崖っぷちの奇想建築 ― 解体が決まった旧「都城市民会館」 【きよみのつぶやき】第15回

ベテランアート記者・高野清見が、美術にまつわることをさまざまな切り口でつぶやくコラムです。

 

旧「都城市民会館」(2019年1月18日撮影)

菊竹清訓の代表作

戦後日本建築を代表する建築家の一人、2011年に83歳で死去した菊竹清訓(きくたけ・きよのり)が設計し、1966年に宮崎県都城(みやこのじょう)市に完成した旧「都城市民会館」の解体が決まった。

3月19日に解体費用約1億9200万円を盛り込んだ2019年度一般会計当初予算案が市議会で可決され、早ければ6月中にも解体工事に着手するという。まさに消滅寸前だ。

旧「都城市民会館」は市制40周年を記念して建設された。鉄筋コンクリート造の一部に鉄骨造を組み合わせた2階建て。乳母車の幌がヒントになったとも言われる大屋根に、鉄骨の梁(はり)が扇状に突き出したハリネズミのような外観は遠くからも目立ち、ランドマークとして親しまれた。

しかし、新しいホールの完成を受けて20073月に閉館。都城市議会が解体を決議したが、日本建築学会などが「メタボリズム建築の最も重要な代表作の一つで、世界的にも知られている貴重な財産」と文化財としての価値を理由に保存を要望し、解体か保存活用かをめぐって長く議論が続いてきた。その間には、県内の学校法人に20年間無償で貸与する契約を結んだものの、多額の費用が見込まれる改修などが壁となり、活用されることなく終わった経緯もある。

旧「都城市民会館」の遠景。右はホール、左は結婚式などに使われた低層部

メタボリズム建築とは?

新陳代謝を意味する「メタボリズム」は1960年、評論家の川添登を中心に建築家の菊竹、黒川紀章、大高正人、槇文彦らと、デザイナーの栄久庵憲司、粟津潔らによって提唱された運動だ。都市計画や建築設計で、将来の社会や環境の変化に応じて増築や一部交換、用途変更などを行っていくことを前提にした実験的な作品や構想を発表した。旧「都城市民会館」も建物上部や設備を鉄骨造にすることで交換や改修を行いやすくし、長く使い続けられるように設計されたという。

「メタボリズム」は日本発の建築運動としてむしろ海外でよく知られてきた。持続可能な社会が求められる今日、その設計思想と建築作品はますます注目され、東京・銀座にある黒川氏設計の集合住宅「中銀カプセルタワービル」(1972年完成)はアクセスが容易なこともあって海外からの旅行者が多数訪れている。
ただし、理論と現実が必ずしも一致しないのもまた事実。「中銀カプセルタワービル」はカプセル単位の住戸が老朽化すれば交換できる設計だったが、これまで一度も行われていない。区分所有者の間で保存と解体をめぐる対立が続く中、黒川氏は2007年に亡くなるまでカプセル交換を提案し続けていた。

黒川紀章設計の「中銀カプセルタワービル」

市民の8割以上が「解体」支持

都城市が2018年7月に行った旧「都城市民会館」に関する市民アンケートでは、「保存活用」を選んだ回答が15.3%(1388人中、210人)だったのに対し、「解体」は83.5%(同、1150人)に達した(調査対象4000人、回答率34.4%)。
改修には多額の費用を必要とし、活用案の公募にも実現可能な提案はなかったとして、同市は2019年2月5日に解体方針を発表。読売新聞宮崎県版の記事によると、池田宜永市長は記者会見で「(旧市民会館に)思い入れのある市民もいるとは思うが、(老朽化などが進む)現状やアンケートの結果を踏まえれば、解体はやむを得ない」と述べたという。

国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の諮問機関・国際記念物遺跡会議(イコモス)を構成する組織の一つ、「20世紀遺産に関する国際学術委員会」は2月4日付で解体中止を求める文書を市に送ったが、同18日に市は「解体方針は変更しない」とする見解を改めて示した。

鉄の梁が放射状に延びる力強い外観

旧「都城市民会館」の魅力

「都城市が近く解体方針を発表する」と報じられていた今年1月、休みを取って現地を訪れた。閉鎖された建物内部に入れないことは分かっていたが、この有名な「菊竹建築」をせめて一度だけでも眺め、写真に撮っておきたかったからだ。

JR日豊本線の西都城駅から歩いて5分、青空を背景に見えてきた打ち放しコンクリートの躯体は、想像していたよりも小さかった。しかしカメラのファインダーで大屋根や鉄骨の梁をアップにして眺めると、実にダイナミックな表情で迫ってきた。

望遠レンズで眺めた大屋根の迫力

 

近年開かれた戦後日本建築の回顧展や、国立近現代建築資料館(東京・湯島)の「建築のこころ アーカイブにみる菊竹清訓展」(2014年10月~2015年2月)でも、旧「都城市民会館」の模型や写真は存在感を放っていた。それだけに、奇想建築とでも呼びたいその外観を何となく見慣れた気でいたが、現物を前にして改めて発見したことがいくつもあった。

たとえばファサード(建物正面)に回ってみると、離れて見ていた時の荒々しい印象とは対照的に、市民を迎え入れるように総ガラス張りの明るいデザインとなっている。一歩下がって仰ぐと、ファサードの開放的な空間を生み出すために、コンクリートの太い柱と梁が大屋根を力強く押し上げているのが見て取れた。

屋根とは対照的に、整然とした美しさを見せる正面玄関
コンクリートの太い柱と梁が大屋根を支えている

1960年代「菊竹建築」の輝き

一般に菊竹建築といえば、沖縄海洋博の海上都市「アクアポリス」(1975年)のほか、江戸東京博物館(1993年)、九州国立博物館(2004年)など近年の作品が知られている。
だが、実は1960年代こそ「生涯で最も光り輝いた作品を残した」(菊竹事務所OBの建築家・伊東豊雄氏が読売新聞に寄稿した追悼原稿から)時代。1963年完成の出雲大社事務棟「庁の舎(ちょうのや)」(日本建築学会賞、現存せず)、1964年完成の「ホテル東光園」(鳥取県)、1966年の都城市民会館など、一連の大胆なデザインで建築界の話題をさらった。

私にも鮮烈な記憶がある。
山口県萩市にある萩市民館は、日本海に面した山陰の城下町の中心部に1968年に開館した菊竹建築。2019年5月14日放送のテレビ東京「開運!なんでも鑑定団」の出張鑑定の収録に使われるなど、今でも市民に親しまれている。
開館から4年後の1972年、私は道を隔てて向き合う萩市立明倫小学校(2014年に隣地に移転)に入学した。広島に転校するまでの4年間、毎日眺めていた白亜の大屋根は、長州藩の藩校「明倫館」の伝統を受け継ぐ昭和初期の木造校舎群と対峙(たいじ)するかのようだった。

1974年には萩市民館の隣に菊竹設計の市庁舎が完成したが、こちらは一転して茶色い鋼板(コールテン鋼)で覆われた建物。城下町の静かな眠りを覚ますように出現した二つの建物は、生まれて初めて見た現代建築、菊竹建築として忘れがたい。

萩市民館= 2013年9月撮影
萩市庁舎 = 2013年9月撮影

日本建築学会の悲痛な訴え

建築関係者で組織する学術団体・日本建築学会は2018年8月、都城市長に提出した「都城市民会館再生活用計画に対する事業提案期間の延長のお願い」という文書で、戦後の復興期に全国各地で建てられた建築が危機に瀕していることを訴えている。長くなるが悲痛なその言葉を引用したい。

《(前略)いわゆる焼け跡からの復興期に、近代日本の再興を願う当時の先駆的な人々が、次代を担う多くの若い世代の人材育成のために、渾身の力を込めた都市づくり、まちづくり、郷土づくりに努められた成果が、各地に建設された幾つもの輝かしい戦後近代建築に結実しております。しかしながら、今日ではそれらの多くも耐震上の理由や老朽化などにより、次々と取り壊されつつあるのが実情で、現在に残るものの中では、都城市民会館は確実に全国で五指、十指に入る屈指の建築であると言えます。
(中略)幸運にも私たちの願いが届き、この都城市民会館が保存再生された暁には、日本建築学会が学術団体としてお役に立てることに関して、最大限のご協力をさせていただきたいと思います。》

第55代会長を務める建築家・古谷誠章(ふるや・のぶあき)氏の名前で出された要望書が憂える通り、戦後に地方で建てられた庁舎などの公共建築は急速に失われつつある。厳しい地方財政の中、自治体が多大な改修費と維持費を投じてそれらを守っていくのは容易ではなく、旧「都城市民会館」のように市民の賛同を得られないのが実情だ。
それに、たとえ「世界的に評価が高い」と言われても、文化財として保存活用を図るには建物の規模が大きく、地方の一自治体の手に余る。都道府県や国、さらに日本建築学会などの学術団体が連携して知恵を絞らなければ、保存と活用はとてもおぼつかない。

6月に「反省」のシンポジウム

旧「都城市民会館」の解体決定を受け、近代建築の保存を求める国際組織DOCOMOMOの日本支部である一般社団法人「DOCOMOMO Japan」(ドコモモ・ジャパン)は6月29日、東京大学工学部1号館(東京都文京区本郷)で緊急シンポジウム「都城市民会館はなぜ解体にいたったのか? ―メタボリズム建築の過去・現在・未来―」を開催することを決めた。

関係者の中から「反省会」という声も漏れてくるシンポジウムでは、「専門家による閉じた議論」「一般市民の無関心」などの課題にも向き合い、「中銀カプセルタワービル」など他のメタボリズム建築の現状も踏まえつつ、建築保存への方策が議論される予定だ。
私も聴きに行き、建築史家や建築家たちの率直な発言に耳を傾けたい。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 高野清見)

●菊竹清訓(1928~2011年)
福岡県久留米市生まれ。早稲田大学建築学科卒。1960年に「メタボリズム」グループに参加。自邸「スカイハウス」(1958年)は四本の柱で支えた屋根の下に交換可能な家具や小部屋を取り付けたメタボリズム建築で、戦後日本住宅を代表する一つとされている。日本の土地不足に対応するため、人工土地による海上都市、塔状都市の構想も発表し、沖縄海洋博では海上実験都市「アクアポリス」が話題を呼んだ。

iPhoneのパノラマ機能を使って撮影した旧「都城市民会館」

直前の記事

詩人・平田俊子 × 「クリムト展」 【スペシャリスト 鑑賞の流儀】

「スペシャリスト 鑑賞の流儀」は、さまざまな分野の第一線で活躍するスペシャリストが話題の美術展を訪れ、一味違った切り口で美術の魅力を語ります。 今回は詩人の平田俊子さんに、東京都美術館(東京・上野公園)の「クリムト展」を

続きを読む
新着情報一覧へ戻る