現在、私は愛知県立芸術大学美術学部の客員教授を務めていますが、開校して半世紀を超え、さまざまな作家を輩出しています。「目の服」(1993年)の設楽(したら)知昭さんは、「Painters」(2009年)を描いた坂本夏子さんの学生時代の指導者にあたります。師弟とはいえ、世代の違いがはっきり見てとれますね。

設楽知明「目の服」(1993年) 「設楽さんの世代は素材や技法を含めて色々なことを検討しなければならなかった世代だと思います」(副田さん)

 

坂本夏子「Painters」(2009年)を見る馬場さん。「五感のゆがみのような感覚があります」

 

医師のまなざし

振り返ると、作家を始め、画廊主や批評家、美術館の関係者など、美術界との接点が増えました。中には私の患者になった方もいます。

大正時代に渡米し、アメリカ、メキシコに計約20年滞在した洋画家・北川民次さん(1894-1989年)は、帰国後、奥さんの実家がある陶磁器の町、愛知県瀬戸市や、隣町の尾張旭市を拠点に活動しました。名古屋のテレビ局にお勤めのご子息ともお付き合いがあったのですが、そのお子さん、つまり民次さんのお孫さんの扁桃(へんとう)が腫れたとの相談があって、わざわざ私を訪ねて大学病院へおいでになったことがありました。

ある著名な彫刻家の扁桃も切りました。関東にお住まいでしたが、皮膚の変調の原因として慢性扁桃炎があり、名古屋に来てもらって診察、手術をしました。

美術館関係者にも、患者さんがいましたね。ある公立美術館の館長さんが突発性難聴になったというので、早目に病院に行くことをすすめたところ、翌日名古屋の私のところに現れました。内耳の細い血管が一時的に閉塞して聞こえなくなる病気です。急いで処置をしたところ回復し、以来私は「名医」ということになっています。大変クスグッタイのですが。

北川民次「南国の花」(1940年)の前で、扁桃手術にまつわる思い出を語る馬場さん

  

桜画廊の藤田八栄子さんは、ご実家が岐阜県の開業医だったのですが、ある時電話がかかってきて「相談がある」といいます。既に寿命が尽きるのを覚悟されていたらしく、最期の時には献体を、という申し出でした。医学部生の解剖用に、ご自身の体を提供したいというのです。画廊経営と同様、真摯な生き方を感じました。ご終命間際には、私のいた大学病院に入院していただき、ご遺志を遂げさせていただきました。

  

今後に寄せて

何ごとも時代とともに変化が起こるのは避けられません。付き合いのあったギャラリストの中に、昨今の美術界、美術市場の経済優先の流れに異和感を感じ、作家をじっくり育て上げることがだんだん難しいと見て閉廊してしまった方がいました。立ち寄ると、作家やコレクター、批評家など、誰かがいて、自然に話がはずむ画廊でした。規模は小さくても意志と見識を持っている画廊が活力を失わないことを願わずにはいられません。

「アイチアートクロニクル」展と図録は、愛知の美術界の歩みを確認し、記録する意義深い展覧会です。今後、これを起点にした企画、研究を楽しみにしています。

 

 担当学芸員の副田一穂(そえだ・かずほ)さんにもひとこと伺いました。

 副田さんの出身地は福岡県。東京の大学で学んだあと、約10年前に同美術館に赴任してきました。愛知の美術界の歩みを知ろうとした際、通史的な文献や文字化された記録があまりないことに気づき、「それならば自分で取り組んでみよう」と考えたのが企画の発端と言います。「よそ者だからできた企画。地元の作家から『なぜ自分を外したのか』などというクレームはあるかもしれませんが」と明かしてくれました。「次は海外に雄飛した愛知出身の作家ですか?」と水を向けると、「それも含めて第2、第3のクロニクル展を考えたいですね」と答えが返ってきました。

(聞き手:読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)

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